14話 虚空
龍一が廊下で歩きながら、総一郎と話していた。
内容は、古藤満の事だった。
龍一が苦戦を強いられた相手、ミサエル・ジャルマー。
そのミサエルを一切寄せ付けず、倒してのけた相手、それが古藤満。
満は反対ブロックではあるものの、龍一は警戒していた。
「正直、このトーナメントはレベルが高いけど、ミサエルも所詮は難なく突破できるだろう。だから、満の危険度は知っておかなくちゃ」
龍一が腕を組みながら、総一郎に話していた。
「さて、お手並み拝見だ」
総一郎が、リングに目を向けた。
「古藤満、身長百八十九センチ、体重百十一キロ。時牧戦録、十二勝無敗」
右目を隠す、黒い髪が揺れる。
満の左目が、相手を睨む。
「佐島虚郎、身長百七十八センチ、体重六十五キロ。時牧戦録、十勝無敗」
黒い髪が顎先まで伸び、両目が見えにくい。
身体は痩せ形で、肋が見えかけていた。
「審判は私、登 明凡が務める」
その言葉を発し終えると、満と虚郎は距離を取った。
「始め!」
声が上がった。
最初に、虚郎が動いた。
腕の位置や姿勢はボクシングのようだが、手は少し開いていた。
初撃、左ジャブ。
満の顔面に向かって飛んでいく。
だが拳ではなかった。
二本、人差し指と中指が立っている。
目突きだ。
満の両目に向かって、二本の指が飛んできている。
その向かってくる左手を、叩き落とす。
すると、今度は虚郎の右手が、目突きを狙ってきた。
しかし、また叩き落とされる。
「ツィッ」
舌打ちにも聞こえる音が鳴り、両手が何発も向かってくる。
観客たちも、気づき始めた。
虚郎が、目突きを狙っていることに。
反則ではない。
しかし、格闘士は殺戮者ではない。
自ら目突きを狙うようなものは少ない。
虚郎は、目突きをする人間だった。
観客たちは知らない。
何故か。
今までの十試合、純粋な打撃だけで挑んできた。
このような戦い方をする虚郎を、観客たちは知らなかった。
虚郎の指が、満の目に迫る。
だが、届かない。
何発撃ちこんでも、当たらない。
そして、右手が飛んできた時、満の左手が、虚郎の右手首が掴まれた。
困惑している虚郎の顔に、満の左拳が飛んできた。
当たった。
鼻っ柱をへし折り、突き飛ばした。
周りに血が飛び散る。
虚郎の背中が地面にぶつかる。
満は追撃に、駆け寄りながら右拳を振り上げた。
このまま追撃すれば、虚郎を殺すことさえできるだろう。
けれど、満は攻撃を止めた。
なぜ止めたのか、観客の声に、疑念が生まれる。
その疑念の中、虚郎が立ち上がった。
虚郎が、折れた鼻をつまむ。
そのつまんだ指に、力を込め、動かした。
数秒後、虚郎の鼻の形が、真っすぐになっていた。
虚郎の体は、特異体質だった。
痛みを分泌する脳の頭頂葉の部位が、人よりも小さいのである。
故に、人一倍痛みに強く、無理もできる。
虚郎の体が、満に向かって進み始めた。
ゆっくり、ゆっくり。
警戒してるのか、満は動かない。
いや、少し違った。
警戒しているのは合っている。
だが、動かない、ではなく、防御を固めているから、動けない。
両腕を立てて、頭の横に置いてある。
その満に、虚郎の体が近づいてきた。
虚郎が、拳を上げる。
左拳を、頭の後ろにやっている。
左足が後ろに、右足が前にある。
右手は、右足の太ももの横だ。
虚郎が左拳を、満の顔面へ打つ。
唯一開いている顔面だ。
拳が満の顔面に触れる。
瞬間、虚郎の体が吹き飛んだ。
満は、虚郎の拳が当たると、頭を後ろに動かして、威力を消し、そのまま右足を虚郎の胴に打ったのだ。
虚郎は、防御が薄いところに打ったのだ。
時牧戦録、十二勝無敗、古藤満。
それがわからない男ではない。
満は、警戒しながら考えていた。
どう出し抜くか。
結果、顔面への防御を薄め、狙いを一つに絞らせた。
相手が、外傷をものともせず、警戒心が薄い虚郎だったからこそである。
満の蹴りによって、虚郎はリング端まで吹っ飛んだ。
虚郎が顔をしかめる。
痛みはほぼない。
だが、気分が悪い。
気持ちが悪い。
身体の奥底から、マグマのように湧き上がってくるものがある。
痛みや、そういう類ではない。
虚郎の足元が、赤く染まった。
虚郎の目が、赤くひび割れる。
「殺殺殺殺殺サツsatuさつサtu」
虚郎が駆け出した。
両手を下げ、前傾姿勢で駆けていく。
そして、勢いのまま満の顔に向けて、右手を振った。
力は入ってなかった。
虚郎の生み出した、遠心力を利用して、相手を叩く技、
止められた。
右手で、虚郎の右手首を抑えている。
虚郎の目が、大きく見開く。
そんな虚郎に、満の左拳が飛んできた。
虚郎の体が飛び、背を地面につけた。
満は今、両腕が重なっている。
右腕が下、左腕が上だった。
満は、その腕を重ねたまま、虚郎の体へ飛び込んだ。
虚郎の首に、両腕が落ちる。
「ゲバッ」
満の顔面に、虚郎の血が飛び散る。
満はそのまま体重をかけ、首を抑えた。
虚郎は、掠れた呼吸のまま、右手で攻撃を仕掛けた。
満の左肋に、虚郎の右人差し指が迫った。
満は冷静に、上半身を浮かせて、攻撃を避けた。
そのため、両腕が虚郎から離れている。
虚郎はなんとか脱出しようと、体を動かそうとした。
だが、満の左手で、右腕を掴まれてしまった。
そしてその右腕を、左脇に挟み込み、自分の方へ引く。
左前腕で、上腕を相手の方へ押した。
ミリミリと、肘から音が鳴る。
正確には、靭帯からだ。
虚郎が上半身を、少し起き上がらせた。
靭帯を千切られないようにするためである。
その浮かび上がった頭に、満の右肘が落ちてきた。
顔面直撃。
轟音を立てて、落ちた。
満が、右手を解く。
登が近づいて、状態を確認すると、腕を振り上げた。
「勝負あり!」
どっと歓声が沸いた。
龍一は、冷や汗を垂らしていた。
「あれが、古藤満…」
総一郎は、そんな龍一を横目で見る。
「強いな。勝てるか?」
「…分からない。機転力では、劣るかもしれない」
「機転力?」
「その場その場にあった行動を、瞬時に見極める力」
龍一が、地面に目線を移す。
「決勝まで上がってくるかも」
「…なるほどね。でも、まぁ…」
「まぁ?」
「対戦相手も強そうだが」
葉山浩二控室。
控室には、サンドバックがあった。
もちろん、時牧が設置したものではない。
葉山が持ち込んできたものだ。
「シュッ」
息を飛ばした。
サンドバックに、右ミドルがはいる。
「シッ」
左カーフ。
右ストレート、左ロー、右ジャブ、右ハイ。
強烈な連撃が、サンドバックに直撃していく。
汗を垂らし、葉山がサンドバックに背を向けた。
「フッ」
左に回転し、左踵を、天高く打ち込んだ。
すると、サンドバックに傷が入る。
そこから中身が、ポロポロと出てくる。
そして葉山が、右足を高く振り上げ、踵を振り下ろした。
サンドバックに、大きな傷が入った。
入った瞬間、ざらざらと中身がすべて出てきた。
葉山浩二、キックボクサーである。
宇田滉控室。
上は白、下は黒の道着を着ている。
正座だ。
控室の真ん中、中央に鎮座している。
黒い短髪、眉毛は尖り、同じ黒色である。
口は数センチだけ開き、目を閉じている。
滉の武術は、合気道。
宇田流合気護身術、その現当主である。
宇田家の子息には、当主になる条件があった。
それは、兄弟内で勝ち上がる事だった。
合気で。
だが、滉の代は、後継者が滉しかいなかった。
そのため、条件はほぼないようなものであった。
滉の実力は、現存する、父、
滉は、実力を高めるため、裏格闘技に身を投げた。
しかし、実力はまだ届かない。
滉の目が開いた。
「葉山浩二、身長百八十四センチ、体重七十八キロ。時牧戦録、十三勝無敗」
黒い髪、眉、瞳。
ハーフパンツのみ、履いている。
「宇田滉、身長百八十二センチ、体重八十一キロ。時牧戦録、十八勝無敗」
道着のまま、リングに上っている。
「審判は私、正 夢坂が務めます」
夢坂が、二人に目を配る。
「始め!」
試合が始まる。
葉山が突っかけた。
構えながらの突進ではない。
短距離走を走るような、そんな姿勢で駆けていた。
滉に迫っていく。
そして、滉に向けて、右ハイを放った。
滉は、後ろに躱す。
「シュッ」
息を漏らし、滉に畳みかけた。
パンチによるラッシュだ。
葉山は蹴りを打てる。
だが、打たない。
いや、打てない。
打てない理由は、距離。
遠すぎると蹴りは当たらず、近いと当たったとしても威力は半減し、掴まれる可能性もある。
もちろん、葉山は、蹴りの距離を取ることができる。
ならなぜ打てないのか。
滉が、少し距離をずらしているのだ。
だから、パンチのみで戦っている。
しかし、問題はなかった。
葉山は、拳による攻撃の鍛錬を、怠ったことがなかった。
徐々に、徐々に、滉は追い詰められていった。
段々と、スピードが上がりつつある。
回転力のみならず、拳速も。
そして、滉をリング端に追いやった。
下がることのできない滉の顔に、右ストレートを放つ。
直撃。
赤い血が、飛び上がった。
だが当たった代わりに、右手首を滉に掴まれてしまった。
左手で、がっしりと掴んでいる。
葉山は、後ろに体を引き、逃れようとした。
無理だった。
身体が動かない。
どころか、足が上がらない。
冷や汗が、顎を伝り、地面に落ちた。
その瞬間、ガクッと、葉山の体が崩れた。
両膝を、床につく。
口を開き、唖然としている。
滉が、手首を左に捻った。
すると、葉山の体が、左に回転した。
葉山から見たら、右だ。
回転した勢いで、側頭部を地面に打ち、頭頂部、左側頭部を順に打っていき、最後は左半身を地面に打ち付けた。
「かはっ」
葉山の肺が圧迫される。
葉山の体から、空気が一気に抜けていった。
空気が抜けたことで、血の周りが遅くなり、目の前がゆがむ。
脳に血が行き渡らず、思考が一瞬止まった。
目が虚ろになった瞬間、滉が足を上げた。
右足だ。
その右足を、葉山の顔面に向かって、思い切り落とした。
葉山の顔面に当たる。
グチョッと、嫌な音が鳴った。
滉の足が、赤く染まる。
滉は床に足を下ろし、葉山を見下ろしてから、手を離した。
手が離れ、葉山の右腕が、落ちていった。
葉山の右腕が、地面に触れるとき、手首が回転し、掌が地面に触れた。
「なっ」
滉が声を漏らす。
葉山が、勢い良く立ち上がる。
顔を血に染め、床にボタボタと溢しながら。
左目が、半目になっている。
先ほどの踏みで、瞼が落ちている。
口で大きく呼吸をしている。
鼻がつぶれ、十分に息が吸えないのだ。
重傷、のはずだ。
だが、滉の目には、赤く燃え上がっているように見えた。
それが、葉山なのかはわからない。
ただ、笑っていた。
踏み込んだ。
今度は、滉からだ。
右手を突き出す。
右手は、通常の拳ではない。
前に龍一が見せた、鳳眼拳である。
人差し指を、第二関節で折り曲げた拳だ。
両の拳が、そうなっている。
通常の拳よりも、一センチほどリーチが長いが、先ほどの滉のように、下がって避けていた。
左手を突き出す。
避ける。
右、左、右、左、右。
交互に突き出して言った。
そして、幾度か目の右。
避けられた。
しかし、次の一手が違った。
右足を前に出し、もう一度右拳を突き出す。
その多少のずれで、均衡が変わった。
当たっていなかった拳が、葉山の眉間を捉えた。
突き出ているところが、眉のちょうど真ん中に当たった。
葉山の頭が、後ろにつき飛ぶ。
その次に起こったこと。
葉山の均衡が崩れた。
反撃をせずに、避けるという、均衡が崩れる。
左ジャブ。
滉の顔面に向かって放った。
しかし当たらなかった。
残り数ミリ程度の所で、届かなかった。
その理由は、脳の揺れ。
滉によって疲れた眉間。
それによって、脳が前後に揺れ、空間の認識が正確ではなくなったのだ。
故に、外れてしまった。
滉が、葉山の右肩を掴んだ。
ドォンと、地面に激突した。
頭からだった。
葉山の顔が、床に少しめり込んでいた。
顔と床の間から、血が広がっていく。
それを見て、夢坂が顔をしかめ、左手を上げた。
「勝負あり!」
声が、部屋中に響き渡った。
観客たちが、燃えるように叫んでいる中、滉はゆっくりと控室に戻っていった。
控室の扉を、ばたりと閉める。
ため息をつき、帯に両手をかけた。
するすると、慣れた手つきで、道着を脱いでいった。
道着を脱ぎ終わると、椅子の上に置いてある、洋服に手をかけた。
滉は、洋服を着終わると、脱いだ道着に目を向けた。
黒い帯の端には、宇田流合気道と、白い文字で書かれている。
滉が目をそらした。
14話 虚空 終
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