第3話

「あああ、あの、あんたもしかして新しい人?」

「新しいってのはなんだ」

「あの、ほら、あれだよ」

 つまり、そういうことか。俺が追い払った男は、この女に薬を売っていたのではないか。

 めんどうくせえ。知ったことか。

 不法投棄の現場に面倒な誰かが現れた時、俺が告げる台詞は決まっていた。

「俺は、不法投棄があると聞いて、調査に来たもんだ。役所の人間だ」

 ひ、と女の顔が引きつった。案の定、だ。

 この言葉を聞いて安心したり喜んだりする連中は、そこらの一般人だ。役所が確認しに来たと思えば、数日は大人しくしていてくれるから、その間に俺は行方をくらませればいい。

逆に、こいつのように顔色が変わるなら更にいい。だいたいは後ろ暗い連中で、役所と関わるのを避けたがるからだ。ましてや警察にたれこむなんてできないだろう。

「で、何の用だよ? 役所に言付けがあるなら聞いてやる」

「いや、もういい。邪魔して悪かったよ」

 よろよろと女が道を戻ってゆく。行く先を見れば、橋のすぐ真横に俺の知らぬ石階段があり、女はそこからやって来たようだった。ほかに使う者がない階段はぼろぼろで手入れもされておらず、雨で石段下の土も崩れかけていてかなり危なっかしい。ひとりならともかく、ふたりも通ればあっさり崩れ落ちてしまいそうなもろさに見える。

 その後ろ姿を見やりながら、俺は呟いた。

「ありゃ、もう駄目だな」

ろくでもない連中からごみの廃棄を頼まれる手前、ああいう人間を見る機会も多い。だからわかる、あの女はもう手遅れだ。

 女の姿が見えなくなってから、俺は衣装ダンスに近づいた。

 タンスの前にトランペットがある。俺があの夜、確かにタンスの中に詰め込んだものだ。ということは、それを外に出した者がいる。

「おい」

 タンスの戸を開ける。

 小さく白い顔が、こちらを見上げた。

「やっぱり隠れてやがったか。パン食うか」

 問いかけると、うなずいてガキがタンスから這い出て来た。助手席からパンの袋を取って渡してやると、神社の鯉のような勢いでかじりつく。

「お前の言ってた神様ってのは、帽子の若い男か」

 まずいパンをほおばりながら、ガキが小さくうなずく。おそらくただの使いではないのだろうと思ったが、女とガキがどうあろうと、俺が干渉する話でもなかった。

 それより、今夜の仕事を終わらせねばならない。

 こう人の出入りがある以上、橋の下はもう使えないだろう。この場所にごみを捨てるのは、今日が最後だ。そう心づもりをして、俺は軽トラの荷台からごみを下ろした。パンと牛乳を飲み込んで、ガキがぽつんとこちらを見ている。

「見てないで手伝え。ごみ袋運んで来い」

 そう声をかけてみると、ガキが素直に荷台のごみを抱え上げた。ひょろひょろだが案外力は強く、満杯の大きな袋をひとりで担ぐくらいはできている。

「ここに置いていいの」

「いい。俺がそう決めた」

「そうなんだ」

「いらねえものは捨てていいんだ。どうせいつか、全部置いて川を渡るんだしよ」

 ごみ袋が闇に溶ける。こんな仕事が楽しいのか、女児は笑いながら荷を運ぶ。

「お前、年は」

「わかんない」

「学校は」

「わかんない」

「名前は」

「わかんない」

「じゃあ、お前の親はなんて呼ぶんだよ」

「呼ばない。……ママには、子どもがいちゃダメなんだって」

 言いたくないのか、本当に名前がないのか。正直どうでもよかったので、俺は適当にこう呼んだ。

「はあん、じゃあミチな。お前の名前」

「ミチ?」

「あのくそまずいパン屋と同じよ。『手作りパン・道』。名前がないなら何でもいいだろうが」

「ミチ。ミチかあ」

 何が楽しいのか、ガキが名前を繰り返す。何を張り切っているのか、ごみ袋を2つ抱えて運び出した。

「ミチよ、そっちの奥に捨てろ」

「うん」

 そうしているうちに一時間ほどが過ぎる。子どもとはいえ手が増えたからか、思いのほか早く仕事は片付いた。

「やる。駄賃だ」

 ポケットにあった五百円玉を二枚、ミチにくれてやる。

「お金だ」

「名前も分からねえのに、金は分かるのか」

「ユーチューブでみたことある」

「はん」

 外部から情報を手に入れる術はあったのか。それはそれで残酷な話だ。

 知識を仕入れる先があるなら、母親の薬を手に入れるために、自分が何をさせられていたのか、うすうす気づいていたのではないか。

「お金があったら、ものが買えるんだよね。チョコとかパンとか」

「まあな。なんならあのまずいパンでも買ってやるといい。その橋を渡って川を越えたら、そのまま道をまっすぐだ。」

 雨の中で顔をあげ、川の向こうを指さす。

 ミチは、黙ってその先を見つめていた。



 目の前の死んだ女の写真。

 顔色の悪い赤いワンピースのこの女は、あのタンスの中に押し込められていたという。

 こんなことをぼんやりと思い浮かべる。女がミチを探しに来る。ミチがあのぐらつく石階段へと逃げ、女がそれを追いかける。ふたりが乗った石階段は崩れ、女が足を滑らせて下へと真っ逆さまに落ちてゆく。

 真っ暗闇の橋の下。川の向こうへ行くために、いらないものを捨ててゆけばいい。

 あのガキは、それを実行したのではないか。

「いくら調べたって、俺からはごみ以外の何にも出て来やしませんよ」

 俺は殺していない。今のだってただの想像で、実際は死んだ場面すら見ていない。

「ほかを当たった方がいいんじゃないですかねぇ。この女の知り合いとか身内とか」

「お前に言われなくても、知り合いは当たっている。あと、身内はいない」

「へぇ、いないんですかい」

「ああ。この女は独身だった。女の家族に会ったものはいない」

 存在自体を誰にも知られず、名ももらえず年も知らず、もしかすると戸籍すらない子ども。母親のために『神様』呼ばわりの男の対価とされた、どこにも存在しないガキ。

まさか本当に幽霊だったのではないか。その方がまだ救われる。

「やっぱり、誰かがいらないものを捨てただけじゃありませんかねえ」

川のふもとに不要なものを捨て、真っ白なワンピースをひるがえし、まずいパンを夢見て小銭を手にミチは橋を渡る。

そこが彼岸なのかただの橋の向こうの町なのか、俺にとってはどうでもいいことだった。

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彼岸 田村 計 @Tamura_K

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