第4話「昇進試験と記憶の逆流」

長野支店で実績を上げリーダーに昇格してから、只野は営業成績で社内トップを維持し続けていた。

契約件数、顧客満足度、リピート率——どれを取っても文句なし。だが、入社9年目から毎年受けている管理職昇進試験には、なぜか一度も合格していなかった。


筆記は通る。面接で落ちる。


しかも、面接官は毎年同じ総務人事部の担当者——**乾(いぬい)**だった。


昇進試験の前夜。只野は長野支店の応接室に一人残っていた。


「……何が足りないんだ?」只野は、静かに呟いた。


現在の只野は、コピオと共にその記憶の中に“入り込んで”いた。

もちろん、若き只野には彼らの姿は見えない。

だが、コピオは記憶の断片に“問い”を刻むことができた。


「只野さん。彼に答えを与えるのではなく、“問い直す力”を残しましょう。彼が自分で見つけるように」


只野は頷き、営業手帳に一文を刻んだ。


「評価されないと感じたとき、何を“見られていない”と思ったか?」


それは、今の只野が過去の自分に向けて残した“問い”だった。答えではない。自分自身を見つめ直すための、静かなきっかけ。


その頃の若き只野は、長野支店の休憩室で一人、手帳を開いていた。

昇進試験に落ち続け、自信を失いかけていた時期。ページをめくると、そこに見慣れない一文が目に入った。


「……これ、俺が書いたっけ……?」


思わずつぶやいた。文字は確かに自分の筆跡に似ている。だが、書いた記憶がない。

不思議な感覚に包まれながらも、その言葉に目が釘付けになった。


「評価されないと感じたとき、何を“見られていない”と思ったか?」


只野は、ページを閉じずにしばらく見つめ続けた。心の奥に、静かに問いが広がっていく。


(俺は、何を見てほしかったんだろう。契約の数字?顧客との信頼?それとも、部下を守ったこと?)


その問いは、若き只野の中に小さな火を灯し


「明日、俺は“合格するため”じゃなく、“伝えるため”に話す。制度の中で、声を上げること。それが、俺の役割だ」


コピオは、若き只野には聞こえないが穏やかな声で応えた。


「それが、あなたの“覚悟”です。制度は、声を上げる者によって育ちます。あなたの言葉が、誰かの記憶になるかもしれません」


只野は深く頷いた。


「乾さんがどう判断するかは、もう気にしない。俺は、俺の言葉で話す」


その夜、只野は営業手帳を閉じ、静かに立ち上がった。部屋の窓から見える夜空には、星が瞬いていた。


2001年秋。昇進試験の面接室。只野は、深呼吸をして椅子に腰掛けた。目の前には、無表情な乾。資料をめくる手が、機械のように動いている。


「只野さん、営業成績は申し分ありません。しかし、昇進試験は“管理職としての資質”を見極める場です。公平性の観点から、営業実績は評価に含めません」


乾が最後の質問を投げかける。


「あなたが管理職になった場合、部下の育成方針は?」


只野は、一瞬だけ目を閉じた。そして、ゆっくりと語り始めた。


「部下の育成に必要なのは、“評価”ではなく“理解”です。数字で測る前に、彼らが何に悩み、何に喜ぶかを知ること。僕は、営業現場でそれを学びました」


乾が眉をひそめる。


「それは感情論では?」


只野は、静かに微笑んだ。


「乾さん。営業は“感情”で動く仕事です。契約は、信頼の上にしか成り立ちません。管理職も同じです。部下が信頼してくれなければ、指示は届かない。僕は、数字よりも“人”を見ます。それが、僕の育成方針です」


乾の目が揺れた。

その言葉は、かつて自分が部下を守った日の記憶を呼び起こした。

それは、今から十数年前。乾がまだ営業部の課長だった頃のことだった。

当時、乾の部下に「三枝(さえぐさ)」という若手社員がいた。数字には波があったが、顧客との信頼関係を築く力は抜群だった。


ある日、三枝が担当していた大口顧客との契約が、社内の“規定外の提案”によって成立寸前まで進んでいた。


しかし——

その提案は、社内ルールに照らすと“逸脱”とされる内容だった。

乾は、三枝の誠意と顧客との信頼関係を理解していた。

彼は、上層部に掛け合った。

「この提案は、確かに規定外です。でも、顧客のニーズに応えた結果です。三枝は、現場で信頼を築いた。ルールよりも、信頼を優先すべきでは?」


だが、上層部の反応は冷たかった。


「乾課長。あなたは“感情”で判断している。制度を守るのが管理職の役割です。例外を認めれば、組織が崩れます」


結果、三枝は契約を白紙に戻され、責任を問われて異動となった。

乾は、その夜、誰もいない会議室で一人、資料を見つめながら呟いた。


「俺は、守れなかった……制度の前に、声を失った」


それ以来、乾は“制度の守護者”として振る舞うようになった。

感情を排し、評価基準に忠実であることを信条とした。

あの日、乾は“感情に流された”と批判され、以来“型”に従うことを選んだ。

只野は、さらに言葉を重ねる。


「僕は、制度の限界を知っています。営業実績が“昇進の権利”になっても、“評価の対象”にならないなら、それは制度の盲点です。だからこそ、僕はここにいます。制度を超えて、“人”を育てるために」


沈黙が流れた。乾は資料を閉じ、深く息を吐いた。


「只野さん……あなたの言葉には、熱があります。しかし、それは制度を否定する危うさを孕んでいる。制度は、個人の感情や経験に左右されない“公平性”のためにあるのです」


只野は、乾の目をまっすぐに見つめた。


「公平性……それは、誰にとっての公平ですか?」

乾の眉がわずかに動いた。


「全員にとってです。だからこそ、営業成績のような“個別の成果”は排除する。昇進は、組織全体のルールに基づいて判断されるべきです」


只野は、静かに首を振った。


「乾さん。僕は、制度を否定しているわけではありません。制度は必要です。でも、制度が“人”を見なくなったとき、それはただの“枠”になります。枠に収まらない人材を切り捨てるなら、それは“公平”ではなく“均一化”です」


乾の目が鋭くなる。


「それでも、制度を守ることが組織の安定につながる。あなたのような“現場主義”が、組織を混乱させる可能性もある」


只野は、少しだけ微笑んだ。


「乾さん。僕は、現場で混乱を乗り越えてきました。混乱の中でこそ、人は育ちます。制度が安定をもたらすなら、僕は“揺らぎ”をもたらす存在でいい。人が制度に合わせるのではなく、制度が人に寄り添うべきです」


乾は、言葉を失ったように沈黙した。乾は、只野の言葉に沈黙したまま、視線を資料から外した。数秒の静寂の後、彼は低く、冷ややかな声で語り始めた。


「……只野さん。あなたのように、面接の場で制度そのものに意見を述べた人は、これまで一人もいません。皆、与えられた枠の中で、評価されることを望んできた。制度に異を唱えることは、昇進の場では“危険”とされてきたのです」


その言葉には、警告にも似た響きがあった。面接官としての立場、制度の守護者としての矜持——そして、かつて自分もその“危険”を避けてきたという苦い記憶が滲んでいた。

只野は、静かに息を吸い、そして言葉を返した。


「乾さん。僕は、昇進のためにここに来たわけではありません。僕は、“変えるため”に来ました。制度が人を黙らせるなら、それは“安定”ではなく“停滞”です。誰も意見を言わなかったのは、言っても届かないと思っていたからです。僕は、その沈黙を破るために、ここにいます」


乾の目がわずかに揺れた。只野の言葉は、かつて自分が封じた“声”を代弁しているようだった。

只野は、さらに言葉を重ねる。


「制度は、守るものではなく、育てるものです。人が育つことで、制度も進化する。僕は、現場でそれを何度も見てきました。だからこそ、今ここで、声を上げるべきだと思ったんです」


面接室の空気が変わった。冷たく硬かった空間に、わずかな熱が灯る。

乾は、資料を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。


「……制度を育てる、か。そんな言葉を、面接で聞く日が来るとは思わなかった」


只野は、微笑んだ。


「乾さん。制度の中にいる人間が、制度を変えられると信じています。僕は、その一人になりたい」


乾は、しばらく沈黙したまま資料に目を落としていた。ページをめくる手が止まり、指先がわずかに震えているのが見えた。只野はそれを見ても、何も言わず、ただ静かに待った。

やがて乾は顔を上げ、只野の目をまっすぐに見つめた。


「……今日は、いい話が聞けました。ありがとう」


その言葉には、評価でも賛同でもない、ただ純粋な感謝が込められていた。只野は深く一礼し、椅子から立ち上がった。


「こちらこそ、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」


乾は軽く頷き、面接用の資料を閉じた。部屋の空気は、先ほどまでの緊張とは違い、静かで穏やかなものへと変わっていた。

只野がドアに手をかけると、乾がふと声をかけた。


「只野さん。制度を“育てる”という言葉、忘れませんよ」


只野は振り返り、柔らかく微笑んだ。


「僕も、忘れません」


ドアが静かに閉まり、面接室には再び静寂が戻った。しかしその静けさは、先ほどまでの冷たさではなく、何かが動き出す前の、静かな予兆のようだった。

――制度の中で、声を上げる者が現れた。その一歩が、確かに刻まれた瞬間だった。

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