第3話 「怒号と異動命令」
新潟の朝は、冷たい。
雪は夜のうちに積もり、支店の前の歩道は白く覆われていた。
只野は、まだ若き自分の姿を見守っていた。
コートの襟を立て、営業カバンを握りしめるその姿は、どこか痛々しくもあり、誇らしくもあった。
支店の中では、朝礼が始まろうとしていた。
社員たちがぞろぞろと集まり、ストーブの前で手を擦っている。空気は重く、緊張感が漂っていた。
そこへ、江藤課長が現れた。
「おい、只野!昨日の報告書、まだ出してねぇぞ!」
怒号が支店内に響く。若き只野は、慌ててカバンから書類を取り出す。
「す、すみません…今すぐ…」
「今すぐじゃねぇんだよ!営業ってのはな、スピードとタイミングだ!お前みたいなトロい奴がいると、支店の数字が下がるんだよ!」
只野(現在)は、壁際に立ち、拳を握りしめていた。あの頃の自分が、どれだけ耐えていたかを思い出す。怒鳴られるたびに、心が削られていった。
だが、それでも辞めなかった。
「江藤課長…あんたは、確かに厳しかった。でも、俺はあんたに鍛えられたんだ」
コピオが静かに語りかける。
「只野さん、あなたの感情が高ぶっています。記憶の同期が深まっています。過去の出来事が、より鮮明に再生されます」
その日、若き只野は飛び込み営業に出かけた。雪の中、地図を片手に歩き続けた。断られても、方言がわからなくても、少しずつ会話の糸口を見つけていた。
夕方、支店に戻ると、江藤課長が待ち構えていた。
「契約は?」
「…ゼロです」
「はぁ!?何件回った!?」
「…87件です」
「100件回れって言っただろうが!しかもゼロ!?お前、営業向いてねぇんじゃねぇのか?」
その言葉に、若き只野は言い返すことができなかった。ただ、黙って頭を下げるしかなかった。
その夜、支店長室で会議が行われた。只野は呼び出され、支店長と江藤課長が並んで座っていた。
「只野くん、君には長野支店への異動を命じる」
「え…長野ですか?」
「新潟では結果が出ていない。長野は人手が足りない。環境を変えて、もう一度挑戦してみてほしい」
江藤課長は冷たく言い放った。
「新潟は地元意識が強い。よそ者には厳しい。お前には無理だったってことだ」
若き只野は、言葉を失った。悔しさ、情けなさ、そして不安が胸を締めつけた。
只野(現在)は、その場面を見ながら、静かに涙を流していた。
「俺は…あの時、本当に悔しかった。でも、長野に行って、初めて契約を取ったんだ。あの異動が、俺を変えたんだ」
コピオが応える。
「異動は敗北ではありません。環境の変化は、成長のきっかけです。あなたは、それを乗り越えました」
只野は頷いた。
「江藤課長の言葉は、今でも胸に刺さってる。でも、あれがあったから、俺は営業という仕事を本気で向き合えた。あの怒号が、俺を鍛えたんだ」
雪は静かに降り続けていた。新潟支店の窓の外には、白い世界が広がっていた。
只野は、若き自分の背中を見つめながら、静かに呟いた。
「行け、長野へ。お前なら、きっとやれる」
長野支店での営業活動が始まって数日。現在の只野は、コピオとともに過去の記憶領域にアクセスしながら、若き自分の行動を見守っていた。
新潟での手帳へのメモとは違い、今回は別の方法——音声干渉を使って、若き只野の意識に働きかけることを試みていた。
コピオの提案
支店の応接室。現在の只野がコピオに語りかける。
「新潟では手帳にメモを残した。でも、今度は違う方法であいつにヒントを与えたい。もっと自然に、気づかせるような…」
コピオの画面が静かに光る。
コピオ: 「只野さん、長野支店の記憶領域には、若き只野が通勤中に地元ラジオを聴いていた記録があります。そこに音声干渉を挿入することで、無意識下にヒントを届けることが可能です」
「ラジオか…あいつ、よく朝にAMラジオ聴いてたな。天気予報と農業ニュースの合間に、営業のヒントを流せるか?」
コピオ: 「はい。地域の方言を交えた“営業の心得”を、パーソナリティの雑談風に挿入します。自然な形で記憶に残るでしょう」
只野は頷いた。
「よし、頼む。あいつが気づくかどうかはわからない。でも、きっと何かが残るはずだ」
若き只野の朝、1992年、長野支店への異動から数日後。若き只野は、まだ慣れない街を歩きながら、ポケットラジオを耳に当てていた。
「…さて、今日の天気は晴れ時々曇り。気温は昨日より少し低めですね。農作業の方は防寒対策を忘れずに」
ラジオのパーソナリティが、軽快な口調で話す。
「ところで、最近うちの近所の車屋さんが言ってたんですけどね、“営業ってのは、売るより先に信頼を築くこと”なんだって。なるほどな〜って思いましたよ。方言で言うなら、“まずは心を通わせるだに”って感じですかね」
只野は、ふと足を止めた。
「…ん?今の言葉…」
耳に残ったのは、「売るより先に信頼を築く」というフレーズ。そして、「心を通わせるだに」という方言。
「…なんか、聞いたことあるような…いや、でも…」
彼は首をかしげながらも、なぜかその言葉が胸に残った。
その日、只野は郊外の農家を訪ねた。玄関先で、いつものように声をかける。
「こんにちは。グローバルモーターズの只野です。車のことで、なんか困っとること、あるだもんで?」
年配の男性が笑顔で応じる。
「おぉ、あんちゃん、言葉うまいな。よそから来たんじゃねぇのか?」
「新潟から来ました。でも、長野の言葉、少しずつ覚えてます。“まずは心を通わせるだに”って、ラジオで聞いたんです」
その言葉に、男性は目を細めた。
「そりゃええこっちゃ。営業ってのは、そういうもんだ。うちの軽トラ、そろそろ替え時かもしんねぇな」
支店の隅で、現在の只野は静かに微笑んでいた。若き自分が、ラジオの言葉をきっかけに変わっていく姿を見ていた。
「よくやった…お前は、ちゃんと受け取ったんだな…」
コピオが静かに語りかける。
コピオ: 「音声干渉は成功しました。若き只野の記憶に、営業の本質が刻まれました」
只野は頷いた。
「AIは便利だ。でも、最後に動かすのは“人間の心”なんだな」
「その通りです。私はあなたの“相棒”です」
秋の長野。空は澄み渡り、畑の土には朝露が残っていた。只野は、数日前に訪問した農家の門前に立っていた。手には見積書と契約書、そしてコピオが提案した資料が入った営業カバン。
玄関先には、前回対応してくれた年配の男性——小林さんが、薪を割っていた。斧の音が乾いた空気に響く。
「おはようございます、小林さん。先日はありがとうございました。今日は、先日お話しした車の件で、正式なご提案を持ってきました」
小林さんは斧を置き、額の汗を拭いながら笑った。
「おぉ、只野さんか。寒くなってきたなぁ。まあ、上がってくれや」
只野は靴を脱ぎ、畳の居間に通された。ストーブの上には鉄瓶が乗っており、湯気が静かに立ち上っていた。
「この前の話、うちの嫁さんとも相談してな。あんたの言う“ハイゼットジャンボ”、気になってるんだわ」
只野はカバンから資料を取り出し、テーブルに並べた。
「ありがとうございます。こちらが正式な見積もりです。荷台の広さ、燃費、補助金の対象、すべて確認済みです。あと、冬場の雪道対策として、スタッドレスタイヤもセットでご提案しています」
小林さんは資料に目を通しながら、静かに頷いた。
「ふむ…値段も悪くねぇな。補助金が出るなら、ちょっと背伸びしてもええかもしんねぇ」
只野は、少しだけ身を乗り出した。
「小林さん、僕が新潟から長野に来て、最初にお話ししたのが小林さんでした。正直、方言も文化も違って、最初は戸惑いました。でも、小林さんが“あったけぇ”って言ってくれた言葉が、僕の背中を押してくれたんです」
小林さんは、少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「そりゃ、あんたが真面目に話してくれたからだわ。営業ってのは、心が通わんと始まらん。車は道具だけど、買うのは人間だでな」
只野は、静かに契約書を差し出した。
「もし、よろしければ…こちらにサインをいただければ、正式にご契約となります」
小林さんはペンを手に取り、ゆっくりと名前を書いた。
その瞬間——只野の胸の奥で、何かが弾けた。
「…ありがとうございます…!」
声が震えた。小林さんは笑いながら、湯呑みを差し出した。
「まぁ、これでうちの軽トラも引退だな。あんたに任せてよかったわ」
只野は湯呑みを受け取り、深く頭を下げた。
「本当に…ありがとうございます」
支店に戻った只野は、報告書の契約欄に初めて「成立」と記入した。ペン先が紙を滑る音が、やけに心地よかった。
村井支店長が静かに声をかけた。
「只野くん、よくやったね。初契約、おめでとう」
只野は、少し照れながら答えた。
「ありがとうございます。でも、それ以上に…誰かの暮らしに役立てた気がして…それが、何より嬉しいです」
村井は頷いた。
「それが営業だよ。数字じゃない。人の暮らしに寄り添うこと。それを忘れなければ、君はきっと、いい営業マンになる」
只野は、手帳を開いた。そこには、あの日のメモが残っていた。
「信頼は、売るよりも先に築くもの」
その言葉が、今では自分の信念になっていた。
この契約は、ただの一台の車の販売ではなかった。それは、只野が過去の自分を乗り越え、AIとともに築いた“人間らしい営業”の証だった。
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