第6話 逃げ場なき夜


夜の路地は、不気味なほど静まり返っていた。

遠くの車の音すら、この一角には届かない。


怜司は足を止めた。

振り返れば、街灯の影に“怪物”が立っていた。

ただ、こちらを見つめている。動かない。それが余計に恐ろしい。


ポケットのノートがじりじりと熱を帯び、心臓と同じリズムで脈打つ。

「書け」と命じるように。


その時、スマホが震えた。

画面に浮かぶ名前は――「由紀」。

ありえない。彼女はもう、この世にはいないはずなのに。


怜司は迷いながら応答した。


「……由紀……?」


耳に届いたのは、掠れた声。


『怜司……どうして、助けてくれなかったの……』


胸が凍りつく。

その瞬間、怜司の脳裏に鮮明な映像が流れ込んできた。


──由紀と過ごした、何気ない日常。


大学の図書館。

並んで座り、参考書を開く由紀。

真剣な顔で問題を解きながら、時折ペンを噛みそうになって笑う仕草。


「ねえ怜司、ここ全然わかんないんだけど……」

「またかよ……しょうがないな」


肩を寄せ合ってノートを覗き込む。

その時の温もり。柔らかい笑い声。

あの瞬間、二人の時間は永遠に続くと思っていた。


だが、映像はすぐに別の記憶に塗り替えられる。


──あの雨の夜。

倒れ込む由紀。

怜司の方へ伸ばされた手。

助けられなかった自分。


「……違う……助けたかった……!」


喉から漏れる叫び。

だが、返ってくるのは由紀の声。


『信じてたのに……』


ノートが勝手に開き、白紙に黒い文字が滲み出す。


――犠牲を払うか。全てを失うか。


怜司は震える手でペンを握った。

ペンの感触が、かつて由紀の手を握ったときの温もりと重なり、全身を引き裂く。


書けば救われる。だが誰かが死ぬ。

書かなければ怪物が迫り、やがてすべてを飲み込む。


「俺に……そんな選択を……」


闇の中から、黒衣の女の声が響いた。


『選ばぬことも、また選択』


怪物が一歩、また一歩と近づく。

由紀の笑顔と、由紀の最期が交互に脳裏を焼き尽くす。

怜司は悟った。


――逃げ場など、最初から存在しなかった。

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