【正義】もっとも罪深い悪をやり遂げた者
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
戦争を終わらせるのは、善ではなく悪なのではないか?
戦争は本質的に悪である。なぜなら、戦争は必ず民間人を巻き込み、無関係の人々を犠牲にするからだ。兵士同士が戦場でぶつかり合っているように見えても、その背後では都市が破壊され、生活の基盤が失われ、子どもなどの弱者が命を奪われていく。戦争が進めば進むほど、犠牲となるのは軍人よりもむしろ市民であり、その被害の総量こそが「戦争の真実」を示している。ゆえに、戦争そのものが悪であることは疑いようがない。
しかし皮肉にも、悪を成さない戦争には終わりがないという逆説が存在する。もし軍と軍だけが戦い、民間人を徹底的に守り、生活基盤を破壊せずに純粋な戦闘だけを続けたなら、相手の社会や政治に揺さぶりをかけることはできない。国家の戦意は崩れず、戦争は長期化し、いつまでも終わらなくなってしまう。つまり「悪を成すからこそ戦争は終わる。そして、悪を成さない戦争は終わらない(終われない)」という残酷な構造があるのだ。
歴史を振り返れば、この逆説を象徴する事例がいくつもある。第二次世界大戦における都市への無差別爆撃は、戦局を動かすために民間人を直接標的とした行為であった。なかでも広島と長崎に投下された原子爆弾は、その最たる例である。数十万人に及ぶ市民が一瞬にして命を奪われ、あるいは後の放射線被害で苦しみ続けた。その犠牲は決して「誤爆」や「偶然」ではなく、意図的に選ばれたものだった。原爆は戦争を早く終わらせるために使われたと説明されるが、その論理の根底には「民間人を大量に殺すことで相手国の政治意思を屈服させる」という冷酷な計算があった(原爆は実験でもあるが)。
言い換えれば、民間人は人質として利用されたのである。敵の国民の命を握りつぶすことで、国家の指導者に降伏を迫る。これが戦争の現実であり、戦争が悪である何よりの証拠だ。
ここで浮かび上がるのが「勝者の正義」という問題である。戦争においては、勝った側が正義を名乗り、歴史を書き、敗者を裁く。だがその正義は純粋な善ではない。むしろ勝つためにどれほどの悪を行い切ったか、その徹底度こそが勝敗を決する。そして勝った側は、自らの悪を「正義のための犠牲」と言い換え、敗者の悪のみを断罪する。結果として、戦争における正義とは「もっとも罪深い悪をやり遂げた者」の別名にすぎないのではないか、という逆説が生まれる。
実際、原爆投下を含む民間人の大量殺戮は、戦争を早く終結させた「英断」とも語られてきた。しかし冷静に見れば、それは「最大の悪」を行ったからこそ勝利を得た、という事実である。勝利したから正義を主張できるのだが、正義であったから勝利したということではない。この倒錯が「勝者の正義」の本質であり、その正義の光は実はもっとも罪深い悪の輝きに過ぎない。
では、なぜ人類はこの矛盾を受け入れてしまうのか。それは戦争を終わらせるためには、誰かが徹底的に悪を成し遂げるしかないからだ。悪を拒み続ければ戦争は続き、犠牲は果てしなく増える。だが悪を選べば、その瞬間に罪の無い市民が人質として犠牲になり、その苦しみの上に平和が築かれる。つまり、人類は「悪による終戦」と「善による無限の戦争」という二つの地獄の間で選択を迫られてきたのである。
この構造の恐ろしさは、戦争が終わった後も続く。勝者は自らの悪を隠し、敗者の悪を誇張することで、歴史を自分に都合よく書き換える。そしてその物語を「正義」として後世に伝える。だがその正義は本物の善ではなく、最大の悪をやり遂げた者の勝利宣言に過ぎない。私たちは「正義の物語」に安心感を覚える一方で、その裏に埋められた民間人の屍を直視することを避けてきたのではないだろうか。
戦争における正義とは、果たして正義なのだろうか。それは単に、もっとも罪深い悪を徹底的にやり遂げた者に与えられる称号ではないのか。もしそうであるならば、戦争で勝つことは「善の証明」ではなく「悪の完成」に他ならない。そして人類は、悪を極めた者の下でしか平和を享受できないという、耐えがたい矛盾に囚われているのである。
【正義】もっとも罪深い悪をやり遂げた者 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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