第3話 帰宅ラッシュ時の駅そば決断物語
小生の名は、
腹は空いた。だが時間はない。
そんな時、小生を呼ぶのは――駅の立ち食い蕎麦である。
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仕事帰りの夕刻、午後七時。
今日は長かった。
朝から続いた会議、終わらぬ資料作成、上司の大杉課長からの差し戻し。
定時で上がれたのは幸いだが、小生の胃袋は既に悲鳴を上げている。
昼食は例のアジフライ定食だったが、それももう遠い記憶だ。
改札を抜けようとした瞬間、ふと立ち止まる。
ホームの片隅に佇む、あの看板が目に入ったのだ。
「駅そば」
その二文字には、不思議な魔力がある。
豪華さも洒落っ気もない。
だが、旅人も労働者も、学生も老人も――誰もが等しく受け入れられる包容力を持つ。
「駅そば……それは庶民の胃袋にして、時の交差点だ」
時計を見れば、次の電車まであと八分。
家に帰ってから自炊する気力はない。コンビニ弁当も味気ない。
ならば――ここしかあるまい。
小生はふらりと、駅そばの暖簾をくぐった。
狭い店内には、既に数人の客がすすり込んでいる。
作業着の男性、スーツ姿のサラリーマン、大学生風の若者。
皆、無言で丼に向き合っている。
ここに会話はない。あるのは、ただ食べるという行為だけだ。
「立ち食いという文化……これもまた、日本の美学であろう」
券売機の前に立つ。
かけそば、たぬき、きつね、天ぷら、月見……どれもが小生に「私を選べ」と訴えかけてくる。
「かけでシンプルに行くか……? いや、ここは天ぷらで華やぎを……だが揚げ物は昼に食べたばかり……」
背後には、すでに数人の客が並び始めている。
この場における
「駅そばは戦場……小生は即断せねばならぬ!」
小生の指は、意を決してボタンを押した。
《天ぷらそば 420円》
ふと、スマホを取り出しかけて思い直す。
あのグルメサイトでは星が3つ程度。レビューには『可もなく不可もなく』『普通の駅そば』と書かれていた。
「……他人の評価など、所詮は他人の舌である。小生には小生の味覚がある」
そう、小生が信じるのは己の舌と胃袋だけだ。
スマホの中の星の数など、食の本質とは無縁であろう。
食券を差し出すと、厨房の奥から聞こえてくる湯気と出汁の香り。
そして、鍋にそばが沈められる音。
ジャバァッ――。
わずか一分足らずで、丼がカウンターに差し出された。
黄金色の出汁、浮かぶネギ、そして中央に鎮座する天ぷら。
七味唐辛子の赤が彩りを添える。
「おお……これぞ即席の芸術品。一分で立ち上がる、この完成度よ」
立ち食いカウンターに身を寄せ、まずは出汁をひと口。
熱が舌を刺すが、その後にふわりと広がる鰹と昆布の香り。
「効率の極み……だが、確かに美味い」
この出汁を、誰が「普通」などと評せようか。
疲れた体に染みわたる、この温もりを。
箸でそばをすすり込む。
つるりとした喉越し、弾力のある麺。
天ぷらは出汁を吸い、ふやけながらも衣の香ばしさを残している。
「……うむ。天ぷらは衣がふやける前に食べるか、出汁を吸わせて滋味深くなるか。人生は二択である」
小生は半分を早々にかじり、残りをじっくりと出汁に沈めた。
隣では、スーツ姿の男性が恐ろしい速さでそばをかき込んでいる。
恐らく小生と同じ、疲れたサラリーマンであろう。
彼もまた、この一杯に救いを求めているのだ。
駅そばは、孤独ではない。
ここにいる者たちは皆、同じ釜の飯……いや、同じ出汁を分かち合う戦友なのである。
七味を振る。
……振りすぎた。思わずむせる。
隣のサラリーマンがちらりとこちらを見た。
しかし彼は何も言わず、再び丼に向き直った。
「駅そばでは、咳払いすら許されぬ……ここは静寂の食場だ」
あっという間に丼は空となる。
それでいて、胃の奥には確かな温もりが残った。
時計を見れば、まだ四分ある。完璧なタイムマネジメントである。
勘定を済ませ、改札を抜ける。
夜風がほんのり冷たい。
ホームには、仕事帰りの人々が疲れた表情で電車を待っている。
小生もその一人だ。四十八歳、平社員、今日も何の成果も上げられなかった。
だが――この一杯が、小生を支えている。
「駅そばは、腹を満たすだけではない。駅そばは――人生の一呼吸である」
あのグルメサイトの星の数など、関係ない。
レビューに『普通』と書かれていようと、小生にとっては特別なのだ。
大切なのは、己の舌で味わうこと。
スマホの画面ではなく、自分の胃袋で判断すること。
それが小生の、ささやかな矜持である。
電車が滑り込んでくる。
小生は満員の車内へと乗り込んだ。
明日もまた、大杉課長の小言を聞き、書類と格闘するであろう。
だが、この駅そばがある限り――小生は戦える。
そう心に刻みながら、小生は家路についた。
-完-
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