初恋論    3/6

 あくまで私の結論ですが、つまるところ恋とは、いわゆるルールやテーゼと言ったものとは無縁であり、その人が恋だと思えば恋なのだと思います。だからこそ恐ろしいのです。おのずから蠢き始める想いは、恋の名のもと、物の良し悪しも正常も異常も境なく、なんでもかんでも飲み込んで膨れ上がって、その行く末は、宿主にすらわからないのですから。

 私は、目をそらしていました。直哉の美しさを讃え仰ぎ見る歓びに浸って、それしか知らないフリをしていただけです。

 苦痛に落ちる直哉を前に、その痛みを自分の中で疑似的に再現し、共感することで直哉の感覚そのものを貪りにかかった私は、もはや信徒ではあり得ませんでした。

 衝動に焦げ付いた私の心臓は、直哉を苦しめ痛めつけ、冒涜の限りを尽くし爛れた心臓は、言うまでもなく醜悪で、吐瀉物など比べ物になりません。そして一度焦げて爛れたものが、ハリとつやと清廉さを取り戻すことなど絶対にないのです。

 直哉の美しさだけをへその緒で供給された目すら明かない胎児は、暗い羊水の中でならいくらでも美しくいられました。何度も何度も声を上げるその日を想像して、上手に直哉と呼んであげられるつもりでした。

 けれど憎たらしいあの太陽のもとに晒されて、産み落とされて、光の下で悶える直哉の美しさに眩んだ眼をこすって、漸く目の当たりにした自分は醜く、初めて直哉と読んだその声は涙が出るほどおぞましい。

 私の恋は汚い。酸素に触れればすぐに腐っていく、そんな不良品でした。

 

 次の日、皮肉なほど晴れ渡った青空と太陽の光の下、常のごとく直哉と友人に鉢合わせ挨拶をし、昨日はありがとう、と常とは違う言葉を付け足された私に襲い掛かったのは、何を隠そう羞恥の心でした。照れや気まずさに起因するものではありません。直哉が礼を言う、自分自身がいかに強欲で放埒であるか、知ってしまったが故の羞恥です。

 そんな状態でしたから、いつものように授業中の直哉を盗み見ることなどできるわけもありませんでした。ただでさえ行儀の悪いそれが、いよいよ涜神行為であるように思えて苦しくもなりましたし、また、私にとって、それは多分、パンドラの箱を開くようなものなのではないかとも恐ろしくなって、どうにか歪んだ習慣を洗い流そうと試みるうち、時間は過ぎていきました。

 ところが、その日の最後の授業中に

「雪本」

教師が直哉を呼びました。

 一日の終わりの気の弛みからか、考える間も止まる間もなく、ほとんど反射のようにして、ちらりと、ほんの少し視線を向けるだけのつもりで、ともかく安易に、うかうかと目を向けます。

 髪が、さらりと直哉の頬をなでました。少しぼうっとしていたのか、

「あ」

と口を薄く開いて声を漏らします。夢に見たのと打って変わって、その唇は一切の傷も痛みも見えず、どうしようもないほどに柔らかそうでした。二重の目を少し瞠ってやや忙しなく教科書をめくり、問題を確認して立ち上がります。まだ少し動揺しているのか、ほとんど無意識にでしょう、きょろきょろと軽く辺りを見回してその拍子に、私の視線とぶつかりました。

 何事もなく、ただ彼の回答を待つかのように黒板に視線を戻すと、一瞬後に直哉が黒板に向かいます。

 ほとんど永遠に思えたその一瞬で、私は苦く後悔を噛みしめました。少しばかり表情に出たかもしれないくらい、全身が強張っていました。

 見なければよかった。白い肌なんて。釦を開いた詰襟から僅かにのぞく、夢より白い肌なんて。


 その夜、また直哉の夢を見ました。今度は教室です。誰もいません。直哉の襟は、開いていました。

 今度は、「痛い」とも言わず、どころか、表情すらはっきりしません。ただ美しいことと、重複になるようで些か滑稽ですが、直哉であることだけはわかります。襟の向こうに見える白い肌がやけに生彩に眩きます。

 直哉がついっと、私の唇を中指と人差し指で挟んだり、なぞったりしました。くすくす笑って、その右手の人差し指と中指でピースサインを作って見せると、真っ白い粉がうっすらと付着しています。昼間の問題を解くのに使用したチョークでしょう。  胸元の肌同様、その白ばかりやはり鮮明です。

 直哉は無言で、もう一度、私の唇にその二本の指を寄せました。体は近づけません。不思議と罰されている気分です。そのうち散々私の唇を白くした指が唇を弱くこじ開けて口内に入ってきました。石灰の味が直哉の味のように思われて、頭の奥がぼうっとしてきます。わずかに溜まる唾液の池を指が跳ねて微かに音をたて、彼の生々しい唇が、甘ったるく動きました。

「助けて」


 そこで覚醒しました。時計を見ると、寝てから十分も過ぎてはいないようでした。これでは夢と言うよりは妄想です。

 体は熱を孕み動悸は少しばかり弾んでいましたが、頭は冷静です。覚えているうちにつらつらとまとめます。


 詰襟は、色合いや質感に留まらずその釦の文様や校章に至るまで精緻に描写されていました。黒板の配置や、学年目標の文字、自分の席の位置とパイプの歪み、錆と言った教室全体や物品の有様もことごとく正確です。夢自体が曖昧模糊としているわけではありません。直哉のその表情ばかりが焦点を結ばないのです。

 また、火傷の痕のない以上、直哉の「助けて」の意味は昨日の夢とは一線を画していると考えていいはずでした。では何をもって助けてほしいのでしょう。もっと踏み込んで有体に言うならば、直哉の口を借りて、私自身が要求しているものは、一体何でしょう。

 襟が開いていたことが、手掛かりでした。昼間に見て印象が鮮明だったというなら、そもそもずっと前から直哉は詰襟を開いているのに、昨晩の夢ではきっちりと閉ざされていたのは、どういうことなのでしょうか。

 そのまま目を閉じて、開いた襟を、白い喉元を、思い返します。

 わずかにのぞいた鎖骨が小さな影を落とし、伸びた青い血管がうっすらと透け、眩暈をもたらす、白い肌。触れればそこはさらりとつかみどころなく逃げてしまうのでしょうか。それとも、しっとりと吸い付き捕えてくるのでしょうか。もし彼に触れてもいいのなら、私はその一つ開いた釦を、閉ざすでしょうか?―いいえ。

 直哉の詰襟が一番上まで窮屈に締まっているのは、私が直哉をただ見ていた頃の象徴なのだと思います。その時の直哉は私にとって、実体を持たない、声と見た目しかない何かです。

 そんな彼自身の痛覚をまざまざと見て、あてられてしまったのが昨日。その夜の夢の中では、詰襟を締め切った直哉が助けを求めて、それを私が剥ぎ取り、そこで漸く、私の中で、直哉が肌と五感を持つものになったと仮定します。

 あの夢の主役が痛覚だったのは、苦痛に歪む直哉が火種となった夢だからです。表出の仕方が多少他人とは異なったかもしれませんが、自分が相手に触れたその感覚と相手が自分に触れられたその感覚とを求め焼き尽くしたあの炎は、それこそ情欲に違いありませんでした。

 そうしておぞましく黒焦げになった私の目に、今日の昼間、いつも通りの第一釦を開けた直哉が、そのすっかり火傷の癒えた白々しいほどの肌が飛び込んできて、つまりそれが新たな熱になったのだとすれば、先ほどの直哉が「痛み」を要求してこなかったことに説明がつきます。


 わかってしまえば下らないこと、私は痛覚でなくって、快感を媒体として直哉とつながりたいと思い始めたのです。


 しかしそれを夢で再現するには材料が不足しているのです。痛みに苦しむ直哉は昨日目の当たりにしましたし、自分も火傷を何度かしたことがありますから想像することができ、共有したつもりになれました。しかし、当然快感に浸る直哉や肉欲に駆られている直哉は見たことがありませんから、直哉がそういうときにどういう表情をするのかわからず、私自身、性どころか恋愛感情からさえ相当に遠かったもので、どれほど欲求が熱を持とうと、それが満たされた感覚の材料、つまり火種がありません。だから発火できなくて、直哉の顔がぼやけたのでしょう。

 せめて自分一人だけでも火がついてしまえば、その感覚を直哉に流し込んで、作り上げてしまえるでしょうが。


 ……耳を澄ませました。家族の静かな寝息が聞こえます。ゆっくりと起き上がって、自室の鍵をかけました。今までかけたことがありません。いきなり開けるというのもしない人達であるのは百も承知ですが、万が一開けようとしたら不信がられるのではないか、と、もう千分の一もないような不安ばかりが頭をよぎって、鍵をかけたくせに、布団の中に頭からつま先まで隠します。何をする前から震える唇をぐっと噛みしめ、初めて自分の体に、そういう意味で触れました。

 行き場のない熱を長いこと放っておかざるを得なかった体は、簡単にその気になりました。けれど何をどうしたらいいというのもわかりません。全焼を求める指があっちこっちを這い回りますが、感覚は思いの外むらがあり、触れる端から熱が逃げてしまいます。巧く熱を集めて追い込めればいいのでしょうが、自分でしている以上先も読めてしまい、何より、熱が積み重なって勢いがつきそうになると、今度は指が鈍ります。本能的に、知らない感覚への恐怖が体を冷まそうと躍起になっているようでした。

「直哉」

試し、のつもりで呼びました。ごくごく小さい声は布団の中でくぐもります。みっともなさと申し訳なさと自己嫌悪が、冷たく心に落ちました。昨日の今日で何をやっているのか。自身の見苦しさに、あれほど呆れ果てたのに―。

 やはり無理なのです。私は無理です。最初からわかっていましたが、どうしたって絶対に無理だとわかっていましたが、自分がどれほど無残で汚らしいか突きつけ、どうせ叶わない想いを穢して踏みつけたのは、他でもない自分自身でした。

 仮に想いを伝えたとして、ただ伝えただけなら、彼は、普通に断ってくれるでしょう。それ以上の侮蔑など、表には出さないでいてくれるはずです。たとえその裏ではどれほど困惑し吐き気を催そうと、優しく笑ってくれるはずです。けれどだから何だというのでしょうか、それが私を一体どう救うのでしょうか、私だって彼の前では平気そうな顔をしておきながら、一人になれば、こうして、汚い妄想に彼を連れ出し世にも見苦しい姿で無様に悶えているのです。表裏を持った人間が、『裏』ではどれだけ奔放で残虐になれるか、誰よりも私が一番よく知っています。

 今さら何を泣くのでしょう、どうして惨めさを重ねるのでしょう。けれど止まりません。心から勝手に噴き出た雑菌だらけの膿が、どろどろと、ただでさえ大したことの無い顔を汚します。

「直哉」

泣けば泣くだけ、縋りたくなりました。ここにいない直哉に。自分にとって都合のいい直哉に。

「直哉」

そうして縋りつく声のなんという卑しさ。どうして声だけでも美しく生まれてこられなかったのでしょう。今まで生きてきて、この神経質なびりびり来る声がここまで厭わしかったことはありません。それでも、止まらないのです。布団の中だから、鍵をかけたから、絶対に伝えないから、今だけ。今だけ。

「直哉」

みるみる声が掠れて小さくなりました。思わず目を閉じます。もっと暗闇が欲しかった。布団を突き抜けてきてしまう月の影が嫌でした。わずかにでも自分が照らされるのが嫌でした。何もかも忘れたくて、たまりませんでした。

 自分の体に、また触れました。ああ無理だ、やっぱり自分は無理なんだ、そんな興ざめな思考を、駄々をこねるように頭を振って落としたつもりになってみます。

「直哉」

直哉が触れたと、思いました。絶対にありえないことです。わかっています。わかっていますが、直哉の白いチョークのついた指がさっきの続きと言わんばかりに再び口内に入ってくるのに合わせてもう片方の指を二本、咥えます。舌で触れれば予想している以上に強い感覚がありました。直哉、直哉、呼びかければ浮かび上がる直哉の顔に、私の指の感覚を流し込むように意識すると、ごくわずかに戸惑って、指が震えました。唇がうっすらと開いています。無意識でしょうか。

 今度は意識を反転させて直哉の口を嬲ります。彼の唇はもっと柔らかいことでしょう。ゆったりと歯列を指でなぞって、上顎の裏を中指の関節で撫でます。さっき直哉が私にしてくれて、心地よかったのを、仕返します。直哉の舌が指に絡むたび、体全身に響く刺激が、口の中を弄り回される直哉の感覚への共感になって、何度も何度も私の中を、ぐるぐるぐるぐる回ります。

 直哉、好きだよ、大好き、好き。答えるように舌がきゅっと指を締め付けてくるのに、出所の分からない涙と笑みで返しました。本当に好きだよ、直哉、ごめんなさい、好きになってごめんなさい、許してください、ごめんなさい、こんなことをして ごめんなさい、好きです。好きです。本当にごめんなさい。

 唇から指を引き抜くと、直哉が指を追いかけて、唇で唾液の糸を千切ってくれました。ぎゅうっと体が締め付けられる思いでいると、当然そこは私の理想が響く世界ですから、直哉が私を抱きしめてくれました。私も抱きしめ返します。想像するしかない彼の背中に手を伸ばし、存在しない体温を必死で思い描きます。でも一人だから、どうしたって一人だから、ああ、なんにもない。

 恐ろしく冷たい抱擁をやめにして、唾液で濡れた指をそっと、再び体に這わせました。

「直哉」

大丈夫です。熱はもう怖くありません。今度は直哉がいてくれます。直哉が触ってくれるし、直哉に触れられました。

 快感が私と直哉をぐちゃぐちゃに駆け巡って、視点が頻繁に切り替わります。どちらともなく体重が支えられなくなって、直哉を私が抱き寄せたのを切っ掛けに二人で床に崩れ落ちました。直哉の重みは感じられなくとも、直哉の押し殺した声は耳に聞こえます。私が痛いほど歯を食いしばって、声をこらえているから、その感覚を想像上の直哉に押し付けているのです。

 知らない刺激は体を這いまわって、私は確実に限界まで追い込まれていました。崩れ落ちそうな疼きが自分でもわからないような奥深くから這い上がってきて、内側から私の仕組みをぐずぐずに蕩かそうとするのに恐怖を感じないではありませんが、直哉が私を見つめて嬉しそうに笑った瞬間、背筋に走った本能的な震えが痺れに変わって一気に首筋まで貫きました。串刺しにされた私は、成す術もなく耳から頬まで火傷を作り、一度反った背中を戻すこともできないままに、直哉のくれる崩壊を受け止め、直哉にもそれをありったけ与えるばかりです。

 直哉が震えるあまり私に触れられなくなるのがいじらしくて、つい直哉ばかりを熱で苛んでしまうと、直哉が激しく息をしながら私を見つめてきました。乾きに切なく細めた美しい目が正気を失して濡れ滴っている矛盾は、どんな愛撫よりも激しく刺さって、たまらず心が叫びます。

 いけない、と気付いてももう遅く、私の願望そのままに、直哉が倒れ込むようにして私の唇に自分の唇を重ねてきました。

 唇も舌も自分のものに指で触れた経験しかありませんから、きっとこの感触は贋作の中でもとりわけ不出来であるのでしょう。

 私はそれでもそれに酔います。自分で自分にキスをして、それでも目の前にあるのは直哉の顔だから、少しぼやけてはいるけど絶対に直哉の顔だから、だから必死で、感触だけの味のないキスを繰り返します。

 そのまま体に触れなおせば、箍が外れたように、心ごと快感を追うことに夢中になりました。獣です。私は人間ではありません。人としての尊厳をすべて失った獣のくせをして、恥知らずにも直哉を乞うて咽びます。

「直哉」

それに応えようと、直哉は私により一層触れます。激しく追い上げられて、私も直哉に必死で手を伸ばしました。ああ、直哉、気持ちいい、あ、ぁ、好き、好き、好き、直哉、直哉。

 直哉がそっと耳に口を近づけて、かすれた声で、俺も、と言いました。嘘です。絶対にあり得ません。でもありがとう、嬉しい、好き、ごめんなさい、助けてください、許してください、どうか。

 すると、息も絶え絶えの直哉が、泣き腫らした私の目を拭って、掠れに掠れた声で、私の、名前を。下の名前を呼んで。


 生まれて初めて、死んでもいいと、本気で思いました。笑っていただいて構いません。

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