第11話「聖女様と水泳しよう」

 例によって、明良たち1年C組男子の間で最も人気の高い授業は体育の授業である。言うまでも無くその理由は奏にあるが、とりわけ水泳の授業となると男どもの熱気が違う。更衣室水着に着替える段階であるというのに、既に妄想に妄想を巡らせた末前のめりになるやからが多発し、中には授業の間しっかり奏のことを眺めるためだけに成績を犠牲に授業を見学するやつまで出てくる始末。一体何のために高校に来たというのだろうか。

 その点、明良は一度奏が肌着姿にまでなるところを見ているのだ。精神的優位に立つ明良は、堂々とプールサイドに出ていける。奏への理解度が違うのだ、理解度が。

 プールは柔道場とかがある建物の屋上にあって、直射日光が身体を突き刺し、日陰もないためにひどく暑い。日焼け止めの一つでも塗ってみようかとも思ったが、これから水ですべて洗い流されるのかと思うと無駄に思えて仕方がない。

「あっ、明良くんじゃないですか」

 太陽のまぶしさに目を伏せながら明良がプールサイドに出るのとほぼ同時に、図らずも女子更衣室からは奏が他の女子たちと一緒に出てくるところだった。

「中肉中背って感じですね。面白くないなあ」

「うるせぇ」

 そんなことを言う奏はと言えば、当然のことながらナイスバディ、体育着のときもはっきりと胸が大きいのがわかったが、ぴちっと身体の線に沿う水着ではわけが違う。他の女子と比べるものでもないだろうが、明らかに奏は頭一つ飛びぬけている。飛びぬけているのは胸だが。

 しかし、なんとすさまじいプロポーションであろうか。胸は大きくお腹は引っ込み、それだけでなくお尻はきゅっと引き締まりながらも丸みがある。素晴らしい。流石の明良も、手放しで賞賛したくなるというものである。

「あの、あんまり見られると流石の私も恥ずかしいですよ」

「いや、何か言ってやろうかと思ったんだけど、何かしら文句の付け所を用意しとけよ」

「む…………。褒め言葉として受け取っておきます」

「ていうか、なんで男子こんなに少ないの?」

 それまで黙っていたクラスの女子が、ふと疑問に思ったのか明良に聞いてくる。やめろ、俺の口から言わせるな、察してくれ。明良が男子更衣室の方に目を向けると、奏が近づいてきて耳元で言う。

「…………違ったらだいぶ恥ずかしいんですけど、もしかして私のせいですか?」

「まあ、そうだな」

「…………次から見学しようかな」

「やめてやれよ、それこそあいつらが水泳の授業に出る意味がなくなっちまうだろ」

 奏は、本気のドン引きの顔を浮かべていた。こいつ、そんな顔できたのか。

 ――なんか、すまん、お前ら。

 知らないところで勝手にクラスメイトの株を下げてしまった。しかも、あれらが最も高く保持していたいであろう人の中での。


 一年生の水泳の授業は、二十五メートルのタイムを測定するといういたって一般的なものだった。やることといえば、中学までにもやっていたように四種目を順番に泳がされ、まず最初に実力を測られたかと思えば、そのあとは実力ごとにレーンを分けてひたすら泳ぐだけ。

 明良は、意外とこれでいて泳げたから、一番中央に近いレーンで放置されている。先生のほうは高校生にもなって二十五メートル泳ぐのがやっとというやつらに泳ぎ方のいろはを教えるので精一杯なのだろう。

 一番中央に近いレーンで泳ぐということは、すなわち反対側を使っている女子に一番近いレーンで泳ぐということでもある。ちょっと潜って女子の方をチラ見してみれば、すぐ近くを女子が泳ぎぬけていくところだった。奏も、どうやらそこそこ泳げるらしい。隣のレーンのスタート位置で友達と話しているようだった。

「のぞき見とは関心しませんねぇ」

 奏がいる方の岸まで明良が泳ぎ切って顔を出すと、どこかで聞いたことのあるような声が頭上から降ってくる。

「見た目によらず紳士的なのかと思っていましたが、そうでもなさそうですねぇ、傍ら痛い」

 顔をあげれば、プールサイドで体育着を着てデッキブラシを持った――

「なんだっけ」

「…………藤原です」

「ああ、そうだ、なんとかまろだ」

「……………………公麿きみまろです。あの、いい加減覚えてもらっても?」

「すまんすまん」

 こいつ、こんな眉毛丸く切りそろえてたか? などと特に意味もないことを考えながら、明良はいったんプールから上がった。

「で、なんだ?」

「ですから、のぞき見は関心しないと申しているんです」

 ふん、と両手を腰の横につけて、藤原は頬をふくらます。お前がやってもかわいくないぞ。

「見えるもんはしょうがないだろ」

 何せ明良は中央のレーンを泳いでいるのだから。さっき自分で覗いてみようと思って潜ったことなどすっかり忘れて、明良はさも当然のことのように言い訳する。自分でもちょっと苦しいかなとは思うが、嘘はついていない。

「明良くん、何サボってるんですか」

 今度は下、プールの方から声がかかる。女子の声だ。際に座っている明良を見上げて声をかけてくる女子など一人しかいない。

「こいつがイチャモンつけてきたから反論してたところだ」

 しかし、確かこの藤原という男は熱狂的な奏ファンではなかったか。ちらと藤原の方を見上げると、藤原は若干前のめりになっていた。なんと情けないことだろう。というか、普通にキモい。

御身体おほんからだ…………」

 今にも藤原は、プールサイドに倒れ伏しそうな勢いである。もしかするとこの前のめりは、そういうことではなくて、単に感激のあまり立っていられないだけなのだろうか。

「…………その人、大丈夫ですか?」

あやなり直視できない~~~!」

「ああ、こいつはまあ、ほっといていいだろ、知らんけど」

 とうとう膝をついた藤原は、両手を組み、天を仰ぎだす始末。その祈り方は西洋のものではないのか。

「ところで明良くん、ちょっと聞きたいんですが」

 ちょいちょい、と手で奏が明良を招き寄せる。顔を近づけると、奏は明良の耳元で小さく言う。

「前のめりの方々は、そういうことなんですか?」

「そうだろ。知らんけど」

 知りたくもない。

「や、やっぱりそうなんですかね。ずっと気になってたんですよね。こんなこと、明良くんにしか聞けないし」

 聞けば誰でも答えてくれそう――とはいかないか。

 確かに奏は大人気だが、そんな自分があなたのことを性的な目で見ていましたなどと宣言できるファンがどこにいようか。まして奏は聖女だと思われているのだ。本当のことを言ってくれる男など一人もいまい。

「あ、でもそいつはたぶん違うぞ」

 せめてもの情けである。たまに話すくらいの仲の。

「わわわ、渡良瀬くん、いつまで話しているのです…………!」

「ゾンビかよ」

 さもゾンビが蘇るがごとく、藤原はゆっくりとした動きで地面から這いずり立ち上がった。

「明良くん、ゾンビは海外産ですから、キョンシーでは?」

「キョンシーも日本産じゃないだろ」

「む、確かに……」

「い、いくら聖女様と仲のいい渡良瀬くんと言えど、あられもない水着姿の聖女様にいつまでも話し奉るわざ、いとどますますつらくなりにきなってしまった

「だからなんで興奮すると古語で話すんだお前は。わかんないだろ何言ってるか」

 というか、水着着用ならあられもなくないのではないか。明良はちらりと奏の方を見てみる。なるほど濡れてさっきプールサイドで会ったときよりもよけい身体に布地が張り付いている。おまけに少し胸の間には水を含んで、谷間がのぞいているではないか。

 ――うーん、でもあられもなくはないんじゃ……。

 確かにちょっと破廉恥だとは明良も思うが。

「明良くん、もしかして藤原くんって結構ヤバい人なんですか?」

「気づいてなかったのか?」

「礼儀正しい人だなと思っていたんですが……」

 一体どこからそんな印象を受けたというのだろうか。そもそもこいつは四月のころの体育の授業から、まんま奏のことをキモい目で見ていたではないか。

「なんですか、明良くんその目は」

「みんなお前を目にするとヤバい人に様変わりだよ」

 なるほど傾国の美女という話もあながち嘘ではないのかもしれない。こんな崩壊寸前のクラスを見ていると、そう思えて仕方がない。

「あ、明良くんはどうなんですか」

「どうって何が」

「どうですか、私の水着姿は。魅力的ですか、ちゃんと」

 ――やめろ胸を寄せるな谷間を強調するな、ちょっと腕を取って押し当ててくるな。

 しかし、改めて上から下まで見てみれば。

「そりゃ魅力的じゃないって言や嘘になるだろ。お前見た目はかわいいんだから」

「は? 見た目はってなんですか、まるで中身がかわいくないみたいじゃないですか」

「は? じゃねぇよ自分の心見つめなおせよ。頭ん中はこいつらとさして変わらんだろうが」

 藤原の方をちらりと見れば、今にも爆発しそうなほど真っ赤な顔をしていた。

 ――真っ赤な顔?

「おい、大丈夫か!」

 ふらっと藤原が後ろに倒れていくのを、なんとか明良は抱えて、ゆっくりと寝かせた。

「先生! 藤原が死にました!」

「ま、まろは、い、いまだまからじ…………」

「いったん黙ってろお前! ダメだ、泳げないやつらに手一杯で気づいてねぇな。奏、先生呼んできてくれ」

「は、はい!」

 奏はプールから上がると、プールサイドは走らないというルールはいったん脇へ置いて、男子担当の先生の方へ走り出した。

 その間に、明良はこいつを日陰まで運ばなきゃならない。

「おいちょうどいいところに、こいつ運ぶの手伝ってくれ」

「へ? あっ! 会長!」

 ――会長?

 ちょうど声をかけた男子生徒――名前は全然覚えていない――は、さっとプールサイドに上がると、藤原の方を叩いて意識を確認し始めた。

「とりあえず日陰に移動させよう」

「そ、そうだね」

 そいつと一緒に藤原の身体を抱え、更衣室の方へ運ぶ。折しも、奏の呼んできた先生が到着して、一緒に身体を持ってくれる。

「救護室には冷房があるから、そっちだ」

 男女の更衣室の中間に位置する救護室に藤原を運び入れ、簡素なベッドに寝かせる。すでに奏は救護室に来ており、冷房のスイッチを入れていた。

「藤原くん、大丈夫ですか……?」

「さらにも申さず……。聖女様に心配賜りたること、喜び如何ばかりならん……」

「…………聖女様云々は置いておいて、とりあえず大丈夫そうですね」

 奏はそう言って、安堵に息をついた。

「とりあえずちょっと見ておいてくれ」

 体育教師はそう言い残して、救護室を出ていく。すぐに戻ってきたかと思うと、見学の男を一人捕まえてきていて、養護教諭の先生を呼んで来い、と指示していた。

「か、会長! それに聖女様も……」

 ――奏の聖女様呼び、定着しすぎじゃないか?

「名前で呼べないのかこいつら」

「すっかり誰も私のことを名前で呼ばなくなっちゃいました。まだ私のことを四方山さんって呼ぶのは、福島くんくらいですね」

 奏はひどく遠い目をしていた。ここまでくると、哀れに思えてくる。

「なんだ、氷の女王といい、聖女といい、みんなすぐ変なあだ名をつけて呼ぶからな、うちの生徒たちは」

 体育教師も思うところがあるらしく、苦々しげである。

「そういう風土なんだろうな……」

 ――諦めた…………。

「ああ、四方山、もう戻っていいぞ。藤原は聖女教会とかいうやつの会長だからな、お前が見てるとややこしくなりそうだ」

 ――でた、聖女教会。

「その聖女教会ってなんなんです?」

 明良がそう尋ねると、知らんのか、と体育教師は意外そうな顔をした。

「つまり、ファンクラブだ」

「はあ、ファンクラブ。一生徒に?」

「まあそういうもんだからな、いったんそこは飲み込んでくれないと」

 奏の方は、なんとも言えない表情を浮かべている。

「その顔を見るに、別に公認ってわけじゃないんだな」

「私がそういうチヤホヤされるのを好むように見えますか?」

「見えんな」

 そういうことです、と奏は言って溜息をついた。美人というのも難儀なものである。

「学校側も、結局は過激なことをしなければ黙認ってスタンスだからなぁ」

「過激なことって?」

「そうだな、例えば、ちょっとその女子生徒といい感じになった男を襲撃する、とか」

「なんじゃそりゃ」

「前にあったんだよ……」

 ――あったのかよ。

「まあなんだ、渡良瀬、お前も気をつけろよ」

「はあ、気をつけます」

 気をつけるとは言ったものの、奏とは友達として仲がいいと明良は思うわけで、それを外野にどうこう言われるもの癪なものである。何が一番癪かと言えば、そこに奏の感情は一切考慮されないことだろう。明良自身がどうこうされるのは百歩譲るとしても。

「どうも釈然としねぇなあ」

 奏のほうをちらりと見ると、ぱちりと目が合う。奏はにこっと笑って、明良を見るばかりだった。

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