第8.5話「奏と心寧の休日」
奏が目を覚ましたのは、午前九時のことだった。日曜日はもっと長く、できるなら何時間でも寝ていたいなと思うけれど、これ以上寝ていると朝ごはんが食べれなくなるからと仕方なく身体を起こす。少し身体にだるさが残るのは、昨晩のあれのせいだろうか。
ベッドから這い出て、カーテンを開ける。マンションの五階から見る街並みは、それほど綺麗とも思わない。駅の方を望めば、日曜日だというのに、電車から沢山の人が出てくるところだった。
三十秒ほど日光を浴びてから、枕元で充電していたスマホをパジャマのポケットに入れて、奏は自室を出た。
居間では父親が新聞を読みながら珈琲を飲み、一方台所では母親が洗い物をしている音が聞こえた。
「おはようございます」
「おはよう、奏。少し遅かったな」
「すみません」
昨日の夜は楽しんでいたものですから、なんて口が裂けても言えない。
「責めているわけじゃないよ」
父親はそう言って笑った。大きな笑い声が、寝起きの耳には少し痛い。
「奏、朝ごはんはパンでいいわよね?」
母親が台所から顔を出して奏に問いかける。うん、と奏は答える。気分とは、少し違うけれど。
トーストが焼けるいい匂いがして、たとえ気分とは違っても、奏のお腹の虫が騒ぎ始める。あまり音が出ないように、お腹に力を入れてなんとかしてみようとしても、そう簡単にいくものではない。
ことん、と音を立てて、母親が奏の前にバターの乗ったトーストの皿を置いた。
「今ヨーグルトも持ってくるわね」
「ありがとうございます。いただきます」
四枚切りの分厚い食パン。齧るには大きく口を開けなければいけないから、奏は六枚切りが本当は好きだった。
「今日の予定は?」
母親が尋ねてくる。短く、心寧と遊びに行く、とだけ答えた。ちょっと吉祥寺まで出かけて、買い物をする。買い物をしたあとはカフェでも行こうか、なんて話を心寧としたのだ。
「本当、心寧ちゃんと仲がいいわね。でも、ちゃんとお友達も作らなきゃだめよ?」
「はい」
奏は、あまり自分の両親が好きではない。
心寧の家は、奏の家から一駅西側へ行ったところにある。目的地は吉祥寺だから奏の家からは反対方向だけれど、いつも奏が相川家に行くのが決まり事だった。
心寧の家は、奏の家とはちっとも違う。母親同士が姉妹だけれど、奏の母と心寧の母は全然違うタイプだし、父親も全然違う。
例えば家は、奏の家は所謂タワマンというやつで、父親が無理をしてローンを組んで買った五階の部屋だけれど、心寧の家は安い――というと少し貶しているように聞こえるかもしれないが、そうではない――アパートの二階。では親の年収が違うのか、というとそういうわけでもない。お父さんが多くを望まない性格なのだと、心寧は笑っていた。だから、昔から住んでいるアパートにずっと住んでいるのだと。
外見ばかりで中身のからっぽな自分の家よりも、中に沢山の想いが詰まった心寧の家が、奏は好きなのだ。
だから、奏はいつも心寧の家に行く。
少し色あせたコンクリートの階段を上って、手前から三番目のインターホンを押す。203号室が、相川家。
「あ、かなちゃん? 開いてるから入って入って」
声の主は、心寧のお母さん。自分の母の姉だけれど、何度声を聞いても、声は似ているのに性格は似ても似つかない。
「おじゃまします」
玄関を開け、誰もいないところに小さくお辞儀をしてから靴を脱ぐ。
「心寧なんてさっき起きたんだから」
こんもりと濡れた洋服が積みあがった洗濯籠を持った心寧のお母さんが、脇の脱衣所の方から出てきて、ベランダの方へとそそくさと歩き去っていく。短い廊下があって、居間があって、さらにその向こうにある二部屋のうち、左側にある方を抜けていった。そっちから窓を開ける音がするのと同時に、髪の毛にこれでもかと寝ぐせをつけた心寧が、居間へ続く扉のところから顔を出した。
「……おはよう」
声もガラガラで、とてもいつもの心寧からは想像できない低い声。奏にとってはいつもの心寧。
「おはようございます」
右手にパンを持った心寧を居間に押し戻してテーブルに座らせてから、奏はその向かいに座った。
「かなちゃん、私はね、麦茶が飲みたいんだ」
心寧が言う。
「はいはい、今持ってきますから待っててください」
立ち上がり、今の端っこにある冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出して心寧のいるテーブルに置く。コップも、食器棚から心寧のと自分のをそれぞれ取り出して、心寧の前と自分の前に置いた。
「そういえばさ、先週買い物行ってアッキーに会ったじゃん」
「どうしたんですか、急に」
「いやさ、奏ってさ、わかりやすいよね」
「…………どうしたんですか、急に」
だってさ、と言ってから心寧は麦茶を注いでぐいと飲み干した。それから、もう一杯コップに注ぎ、続ける。
「いや、ふと思ったんだよね。見つけた瞬間の表情、すっごい嬉しそうだったなって」
「そうでしたか? まあ、嬉しくないと言えば、嘘になるとは、思いますが……」
「おやおや、流石の聖女様も歯切れ悪いね」
心寧はそういうと、意地わるそうな笑みを浮かべた。
「どこまで行ったの」
「どこまでって、なにがですか?」
まさかABCのことではあるまい。付き合ってもいないのに、AもBもCもない。世の中にはそういう人もいるのかも知れないけれど。
「ほら、アッキーにはかなちゃん素をさらけ出してるわけじゃない。素を。もうガッツリスケベなところをさ」
「………………まあ」
反論の余地がないのが情けない。
「何、アッキーは奏のことどれくらい知ってるの?」
「心寧ちゃんを除いたら、一番知ってるんじゃないですか? ほらその、冗談でつい、明良くんには自分のことを溢してしまうので」
「心許してるよねぇ、アッキーに。どうしてなの?」
「……どうして、ですか」
「だって、出会って初日からさ、もうほとんど繕って無かったじゃない?」
――確かに。
「うーん、親近感、なんですかね? 明良くん、自己紹介のとき、心にもないこと適当にぺらぺらぺらぺら喋ってたんですよね。なんか、それが自分と重なったと言いますか。あんなチャラチャラした感じ出しておきながら、明良くん、私が学校についたときラノベ読んでましたし……」
本当はその奥に自分の本当に好きな物とか、ありたい姿とか、そういうのがあるのに、自分の見た目でそう思われた姿を装おうとする感じ。それが、自分によく似ている気がした。
「だから、この人なら、私の見た目だけにとらわれないで、私のことを見てくれるかなあって」
「ほぼ一目惚れじゃん」
「その時点ではまだ惚れてません!」
「はいはい、今は惚れてるのね。で、いつ押し倒すわけ?」
「ま、まだです。そういうところはしっかりしたいと思っているので、ちゃんと気持ちを伝えてから、実際にそういう行為に及ぶつもりです。それに、あんまりその、近づきすぎると、いつ自分が我慢できなくなってしまうかちょっと不安ですし……」
ははあ、と心寧がじとっと目を伏せる。
「初々しいねえ、初恋ってのは」
「からかわないでください! 心寧ちゃんにだって、そういうの、あったでしょう」
「あったあった。あったけど、かなちゃんみたいに拗らせてないよ」
――拗らせ……!
「わ、私って拗らせてるんでしょうか?」
「だいぶね」
「だいぶ、ですか」
うん、と心寧は笑う。何がおかしいというのだろう。
「まあ、応援はするよ。でもなー、かなちゃんってさ、こう、アッキーとくっついたらさ、氷上みたいになりそうで、何かなー」
「さ、流石に私は部室でえっちしたりとかはしませんよ! ………………たぶん」
「は? あいつらまさか生徒会室でセックスしてんの? キレそう」
ダンと、麦茶を一気に呷って、心寧はコップをテ-ブルに叩きつけた。
「まあまあいいじゃないの。青春って感じじゃない。でもそれじゃ性って書くほうかしら」
洗濯物を干し切った心寧のお母さんが、「性」の字を中空に書きながら奏の横に座る。
「で、そのアッキーって子のどこに惚れたの?」
ぐいと、心寧のお母さんの顔が近づいてくる。自分の母親と似た顔だけれど、やはり違う。
「かなちゃんが顔で惚れるなんてことないわよね」
「えっと、その……………………」
顔が熱い。きっと真っ赤になっていることだろう。まさか、自分の好きな人の好きな部分を言うのがこれほどまでに恥ずかしいことだとは想像もつかなかった。なんとまあ、それを自分で改めて自覚すればなおのこと顔は熱くなるばかりである。
「あの、だから、その………………………………明良くんは、私のことを、ちゃんと見てくれて、私が、がっつりすけべ、でも、否定しないし、その、私を特別扱いしないし、でも、うーん、でも…………どうして私は明良くんがこんなに………………」
――こんなに好きなのだろう。
問えども問えども、一向に答えは出てこない。
「ははははは、恋だよ! お母さん! 見て! かなちゃんがめっちゃ恋してる!」
「そうね! 完全に落ちてるわねこれは! 今度デートでも誘っちゃいなさいよ!」
「うぅ、そ、そんな、休みの日にお出かけに誘うなんて、そんなのだって」
「はははは! 見てお母さん! かなちゃん、結構奥手だ!」
「ほんとね! でもねかなちゃん、この人だと思った相手には早くアプローチしないとだめよかなちゃん! がんばってね! さあ乾杯よ乾杯!」
心寧のお母さんはそう言うと、冷蔵庫からビールの長い缶を取り出した。
「あんたらは麦茶で我慢しなさい、構成要素は同じようなものだから。じゃあ乾杯!」
カシュ、と音を立ててビールが開き、それは心寧のお母さんの口に流れていく。
「かなちゃん、ひよっちゃだめよ」
ぐいと流し込んだビールに、げっぷを押さえながら心寧のお母さんは笑う。
――ひよってはだめ。
確かにその通りなのかもしれない。
躊躇いはある。今まで自分に恋をしてきた人間がどんな人間であったか。では、自分は明良にはどう見えてしまうだろうか。
もし、仮に自分が、あのような人たちと同じように見えてしまうとしたら。
それが、奏には恐ろしく思える。
――でも。
奏は膝の上で小さく拳を握り、一人静かに、この恋を実らせんことを誓うのだった。
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