第8話「渡良瀬家の休日」
――女の買い物は時間がかかるなあ。
そんなことを口にすればこの時代色々と問題はあるのだろうけれど、明良にはわからない色の細かな差をこれでもかと比べに比べ、いつまでもどのファンデーションを買うか決めずテスターの消費をやめない家族の女二人を少し遠巻きに眺めていた。母と妹の
休日の大型雑貨店は混雑を極め、一階のコスメ売り場には妹のような中学くらいの年齢から母親くらいの代、さらにはもっと上のおばあちゃんと呼ばれるくらいの世代まで、幅広い女性が詰めかけて我先にとコスメを試している。
これが一軒目であったのなら、明良も黙ってその吟味を待っていたことだろうが、既に明良の両手にはあちこちの店で買った洋服や雑貨の袋がこれでもかと提げられているのだ。もう既に明良の手は限界を迎えようとしているのに、この上荷物を増やそうというのだろうか。
「増やすんだろうなぁ……」
如何せん父親が不在なのが痛かった。父親が居てくれれば、この負担を半分にできたというのに。
やがて群衆から抜け出してきた母と妹は、そのカラフルに彩られた両手をティッシュでごしごしと拭きながら、これと決めたものを入れた買い物かごを明良に差し出してくるのであった。
「こんな買うのか」
「明良、メイク用品はいくらあっても足りないの。どれだけの新作が出ると思ってるの?」
「そうだよお兄ちゃん。これは戦争なんだよ」
「いや、知らんけど」
この二人から話を聞くから、明良も高校生男子としてはいくらかメイクには詳しい方だと自負しているが、しかしそこまでの興味が持てないのもまた事実だった。
「最近は男の子もメイクするんだよ。お兄ちゃんもパウダーくらい買ったら?」
「いいよ、俺は」
「そんなだからいつまで経ってもチャラいだけでモテないんだよお兄ちゃんは」
「そうよチャラ男、ちゃんとなさい」
「とても母の言葉とは思えない」
どこの世界に実の息子をチャラ男扱いする母がいると言うのか。
――いやここにいるけど。
やはり何度言われても納得が行かない。
「まあでも、スキンケアくらいはしてもいいんじゃないの? なんか買ってあげようか」
「いいよ、別に」
「そういえばお兄ちゃん、部活でも入ったの?」
一階での会計を終えてエスカレーターを上るさなか、雅が上の段から見下し言った。
「入ったけど、なんで?」
「ほら、お兄ちゃん最近帰ってくるの毎日遅いから」
そういえば、部活に入ったことはまだ家族には言っていなかった。部費の徴収があるわけでもなく、わざわざ報告するだけの理由が無かったからだが、考えても見れば何も言わずに帰るのが遅いというのは不審に思う理由としては十分だろう。
「何部に入ったの? チャラ部?」
「お母さんは黙ってて!」
妹は更に上に乗る母にキレながら、ぐいとこちらに顔を近づけてきた。
「当てる。……………………軽音部」
「ハズレ」
二階――バラエティ雑貨売り場と書かれた階に降りる。もうすぐ梅雨になって、それから夏が来るこの季節、やはり売れるのは傘なのだろう。日曜ということもあってかぐちゃぐちゃに荒らされた売り場は、ある種の哀愁さえ漂わせている。
「うーん、文化部? 運動部?」
「多分文化部だな」
筋トレくらいはするけど、と思いつつ、明良は近くにあった折り畳み傘を手に取った。値札を見れば、三八五〇円。
――別にビニール傘でいいな。
いい傘買ってなくしたら、きっとへこむだろうし。
「うーん、吹奏楽部」
「音楽系じゃない」
「あ、お母さん私日傘欲しい」
「あ~、必要よね」
雅はこれとか、と明良が先ほど手に取った折り畳み傘を手に取り、開いた。
「いいじゃない。花柄ね」
「日傘だったのか、それ」
「何だと思ったの?」
「普通の傘かと」
「普通の傘こんなに分厚くないでしょ。今時、紫外線はお肌の天敵だからね。あと普通に日傘ないと最近暑いし」
一階で持っていたカゴよりも一回りか二回り大きな買い物カゴを取って、雅は日傘を入れると、それを明良の方に差し出してくる。
「もう持てないよ」
「……まあ仕方ないか」
「ちょっとは遠慮という物を知ったほうがいいんじゃないか? モテないぞ」
「残念、私はお兄ちゃんと違ってモテるの」
「あ、そう」
「あ! 演劇部!」
ようやく雅が正解に辿り着いたのは、一番上の階に入っている別の雑貨店で母が洋服の試着をしているときだった。
「正解」
「なんで⁇」
正解したらしたで、雅は両手を頭に置いて、訳がわからないという顔をした。
「お兄ちゃんが演劇好きなんて初耳なんだけど」
「別に好きじゃなかったけど、誘われてな、断れなくて」
「誘われた? 誰に」
「前の席に座ってた女の子」
「女の子??????」
誰誰どんな子、と目を輝かせて雅が近づいてくる。未だかつて雅が明良のことにこれほど興味を持ったことがあったであろうか。片手に持った買い物かごを投げ捨てる勢いである。店の中に流れるどこかの国の馴染みない音楽が、さも雅に同調するかのように盛り上がりを見せた。
「うーん、多分うちの学年で一番かわいいんじゃないかな」
えっ、と大袈裟に驚いた雅は、訝し気な表情を隠さない。
「なんでそんな人がお兄ちゃんを誘うわけ?」
「いやまあ、なんというか、確かに見た目は美少女に違いないんだけどな……」
数々の、素直に喜べるラインを大幅に超えた残念スケベエピソードが頭をよぎる。
「何?」
「なんていうんだろうな、聖女って男子には呼ばれてるらしいんだけど」
「え、何そのあだ名、キモ」
「言ってやるなよ」
「いやだって、漫画とかでしか聞いたことないし…………」
――ガチのドン引きじゃねぇか。
げぇっという顔をした雅は、明良のことを睨んでくる。
「お兄ちゃんも聖女って呼んでるの?」
「いや、俺は別に。中身を知ってからだとどうにも聖女だとは思えないしな」
明良の想像する聖女というものと奏はちっとも似ていない。明良にとって奏は何も特別なところのない、普通の女の子なのだ。
「その聖女さんって、どんな人なの?」
「いやな……」
果たして実の妹に奏の話をしていいものだろうか。
「何?」
「うーん、なんていうか、エロい」
「は? 普通にキモいよ」
「違う違う違う違う違う違う、そういうことじゃなくてだな」
「じゃあ何?」
「その、奏は――ああ、奏っていうんだけど――なんていうか、その、むっつりスケベいやガッツリスケベ、うん、わかりやすく言えば、思春期なんだ、アイツは」
「思春期……」
まあ思春期であることに違いはないと明良は思う。間違ってはいない。
「まあヤベー奴だよ」
「具体的に言うと?」
「具体的なことを避けたんだから聞くなよ」
「何、女の子の話?」
長々と試着をしていた母が、ぬっと試着室のカーテンを開け外に出てきた。
「私、わりと孫は早く見たいと思うタイプだから」
「ああ、そう……」
一階から五階まで万遍なく買い物を終え、紙袋を増やして一階まで戻ってきた明良たちは、なぜか再び一階の売り場の中へと突入していた。
――今日発売の新色あるの忘れてたの。
全ては雅のこの一言に端を発する。なんと強欲なことであろう。既に明良の手にある紙袋は優に十を超える。自分でも、これだけの紙袋を持てていることが不思議でならない。
「あれ、明良くん?」
そのとき、群衆のざわめきの中から、聞き覚えのある声が耳に届いた。その偶然を喜ぶべきか否か、明良にはわからなかった。
「奏、どうしたんだこんなところで」
「それはこっちの台詞ですよ」
相川を伴った奏は、ぼんやりとコスメ売り場を眺めていた明良の横に並んだ。
「ここはコスメ売り場。だから私たちがいるのは至って自然だよ、アッキー。なんたって女子だからね」
相川はそう言って、奏を残して売り場に消えていった。
「休日に会うって、なんだか不思議な感覚ですね」
オフの同級生――特に奏は、これでなかなか学校で見るのとは訳が違う。まず、メイクがいつもより少し濃い。それが故に、奏の元から華やかな顔はより一層華やぎ、今にも吸い込まれそうな塩梅である。母のメイクは顔の造作を直す道路工事みたいなものなのだとかつて理解したものだが、奏のそれは本質的に異なる。なるほどこれが境地というものなのだろう。メイクアップのアップの部分を、今明良は初めて実感している。
私服というのもまた、雰囲気を変えるのに一役買っている。白い無地のブラウスに紺色のロングのフレアスカートを合わせただけというシンプルなコーデが、元々の顔のよさをより一層引き立てていると言えよう。
「……へ、変ですか?」
「全然変じゃない、ちっとも」
――しまった、つい見すぎた。
その外見だけで言うなら一級いや特級なのだ。いくら中身がアレであれ、見とれもする。
「ていうか明良くん、なんでそんなにいっぱい紙袋持ってるんですか? 物理法則に反してませんか?」
「俺もそう思う」
奏は前のめりになって袋の中を少し覗き込んだ。
「服と、コスメと、日傘……あ、デパコスもありますね。どれも女の子の買い物――ま、まさか、明良くん彼女が……⁉」
奏は腰を折ったまま頭だけ上に持ち上げた。
「母さんと妹だよ」
「そ、そうですよね。明良くんに彼女なんてそんな」
「お、なんだ、喧嘩か?」
ふう、と息をついた奏は、やっと上体を起こした。
「だ、誰よその女!」
そこへ戻ってきたのは、雅。その手には財布と、今しがた購入したらしいリップが握られている。後ろからは母も追随する。
「妹の雅と、母」
「こんにちは、四方山奏です」
ぺこりと奏が頭を下げる。
「もしかしてこの人が?」
雅は興味津々といった様子で、不躾にも奏のことを上から下まで舐めるように見た。人に言えたことではないが、流石に初対面の人間に向かってその態度はどうなのだろう。
「いつも明良がお世話になってます~母です~」
母が、母らしい声を出す。これが自分のことをチャラ男だのヤリチンだの言うのだから救われない。母の言葉に、奏はまた頭をぺこりと下げた。
「ちょっとお兄ちゃん嘘ついたの? どこからどう見ても根っこの先まで清楚で純粋そうな人じゃん」
ここにまた一人、奏の見た目に騙される人間が生まれるのだった。なるほどこうして奏のイメージが出来上がっていくのだなと、明良は勝手に納得した。
「お兄ちゃん嘘ついてないよ。今は人が沢山いるから猫被ってるだけで、こいつはかなりアレだよ。だいぶアレなんだよ。普段もっと酷いから」
「な、明良くんもしかして私のこと話したんですか⁉ ちょっと、聞いてないですよ、ねえ」
ぐらぐらと、奏に身体を揺らされる。明良の家族に本来の自分の話をされたとして、何だと言うのだ。
「明良くん、あまりあることないこと言わないでくださいね」
「ないことは言ってねぇよ」
「あることも!」
奏がぐいと耳元に近づいてくる。
「流石に私も、明良くんのご家族にえっちなことばっかり考えてると思われるのはですね、その、なんと言いますか……」
「はいはい。分かった分かった」
「全然わかってなさそうですね⁉」
まったくもう、と奏は溜息をつき、明良から離れた。
「羞恥心、ちゃんと残ってたんだな」
「失礼ですね。私だって女の子なんですよ」
「知ってるよ」
む、と奏は押し黙った。
「とっても仲がいいのね、二人は」
母が、ふふふと笑う。雅は、うーんと唸った。
「なんていうか、こんなのをどうして演劇部に誘ったんですか?」
「こんなのて」
「うーん、そうですね。同類の空気を感じたから、でしょうか?」
奏と目が合う。
――同類、ね。
「お兄ちゃんは奏さんと違ってめちゃめちゃイケメンってわけじゃないですよ。確かにブスではないけど」
「見た目のことじゃないわよ、ギャップの話よ」
母はそう言ってまたふふふと笑う。
「ギャップ?」
「そう、ギャップ。明良は見た目はチャラ男だけどヘタレ童貞、奏ちゃんも、さっきちょっと聞こえたけど、むっつりさんなんでしょう?」
ちらりと横を見れば、奏の顔は今までに無いほど紅潮していた。まるで茹蛸のようで、これほどまでに動揺する奏もそう見れるものではないだろう。なにせ、明良と話しているときの奏は大抵無敵になっているから。
――ていうかむっつりじゃなくてがっつりだな。
そう思ったが、口には出さなかった。
「てかちょっと待て、自分の息子にヘタレ童貞とか言うなよ」
「あらごめんあそばせ」
――全然反省してねえ。
「自分の根の部分を共有できる人って、案外得難いものなの。雅もいつか分かるときがくる。たぶんね」
母はそう言うと、それじゃあそろそろ私たち行かないと、と言って出口へ向かって歩き出した。
「じゃあ、また明日学校で」
「は、はい、また明日……」
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