門出

あいうら

門出


 息子の後ろでジャケットを広げていると、なぜか彼の幼少期を思い出した。


 腕を通す彼の動作がスローモーションになる。


 先ほどまでの緊張はどこかへ消え去り、束の間、私は回想にふける。




 線路の横で、息子の後ろにしゃがんでいた。


「でんでん!」


 彼がそう叫ぶと、目の前をものすごいスピードで電車が通過した。遅れて強い風に身体を押される。


「特急電車だ。ラッキーだったな」


 息子は嬉しそうに振り返った。


 私は息子と話すとき、よく"ラッキー"という言葉を口にした。


 当たり前のことを当たり前と思わず、幸せを感じられる大人になってほしい。そんな想いからだった。


 猛暑のなか、もう20分以上も太陽に照らされている。息子が熱中症にならないか心配だった。


「次のでんでんが来たら帰ろうか」


「やだよぉ」


 彼は覚えたての言葉を口にしてニコッと笑う。


 最近はなんでもかんでも"やだよぉ"で返す。


 ただそう言いたいだけで、別に帰ることに反対しているわけではない。


 遠くで踏切がゆらゆらと揺れて見える。汗が地面にポタポタと落ちた。


 しばらく待ったが電車は来ない。


「すぐ来ないかもしれないな。残念だけどそろそろ帰ろうか」


 息子を抱っこして立ち上がったときだった。遠くで踏切が音を立て始めた。


「お、ラッキーだな。でんでん来そうだぞ」


 息子が満面の笑みで小さな指を突き出す。


「でんでん、きた!」




 ジャケットを羽織った息子の胸ポケットに、妻が小さな花を挿した。


 彼は私たちの顔を見つめて微笑んだ。


「二人の子どもに生まれて、俺ラッキーだったよ。今までありがとう」


 堪えきれなくなった妻が泣き出すと、息子がわざとらしく、やれやれという表情をした。


 大きな扉が勢いよく開いた。祝福の声が彼を包む。


 私は妻の肩を支えて、息子を送り出す。


 神父に続いて歩く彼の後ろ姿が、再びあの頃に重なった。


 電車に向かって大喜びで走り出す、小さな息子の背中。


 あの頃の彼に会って、もう1回だけ電車を見に連れて行ってやりたかった。


 今度は何時間だって気の済むまで見せてやるのに。


「待ちなさい」


 思わずそう叫びそうになった。


 でも、あの小さな男の子は、もう私のなかにしかいないのだと気づく。


「ラッキーだった」


 妻が私の顔を見上げた。


「あいつが生まれてきてくれて、ものすごくラッキーだった」


「そうね」


 スタッフに促され、私たちもチャペルに足を踏み入れた。


 思いっきりお祝いしてやろう。親の幸せを教えてくれた彼に、これ以上ない感謝を込めて。

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門出 あいうら @Aiura30

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