第10話 生徒の笑顔は、プライスレス

“あの騒動”から数時間――。

 昼休みになり、授業がひと段落した教室から抜け出して、ベルと人の少ない秘密の庭園へやってきた。


 小さなベンチが数脚、植栽が控えめに配置され、木漏れ日が柔らかく差し込む場所だ。街の喧噪は届かず、風に乗ってパン屋の香ばしい匂いが流れてくる。授業の合間に隠れるにはちょうどいい、落ち着いた空間だった。


「……いくつか聞きたいのですけど、まず一ついい? なんで顔が違うの?」

「ああ、これな。変身魔法だ。面白いだろ?」


 ベルは首をかしげながら、俺の顔を見てきた。

 そう、今の俺は、ベルと同年代くらいの愛らしい少女になっていた。


 マオも活用していた変身魔法だ。こんなもの、宴会芸くらいにしかならないだろうと思っていたが、実際に必要に迫られると便利だなと実感する。

 ただ、まるで罪人にでもなった気分だ。俺は、ベルの笑った顔が見たかっただけなのに……!


「そんな魔法があるんですのね……全然知りませんでした。低級の魔法ですよね……? あなたが使えるくらいなら」

「さあ……よくわからん」


 マオも使っているぞと口を滑らせそうになったが、堪えた。余計な話はしない方がいい。


「まあいいわ。今日のところは、そのまま屋敷にお戻りなさい。お迎えは大丈夫ですから。あとで屋敷でゆっくりお話しましょう」

「そうか。その……学校では“給食”ってのが出ると聞いたんだが」


 俺が軽く期待を滲ませると、ベルは顔をしかめた。


「あなたにあるわけがないでしょうそんなもの! 舐めてるんですの!?」


 ベルがくわっとした顔で俺を叱った。まるで実の親子のようなやり取りに、つい頬が緩む。親子が逆な気もするが。

 沈黙の後、ふとベルが俯いて足先を見つめながら訊ねる。


「……なんで、付いてきたんですの?」

「ベルのことをもっと知りたかったからだ。俺は、君のことを何も知らないのだと気付いた。だから、仲良くなれないのだと」


 ベルは眉間にしわを寄せ、しばらく考え込んでから小さく頷いた。


「いろいろ方法は変ですけど、気持ちは伝わりました。それと、さっきは助けてくれてありがとう」

「当然だ。君を守るのが俺の使命だしな」

「…………叱ったり、しないんですのね」

「叱る? あの騒ぎのことか? 悪かったのはメリーと呼ばれた子だろう」

「……“ミリー”、ね。でも、大人はいつも先に暴力を振るったほうを咎めるわ」

「君が殴っていなかったら、俺があの子をやっていたぞ」

「えっ……!? どうしてあなたが――」

「一部始終を見ていたが、終始ミリーが挑発を続けていた。あちらは三人で囲んでいたし、ベルは態度を崩さず一貫していた。それに――、」


「悔しいじゃないか。やられたままでは」

 ベルと俺はニコイチ……になりたい存在。当然ベルの痛みは俺の痛みだ。


「…………全部、見てたんですのね」

「ああ。すまないとは思っていたが、ベルが学校でどんな生活をしているのか、気になった。学友たちとどんな会話をして、何が好きで、嫌いなのか、そういった情報を入手しようとしたんだ」


 ベルの唇が僅かに震え、静かに告白する。


「わたくしに、お友達はいません」

「そうか、すぐできるさ。俺にだって昨日友達ができたんだ」

「あなたに、ですか? どなたですの?」

「フッフッフ……聞いて驚くなよ。セバッチュだ! あの使用人は面白い。俺との会話もかなり弾むしな。故にアイツとはもう友達になったというわけだ」

「……ぷっ――」

「…………?」


 突然、ベルが吹き出した。


「あなたって……本当に、変わってますのね。誰かと思えば……なんでウチの使用人と……。いつのまにそんな関係に」

「一緒にベッドダイブをしようと誘ったら、断られてしまったんだ。でも今度は一緒にやりたいと思っている」

「……なんですの? それ」

「一緒にベッドに思い切り飛び込んで、共に笑い合うんだ」

「バカみたい……ふふっ、本当に……なんなのっ、ふふっ」


 ベルが、初めて笑った。

 いつも張り詰めた顔で難しいことを考えていそうな彼女が、あどけない無垢な表情で、笑ったのだ。


「ベルは、笑顔が素敵だな!」

「…………っ! べ、べつに……普通ですわよ。わたくしだって笑います」


 少しだけ耳を赤くしながら、ベルは照れ気味に言った。

 俺は、会話の中で拾ったベルに関する大事なことを質問する。


「ベルは、冒険者になりたいんだな」

「……子どもの頃の小さな夢ですわ。今は、そんなこと――」

「どうしてだ。夢は叶えるためにあるんじゃないのか。目指せば良いだろう」

「……そう簡単に、いきません。わたくしは、ミスティオ家の跡取りですので」


 確かに、そんな話だった。

 そもそも俺は、ベルをミスティオ家の後継者として立派に育てることが使命だ。


「跡取りになりつつ、冒険者にはなれないものなのか? よく知らんが」

「あなた、本当に何も知らないんですのね……」

「じゃあマオに掛け合ってみよう。ベルが言えば、マオも無下にはしないだろう」

「あなた……なんでお母様のこと呼び捨てなの? 腹が立つのですけど……」


 ベルは納得いってなさそうな顔で俺を睨み付けてから、また口を開く。


「お母様は、きっとわたくしの言葉を聞いてくださると思いますわ。わたくしのことを、大事に想ってくれていることは肌で感じますから。でも、だからこそ……わたくしは個人的な夢など、持つべきではないんです」

「……なんだか、息苦しそうだな」

「そうですわね。でも、わたくしには離島の当主として生まれた責任がありますの」

「……責任、か」


 俺の“使命”と似ている――。

 だとしたら、ベルはそれを叶えるべきなのだろう。

 でもなぜだろう。俺は、ベルにはもっと笑っていて欲しいと思った。


「その責任を果たすことが、ベルの生き方なのか?」

「……わたくしの……生き方?」

「……俺はな、かつて“とある使命”のためだけに生きていた。本当に、それだけのために生きてきたんだ」


 全身の力を抜いたまま、俺は庭園から見える青空を見上げる。


「だけど……その使命の中身が、自分の信じていたものとは違っていた。それで目標を見失って、何も手につかなくなった。……死ぬことまで考えた」

「……あなたに、そんなことが」

「結局、全部捨てて離島に来た。そこで新しい“使命”を与えられて、いろんなヤツと絡むようになった。そしたら、これが案外面白い。生まれて初めてフカフカのベッドで眠れたし、初めての友達に生徒、学校という世界を見ることもできた。お前たちにとってはなんてことない日常かもしれないが、どれもこれも、俺にとっては初めてで、貴重なことなんだ」


 ベルは黙って俺の話を聞いてくれている。

 今朝の時点ではほぼ会話もできていなかったのに。


「視野が狭すぎて、この世界に何があるのか、本当に何も知らなすぎたんだ」

「……世間知らずそうではありますね」

「いや、もっと酷い。興味を持つ、持たない以前の状態だ。世界中のあらゆるものが、俺の脳味噌を通過していなかった」

「……一体、どこでどんな暮らしをしていたんですか……相当ですわね」

「それは言えないが、俺がこんななんだ。ベルは俺よりもずっと頭が良いし、優秀だろう? だったら、自分に課せられた“責任”にハナからすべてを投げてしまうのは勿体ないような気がしてな」

「……それは、跡継ぎを投げ出して、夢を追いかけろということ?」

「いや。どっちでも、好きなほうを選べば良い。決めるのはベルで、俺じゃない。俺は教師としては赤子も同然だ。教えというものがまるでわかっていない。だから、これは俺の人生経験の感想を、ただ聞かせているだけだ。生かすも殺すも、ベルの好きにして良い」

「…………決めるのは、わたくし」


 その顔には、何か決意のようなものがゆっくりと芽生えているように見えた。


「俺のすることは変わらない。武技と魔法の家庭教師とボディーガード、それのみだ。お前の将来について口を出したりはしない。だが、手伝えることは全部するつもりだ」


 ベルは顎を拳にのせ、考え込むように目を細めた。いつもの凛とした表情が戻りつつある。


「まずはステータス開示ができるようになろう。そうなれば、自然と選択肢も増えるはずだ」

「……そう、ですね」


 突っぱねられると思ったが、やけに素直でしおらしい。良い子だ。

 ベンチから立ち上がり、俺は大きく伸びをした。庭園に、さっきよりも強く小麦の匂いが漂ってくる。


「ところで、いい香りがするが、これって給食か?」

「もうお昼を過ぎてますからね。……あなた、まさか」

「……ジュルッ」


 俺の口元が緩むのを見て、ベルは慌てて立ち上がった。


「だ、ダメですわよ! 早く帰ってください! お迎えはもう十分ですから、さあっ! はやく! もう帰れっ! お願いだから!」


 だが、俺の腹の虫は止まらない。

 絶え間なく俺のヨダレと好奇心は出続けるのであった。

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