笑顔

 父の手紙を読み終えてすぐ、私は衣類やノートパソコン、化粧品など必要最低限のものをスーツケースに詰め、要らないものはすべて捨てた。


 一週間後、不動産屋に行ってマンションを解約。その足でへと向かった。


 電車を乗り継ぎ、最寄駅のホームに降り立つ。東京都内ではあるが、山梨県に近い西のほう。辺りに背の高いデパートやマンションは立っていない。見えるのは、ほとんどが二階建て以下の民家だ。高い建物といえば、青い瓦屋根の日本家屋が一軒。かなりの大金持ちの家なのだろう、周りの民家より二回りは大きい。


 駅構内の階段を上り、改札を出る。大きな窓から見える空は、今にも雨が降り出しそうな曇天。


 今年は台風が多く、関東地方には直撃していないものの、その余波で天候が荒れる日が多い。折り畳み傘はスーツケースの奥にしまってある。中に入れた荷物を全部ひっくり返して取り出すのは面倒だ。


 雨が降ってくる前に、父の手紙に書いてあった住所へと急ぐ。


 駅から徒歩十分ほど、住宅街の一角にあの家を見つけた。間違いない。写真に写っていた家と同じ外観である。


 灰色の玄関扉の前に立ち、右手の人差し指をインターホンへ伸ばす。ボタンを押す寸前、全身がぶるりと震えた。このボタンを押したら、もう後戻りできない感じがして──。


 もしこの世界がゲームだったなら、ここはセーブをしてやり直せるようにしておくべき地点だろう。また両親の理想の家庭作りに付き合わされ、辛抱ができなくなったらリセットボタンを押して、今この瞬間の玄関前に戻ってこられるように。


 だが、私が生きる現実世界にはセーブ機能もリセット機能もない。そんなことは二十七年間の人生で充分に理解した上で、様々な決断をしてきた。そのはずなのに──体が震える。今までとは比べ物にならない、もっと大きくて重い一歩を踏み出そうとしているような感じがして。


 それでも、私に引き下がるという選択肢はない。家は解約してしまった。冷蔵庫も、洗濯機も、テレビも、本棚も、プリキュアのフィギュアもすべて捨ててしまった。


 戻れる場所は自分の手で跡形もなく消してしまったのだ。進むしかない。


 小刻みに震える指をなんとか操作し、インターホンのボタンを押す。呼び鈴の音がうっすらと聞こえた十数秒後、「はーい」という声とともに扉を開けて出てきたのは母だった。母と会うのも私が実家を出て以来、五年ぶりである。


 実家を出る前、馬車馬のように働く母を憐れには思ったが、彼女も私が嫌っていたを構成する要素の一つだったことには変わりない。だから、家を出た後も顔を合わせる気にはなれなかった。


 しかし、彼女は父のような救いようのない愚図ぐずでないことは分かっている。もし父と母、どちらかの頭を拳銃で撃ち抜かなければならないとしたら、私は迷わず父に弾丸をぶち込む。


 最後に見たときと比べて、母の外見はさほど変わっていない。私の記憶にあるままだ。強いていえば、目尻のしわがいくらか増え、白髪が若干多くなったくらいか。


 母は笑顔で、「どうぞ、入って」と、私からスーツケースをひったくり、先に家の中へ入れる。その刹那せつな、もう逃れられないと思った。同時に、私の心の中で覚悟が決まった。


 玄関でスニーカーを脱ぎ、右横にある、五十足は入りそうな巨大な靴箱にしまう。


「すごいでしょ? お父さん、奮発しちゃったんだって」


 自慢げに言う母。室内を見た私の第一声も「すごい」だった。


 一階から最上階まで吹き抜けになっており、各階が階段でつながっている。私の脳内にある日本の家屋とは全く異なる作りだ。そもそも私は集合住宅にしか住んだことがないので、一戸建てに対するイメージはアニメや漫画で得たものに過ぎないのだが。


 母は小さく笑みを浮かべながら、ルームツアーを開始する。


 一階は広いダイニングキッチンで、キッチンの目の前には横長のテーブル。作った料理をすぐに出せるように作られている。四つ口のコンロに、水を張れば金魚を数十匹飼育できそうな大きいシンク。料理がしやすそうだ。


 二階はリビングで、壁に埋め込まれた70インチのテレビをフカフカの白いソファに座りながら見られる。ソファの前には折り畳み式のローテーブル。行儀が悪いのは分かっているものの、つい足を乗せたくなってしまいそうだ。壁面にある大きな窓にはシャッターが付いていて、閉めて明かりを消せばリビングを真っ暗にできる。まるで小さな映画館だ。


 三階には個室が四つ。そのうち一つを父と母が共用し、もう一つを弟の賢太郎が使っている。残った個室二つのうち一つを、私の部屋として使っていいと言われた。


 個室と言っても、私が先週まで暮らしていたワンルームマンションより大きい。シングルベッドに作業用の机、本棚、エアコン、クローゼット、全身鏡まである。フィギュアを除けば、私が捨てたものの代用品が一通り揃っていた。


 各階すべて、床はほこり一つないすべすべのフローリングで、天井までの高さは私の身長の倍はある。外観から想像する以上に家の中は新しく、そして広く感じた。


 母と賢太郎は、二週間ほど前からここで暮らしているらしい。私と同じように、父から手紙をもらったそうだ。


「お父さん、心を入れ替えたみたい。その証拠がこの家だと思うの。ここまで頑張られたら……断るわけにはいかないじゃない? それに、賢太郎が新卒で入った会社を辞めちゃってね。また母さんのところに戻ってきて、生活が苦しくなっちゃって」


 母はそう言うと、私の自室となった部屋の隅にスーツケースを置いた。母も賢太郎も、私のように厳しい生活を送っていたようだ。


 地獄に堕ちかけた私たちに、父が垂らした蜘蛛の糸。父が今までやってきたことに内心腹を立てながらも、生き延びるためにはその糸を掴まないわけにはいかない──。


 母とともに一階へと階段を下りる。数十秒後、私たちの後を追うように賢太郎が下りてきた。さっきまで自分の部屋で寝ていたのだろう。髪は寝癖でぼさぼさ、顔の半分から下は無精髭ぶしょうひげを生やし、上下グレーのスウェットというだらしない格好をしている。


 賢太郎は「よぉ、姉貴」と気だるげに挨拶をすると、私たちを追い越してキッチンの奥にある大型の冷蔵庫を開けた。そして中から白いケーキ箱を取り出し、テーブルの上に置いて椅子に座る。


 箱の側面に入った金色のロゴに、私は見覚えがあった。『アン・ボン・ガトー』。老舗の高級ケーキ屋の名前だ。ケーキがワンカットで、安いものでも三千五百円はする。庶民が気軽に買える代物ではないが、高いだけあって味は絶品。YouTubeで芸能人やインフルエンサーなどが紹介していて、今どき女子なら誰もが知っている憧れのケーキだ。私もずっと食べたいと思っていたが、値段を見るたびに気が引けていた。


 そんなブルジョワなケーキを、身なりを整える気など一ミクロンもなさそうな弟がフォークで食べ始める。しかも、ホールのショートケーキだ。三、四万円はするだろう。こんな姿をマリー・アントワネットが見たら、


「今すぐケーキを食べるのをやめてカメムシでも食ってろ」


 と、ブチギレながら言うと思う。それくらい、この男には不釣り合いだ。


 私の左隣に立つ母は、複数人でシェアすることが前提のホールケーキをむさぼる賢太郎をとがめることなく、


「仁美も食べる? チョコレートケーキとチーズケーキ、どっちもホールで買ってあるけど?」


 と口にする。昔の我が家ではケーキを食べるとき、一人ワンカットずつと決まっていた。一人ワンホールずつなんていう、相撲部屋のようなサイズ感ではなかったのに、さも当然かのような口ぶりだ。


 それよりも不審に感じたのは、ワンホール三、四万円はするケーキを三つも買っていること。そんなに豪遊ができるほど金に余裕があるのかと、気になった。


「母さん、賢太郎が食べてるケーキ、かなり高いやつでしょ? どうして三つも?」


「だって仁美が来て、また家族四人が揃ったんだから、盛大にお祝いしたいでしょ?」


 何がおかしいのか全く分からないという表情の母。祝いのためだとしても過剰だ。金のかけ方を間違えているとしか思えない。


「誰か招待するわけじゃないんだよね?」


「ええ。お父さんと仁美と賢太郎と私、四人だけでパーティをするつもり。他にもいろいろ買ってきちゃった」


 そう言うと母はキッチンに入り、冷蔵庫から次々と料理を取り出す。ピザ、刺身の盛り合わせ、タンドリーチキン……統一感のない古今東西の料理が、キッチンの上に並んだ。


「……お金、かなりかかったでしょ? こんなに使っちゃってさ、大丈夫なの? この家だって安くないよね?」


 私の疑問に、母はふうっと小さくため息を吐いてから答える。


「大丈夫よ。お父さん、油絵が趣味だったでしょ? 私たちが出ていった後もずっと練習し続けてたらしいの。そうしたら、絵画をコレクションしている資産家の方に高く評価されたらしくてね。お父さんの絵を、一枚一億円で買い取ってくれたみたい」


「はぁっ!?」


 私の驚嘆の声が、家中に響く。これほど大きな声を出したのは、産声を上げたとき以来ではなかろうか。


 目と口を大きく開けて不本意な変顔をしている私を意に介さず、母は続ける。


「この土地を買うのも、家を建てるのも、絵を売ったお金でまかなったんだって。で、その方、お父さんの活動を今も支援してくれていてね。パトロンっていうの? 画家として活動する限り生活にかかるお金をすべて工面してくださるそうなの。私たち家族の分も含めて。お父さんが交渉したって言ってたわ」


 十数時間のデスクワークにも耐え抜く私の強靭な腰が崩れ落ちそうになった。世の中には自分の道楽に何億もの金を使える桁違いの大富豪がいるのだと知り、ぎっくり腰並みの衝撃が体を走る。


 家中の壁に、油絵がいくつも飾られている。父が描いたものだろう。私の記憶にある絵よりは幾分か上達していたが、ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』や、フェルメールの『ミルクを注ぐ女』などには遠く及ばない。では、ピカソの『ゲルニカ』のような、子供でも描けそうな絵だけれど才能があふれ出ている作品かというと、それもまた違う。まだまだ上には上がいるが、下手というわけでもない、な絵ばかりだ。こんなものに価値を感じて一億円もの大金を払う人間の気が知れない。


 私の大声が聞こえたのだろう、三階の自室にいたと思われる父が階段を下りてきた。昼間だというのに白いバスローブ姿。本人なりに大富豪気分を味わっているようだが、私にはエッチな動画の撮影開始まで待機している男優にしか見えない。


「やぁ、仁美、来たか。どうだ? なかなか立派な家だろ? デザイナーズハウスってやつだ。いろいろあったけど、父さんなりに頑張ってな。この家で、また家族をやり直そうじゃないか」


 手紙にもあった「家族をやり直そう」という言葉を父の口から直接聞くと、何倍にも重く、より気持ち悪く感じた。迂闊うかつに「はい」と答えていいものかと、覚悟を決めたはずの私の心が揺らぐ。


 けれど、私には選択肢など存在しない。すべて潰して、ここに来た。


「すごいね、父さん。……またよろしく」


 感情を上手く込められたか分からないが、私なりに精一杯の「はい」を伝えた。


 父は大きな笑顔を浮かべ、首を縦に振る。そして視線を、私から賢太郎に移した。


「賢太郎、ケーキ、美味うまいか?」


「まぁまぁかな。でも高いケーキを人の金で食べると、二割り増しくらいでおいしく感じるよ」


 全世界のスイーツ女子を敵に回すような賢太郎の言葉を聞き、私はこいつの後頭部を、眼球と舌が飛び出るまで殴ってやりたくなった。


 一方で父は、皮肉混じりの言葉を受けても笑顔を崩さない。むしろさっきより笑っているように見える。


「そうか。こんな立派な、父さんの工場のが一番良かったときでも食べられなかったからな。存分に味わいなさい。はっはっはっ」


 くだらない親父ギャグを放つ。しかも不謹慎極まりない。父の工場が倒産したことで私たちは路頭に迷いかけたし、従業員は全員失職したのだ。笑い事ではない。


 こんなセンスの持ち主が描く絵に、一億円もの値打ちがあるのだろうか。


 はあっと大きく息を吐き、呆れる私。しかし、私のリアクションとは反対に賢太郎は、ぷぷっと小さく吹き出す。母も「もう、お父さんったら」と笑う。ギャグの創造主である父は、もちろん満面の笑みだ。


 私が家を出る直前は殺伐とした空気で、M-1を優勝したお笑い芸人の漫才がテレビで流れていても、誰も笑わなかった。それがどうだろう。「金がある」というだけで、こんなにもが生まれる。その変化に、私はまた驚かされた。


 だが、この驚きはすぐに戦慄へと変わる。父も母も賢太郎も、笑うことをやめない。面白さがいつまでも後を引くようなギャグではなかった。なのに、やめない。まるで私も一緒になって笑い出すのを待っているかのように。


「仁美、笑っていいんだぞ」


 父の言葉に、私の体がびくっと小さく飛び上がった。間違いなく父は、私が笑うのを待っている。いや、笑わなければならない空気を作ろうとしている、と言ったほうが正しい。


「笑えよ、姉貴」


「そうよ、仁美、笑いなさい。お父さんがせっかく爆笑ギャグを言ってくれたのだから」


 賢太郎も母も、父の空気作りに協力的だ。その様子に違和感を覚えた私は、余計に口元に力が入り、笑えなくなった。


 しかし、は、この家では許されない。


「笑えぃっ!! 仁美ぃっ!!」


 父の表情が一変し、額と眉間に深いしわが寄る。そして笑い声ではなく怒声を放った。笑わなければならない空気なんて生温いものではない。笑いの強制だ。


「いや意味がわからないんだけど。何でそんなくだらないことで」


「笑えぃっ! お前の表情筋は何のために付いているんだぁ!?」


 私の言葉が、父の大声にかき消される。


 “親の言うことには逆らうな”


 やはりこの家族は昔のままだった。いや、昔より酷くなっているかもしれない。


 それでも私は、この家のルールに従いながら暮らすしかないのだ。後には戻れないよう、自分で自分を追い込んだのだから。


 私が生唾をごくりと飲み込むと同時に、父の表情がまた笑顔に変わる。


「笑え、仁美」


「……ははは」


 私の口から、感情の込もっていない乾いた笑いが漏れ出た。

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