手紙

 父から手紙が届いた。茶封筒の真ん中に大きく「塩尻仁美 様」と縦に書かれている。右肩上がりにかたむいた癖のある文字は相変わらずだ。


 何の要件なのか、私が一人暮らしをしているマンションの住所は教えていなかったはずなのにどうして手紙が届いたのか、といった不信感が湧いた。だが、肉親である父が娘にてたものなのだから、そもそも疑う必要などないだろうと、封を切る。


 そのとき、ああ、またこんな考え方をしてしいるなと思い、手が止まった。


 親の言うことには逆らうな。指示されたことには必ず「はい」と答えろ。そういう空気が蔓延している家庭で、私と弟の賢太郎は育った。その空気の出どころは、父・哲也と母・陽子。


 二人とも、良く言えば生真面目で、悪く言えば完璧主義な性格をしていた。たぶん、私が生まれるより前に二人で話し合って決めた理想の家庭像があり、そのイメージにぴったり沿った家庭を築こうとしていたのだろう。


 朝食と夕食は必ず四人揃って食べなければならない。学校には休まず通い、成績は常に良好であれ。休日は全員で外出するか、家族それぞれ趣味の時間に使って充実した一日にしなければならない──いわゆる「幸せな家族」がやってそうなことを毎日、毎時間、強要された。


 両親から暴力を振るわれたり、暴言を浴びせられたりしたことはない。食べ物にも衣服にも、住む場所にも困ったことはない。私も賢太郎も横浜にある実家で暮らしながら、少し離れた東京の私立大学に通わせてもらった。


 外から見れば私たち家族は「裕福で幸せそうな一家」だっただろう。しかしそれは、両親が決めた規範ルールがあり、子供たちがそれに従い続けたからこそ出来上がった外面そとづらだ。内側にいる私たち姉弟きょうだいは両親の「楽園建設」に付き合わされ、自由がなく、常に息苦しさを感じている。そんな家庭だった。


 当時の我が家について、賢太郎がどう感じていたか聞いたことはない。もしかしら好意的に捉えていたかもしれないが、少なくとも私は一刻も早くこの家を抜け出したいと、いつも思っていた。深海魚にとっての地上のような、最悪な環境だった。


 大人になり、自立できる力を身に付けて、望みどおり父と母の束縛から抜け出せたはずなのに──今でも「親の言うことに逆らうな」という思考が私の脳内にこびりついている。封筒を開けようとした瞬間、そのことに気付いて嫌気が差した。


 中身を読まずにそのまま捨ててしまおうかとも思ったが、もしかしたら家族や親戚の訃報かもしれない。だとしたら、無視するわけにはいかないだろう。


 封筒の中に入っている三つ折りに畳まれた便箋びんせんを広げ、内容を確認した。




仁美へ


 東京に土地を買い、家を建てました。


 もう一度、家族をやり直しましょう。


 母さんと賢太郎も一緒です。


 この手紙を読んだら、できる限りすぐ


 以下の住所に来てください。


 

 東京都立川市●● ●-●-●


 

 事前の連絡は不要です。


 生活に必要なものはすべて揃っています。


 足りないものがあれば買い足します。


 着の身着のままで構いません。


 また一緒に暮らしましょう。

 

            令和七年七月十一日

                   哲也




 これだけ。あまりにも淡白だが、私にとっては「家族をやり直しましょう」という一文だけで、嫌悪感をさらに強めるには充分過ぎた。


 父と母が築いた楽園は、私が22歳、賢太郎が20歳の頃に崩落し始めた。祖父が創業して、父が継承した自動車の部品工場は数年前から赤字続き。そこに新型コロナウイルスが畳み掛ける。国が発令した緊急事態宣言に伴い、元請けの自動車メーカーが事業を縮小。そのしわ寄せが父の工場を襲った。


 結果、工場は従業員を大量解雇した後に、閉鎖することに。経営者だった父はもちろん、経理を担当していた母も仕事を失った。残ったのは多額の借金のみ。個人が払える金額ではなかったため、父は自己破産までした。


 我が家にとって過去かつてないほどの逆境だった。それでも、「母は強し」といったところか。陽子はすぐに近所のスーパーでパートの求人を見つけ、週六日で働き始めた。それだけでは稼ぎが不十分だったため、スーパーが開店する前の時間にオフィスビルの清掃もやっていた。仕事を掛け持ちし、寝る間も惜しんで金を稼いだ。


 母のこともあまり好きではなかったが、体にむちを打つ姿は流石に哀れに思えた。少しでも家計の足しになればと、私は大学に通う傍らやっていたアルバイトのシフトを増やした。さらに、友達と遊ぶのも、映画館に行くのも、カフェに行くのも、コンビニでお菓子を買うのもやめて、稼いだ金を少しでも生活費に回した。賢太郎も同じように。そうしなければ、生きていけないほど極限の状況だったのである。


 私たち三人は協力していたが、父だけは違った。仕事にも家庭にも真摯しんしに向き合っていた今までの彼はどこへ行ったのやら。毎晩のように飲み屋をはしごし、朝方に帰宅。夕方まで寝た後、起きて趣味の油絵を一、二時間ほど描く。そしてまた夜の街へ繰り出す。


 クソが付くほど真面目で完璧主義な父は、壊すのも徹底的。理想の家庭を維持することが難しくなった状況を、とことん修復不可能へと追い込んでいく。私たちが稼いだ金の多くが、父の夜遊びに消えていった。それどころか、父は遊びの軍資金がなくなると新しく借金を作る始末。まさに我が家のがん細胞だ。


 こんな生活にはもう付き合いきれないと、最初に痺れを切らしたのは私だった。元々、我が家のあり方に対して不満を溜め込んでいたのだから、私が最初に限界を迎えたのは必然だっただろう。


 工場の倒産から半年ほどで、私は大学を卒業。就職と同時に家を出た。母と賢太郎はその後も働き詰めの生活をしていたらしい。崩落していく楽園から一早く抜けられたのは、不幸中の幸いだったと思う。


 母が父と離婚し、賢太郎を連れて楽園を離れたと聞いたのは、それから一年ほど経ってからのこと。私が家を出た後も、父の生活態度は変わらなかったそうだ。


 幼い頃から私は、母に「一度結婚した相手とは生涯添い遂げるものよ」と言い聞かされてきた。そんな古臭い頑固な考え方をしていた母も、愛想が尽きたのだろう。癌細胞を切除する決心をしたようだ。


 妻も、娘も、息子も、仕事も失った父。借金苦でパソコンも、スマートフォンさえも持つ余裕がない彼と連絡を取る手段はついえた。母とは違い、父に対して憐れみの気持ちは全く湧いてこない。すべて身から出たさび。自業自得だと思った。そのままくたばっちまえばいい、とさえも。


 それからおよそ五年。どん底に落ちたはずの父が、地元の神奈川を離れて東京に家を買ったと連絡を寄越してきた。一体何があったのか……。なんだか不気味に思える。そして、自分が台無しにした家族との生活をやり直そうとしている……。白々しいし、気持ち悪い。


 封筒には手紙だけでなく、写真も入っていた。父と母と賢太郎、三人が笑顔で並んで写っている。私が出て行ったときの絶望的な家庭環境を考えると、天地がひっくり返ってもあり得ない光景だ。誰が撮影したのか分からないが、離散した家族の笑顔の写真を撮れるなんて、相当凄腕のカメラマンなのだろう。


 父たちの背後には一軒の家。大豪邸とまでは言えないが、都内に建てるなら土地代を合わせて数億円は下らないであろう立派な戸建て住宅だ。三階まであるのだろうか、薄いグレーの壁面には窓ガラスが縦に三列並んでいる。


 父が買った家とは、これのことなのだろう。母と賢太郎が一緒に暮らしている証明として、写真を同封したことも予想がつく。しかし、五年も経ってなぜ父が家族をやり直そうなどと言い出したのか、どうやって家を建てたのか、どんな口説き文句で母と賢太郎を説得したのかは、分からない。だから直接聞いてみたくなった。


 ……いや、それ以上に今の私は、気持ち悪いとさえ感じる父の提案に応じるほかないのだ。


 大学を卒業し、Web制作会社にデザイナー兼イラストレーターとして就職した私。仕事は忙しく、定時に帰れる日は年に数えるほどしかない。日付が変わる時間まで作業をしても、朝には別の仕事の連絡でメールボックスが溢れている。いわゆるブラック企業に入ってしまった。そんな環境で働き続けることに限界を感じ、三年足らずで退職。当時は社内の人間関係も煩わしいと感じていたため、退職後は別の会社に転職することなくフリーランスのWebデザイナーとしてなんとか食いつないできた。


 だが、近頃は生成AIの発展により、デザインの知識がない素人でもプロ顔負けのWebサイトやイラストを作れるようになってきている。Webデザイナー、イラストレーターの需要は下がる一方で、私も例に漏れずその煽りを受けていた。定期的に仕事をくれていたクライアントとの契約が次々に打ち切られ、今は来月の家賃を払えるのかさえ怪しい状況なのである。


 そんなとき、立派な家を建てた父から「一緒に暮らそう」という連絡があったのだ。


 息苦しい楽園からは逃れられたはずだったのに──今の私には「はい」と答えることしかできなかった。

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