第2話

「ちょっと待ってよ!」

 僕達の後ろから香織の少し怒った口調が聞こえる。

「待てないよー。香織の家の門限まであと五分だ」

 仁が陽気に答える。

「ようし! 急げ」

 僕は香織の手を取って、走り出す。仁は戦陣を切って一番前を走って行く。彼は中学校時代に陸上の二百メートル走で全国出場したことがある。走るフォームも美しくて見とれてしまう。


「待てよ!」

 今度は僕もおっきな声で仁を呼び止める。

「待てないよ! 香織と手をつなぐ役、僕に譲ってくれるなら待ってやる」

「もう!」

 香織はふくれっ面をしたまま、一緒に駆けて行く。仁と僕は仲良しではあるが、三角関係のようなものだ。


「門限、七時なんて早すぎだよ」

「心配症なのよ、うちの親」

 高校時代、僕達は香織の家の門限に遅れそうになって、よく自宅まで送って行った。彼女はちょっとしたお嬢様で、両親の躾が厳しかった。その分、彼女は愛情もたっぷり注いでもらっていたようで、自分は「愛されるべき人」だと知っていた。アオゾラのように澄み渡った心をもつ彼女は、僕達の憧れの的だった。


 僕たちはあの頃、三人の関係はずっとこのままだと信じていた。夜の一本道は、街灯の朱色の光に照らされてどこまでも続いていくかのように見えた。穏やかなお互いの好意が、成就しないでいるのが三角形を美しく保つための秘訣だった。あの道は、僕たちの青春の証のような場所でもあったのだ。


 僕たち三人が出会ったのは、高校の入学式の日だった。中学の同級生がほとんどいない進学校に合格した僕は、緊張した面持ちで高校の門をくぐった。昇降口で上靴を忘れたことに気付いた僕は、思わず「あっ!」と叫んで注目を浴びてしまった。ちょうどその場に居た、二人が声を掛けてくれたのだ。


「どうしたの?」

「あ、えっと上靴を忘れちゃったことに気付いて」

 僕は予想外のことに固まってしまった。入学式を迎える緊張と相まって、その場に立ちすくんでいた。

「私、スリッパを借りられるか聞いてきます」

 思いがけない言葉に、状況が掴めずにいた。なぜ、初対面の僕のためにそんなことを? 


 僕は彼女が本当にここへ戻って来るのかも分からずに待っていた。すると、声を掛けてくれた男子も一緒に待つつもりらしく、僕に微笑み掛けてくれた。でも僕は、思わず視線を外してしまった。沈黙が流れる。今度はその沈黙が耐えきれなくて「待たせてごめん」と言いたかったのに、喉の奥がつっかえて声が出ない。


 そのとき、遠くから靴音が響いた。トン、トンとその軽快なリズムは少しずつ大きくなった。

「スリッパ、向こうの玄関から借りてきました」

 息を切らしながら、弾むような声が聞こえた。


 振り返った僕の前に、満面の笑みの香織がいた。その瞬間、胸の奥で何かがふっと弾けた気がした。僕は心を奪われてしまった。僕の心の音が聞こえたとしたら間違いなく「キュン」だ。顎ラインくらいに髪の毛を切り揃えた彼女は活発で礼儀正しいイメージがした。瞳はくるくると見るもの全てに関心を示すかのように動いた。仁は、爽やかな笑みを浮かべて僕たちを見守っていた。


「向こうにクラス発表の掲示板がありましたよ」

「一緒に見に行こう」

 行動力のある仁に促されて、まるで昔からの友達のように三人で駆け出した。掲示板の前でクラスを確認した時、お互いの名前を知った。

「三人共、同じクラスね! 嬉しい」


 知り合ったばかりの香織が微笑む様子に、僕も頬が緩んでいた。親切な二人のおかげで、危うく僕は入学式に靴下で参加することを免れた。忘れたいはずの思い出は、三人の出会いの始まりとなった。

 偶然にも同じクラスだった僕達は、少しずつお互いのことを知りながら、三人で居ることが心地良く感じる間柄になっていった。


 仁は中学生の時から陸上の二百メートル走で全国大会に出場したことがある強者だったから迷わず陸上部に入った。香織は中学生の頃は吹奏楽部でフルートを吹いていたが、高校では続ける気はないという。僕も、中学校の頃は陸上部だったが、長距離と砲丸投げを掛け持ちして、いかに才能がないか気付かされた。だから陸上を続ける気はなかった。中学最後の陸上大会で、電光掲示板に映し出された二百メートル走大会新記録に会場中が歓声に包まれたことがあった。


 あれは仁が出した新記録だったのだと、或る時ふと気付いた。彼はとてもすごい奴で、才能も、人気もある。本来なら僕なんかと友達になるような相手ではない。もっと華のある奴なんだ。そう思いながらも、彼の誠実さや朗らかさに惹かれていった。


 始業式翌週、香織と僕は二人で部活動見学に行った。仁は既に陸上部に入部をして練習が始まっている。僕には密かに入部を検討している部活があった。香織と部室の方向へ向かってぶらぶら歩いていると、屋外で活動していた写真部の先輩と遭遇した。


「そこのカップル! ちょっと写真に写ってみない?」

 知り合ったばかりのただの友達なのに、カップル呼ばわりされて耳まで赤くなるのが分かった。

「カップルなんかじゃないですよー。まだ私達知り合ったばかりです」「あ、じゃあ二人で写んなくてもいっか」

「喜多川香織と言います。よろしくお願いします」

 香織は平気そうな顔で、勧誘の先輩男子と、すっかり打ち解けて喋っていた。

「活動日は週に何回ありますか?」

「写真部はね、個人に委ねられていて、必ず出席するべき日が週に二日。あとは来たい時に来ればいいし、部室に顔を出さずとも、好きな場所で写真を撮ればいいんだよ」

「そういう緩い感じ好きです」


 入部したい部活の第一位が写真部だったから、活動日数に関わらず、入部を希望するつもりでいた。香織は、すっかりモデル気分で先輩の写真に収まっていた。彼女はさり気ない表情の中にも、目の輝きがあってモデル映えするタイプだ。ひとしきり写真撮影会をした後に、部室も見学に行った。そこには、組み写真と言われる先輩達の作品が飾られていた。


「輪廻」というタイトルの組み写真に釘付けになった。赤ちゃんを抱いた母親と、その両親、祖父母が一枚のパネルのように収められている。それぞれの表情は、瞳にほんのりとした温かさを備えていた。祖父母の瞳には深い皺が刻まれていて、それはまるで年輪のようでもあった。赤ちゃんの瞳から鼻に掛けてが祖父の顔に似て、母親と祖母の顔はそっくりだ。生命は繰り返されているのだというメッセージが静かに伝わってくる。複数の写真を組み合わせてテーマに沿って一つの作品として表現する奥深さを知った。「組み写真」に挑戦したい、心から思った。


 僕達はやってみたいことが一致して、写真部に入ることになった。元から同じ部活動に入ろうと相談していた訳ではなかったが、仁には誤解された。

「なんだ、二人で写真部に入るの? いいなあ!」

 仁は「羨ましいオーラ」全開でいじけて見せた。

「じゃあたまには陸上部の練習風景でも撮りに来てよ」

 ちゃっかりリクエストをしてきた時には、「羨ましいオーラ」は消えていた。


「もちろん! いい写真が撮れそうだから」

 香織が目配せをしてきた。

「あ、ああもちろん行くよ」

 部活動の時間も香織と一緒にいられることがうれしくてたまらなかったのだが、仁にそれが伝わらないように、極めて冷静な態度を取っていた。


 僕が写真部に入部を決めたのには理由があった。元々写真撮影が好きだった僕は、中学生の頃に写真好きな先生に出会ったのだ中学三年時担任の梅本先生が撮る写真がとても好きだった。生徒の写真を撮って教室に飾ってくれたり、学年便りに載せてくれたりした。写真に写る生徒の顔は、部活動中の真剣な眼差しであったり、友達と話している時、行事に参加している満面の笑顔だったりした。どの写真も躍動感に溢れ、美しかった。


 被写体がもっている「静」の部分や「動」の部分をうまい具合に切り取って瞬間真空パックしているかのような見事な写真だった。いつか梅本先生のような写真を撮りたい。ずっと車の写真しか撮ったことがなかった僕が、初めて人物を撮ってみたいと思ったのだ。


 初めて僕がカメラに興味を抱いたのは、小学生の頃だった。父の仕事の関係でモーターショーに行った時、赤く輝く車が展示されていた。カローラシリーズのステーションワゴン、フィールダーだ。間近で見た時は衝撃を受けた。特に赤色の特別仕様車は、ボディがメタリックに輝きながら、内装にもこだわりが見られ、赤いステッチが施されていた。父親からフィルムカメラを借りて、大切な一枚をパチリと撮影した。その時の一枚が、僕の部屋に今も飾られている。その横にはじいちゃんによく乗せてもらったランドクルーザーの写真が並んでいる。


 デジタル一眼レフの中古をネットで探した。Nikon D5000 を見付けたので即買いした。梅本先生と同じ機種だったからだ。届いたその日に箱からそっと出してみると、見覚えのあるその黒いフォルムは、中学校時代に先生が手に構えていたのと全く同じカメラだった。僕はまるで欲しかったおもちゃを手にした小学生のように無邪気に喜んだ。翌日の写真部の活動が楽しみで仕方がない。


 授業を受けに行っているのか、写真部に参加するために通っているのかわからないくらい放課後が楽しみだった。香織は父親からデジタル一眼レフカメラをプレゼントしてもらったという。パナソニックのルミックスGM1という白色のコンパクトなカメラだった。そのカメラを革紐ベルトで肩に掛けた香織は満足げに笑っていた。新品で五万円くらいしたらしい。お嬢様感あるそのカメラは、見た目以上に高性能だった。


 写真部の活動のメインは、チームで行う組み写真の作成だ。二年生になると文化祭展示、三年生になると「写真甲子園」にも応募できる。その他にも地元の写真コンクールに出品したり、校内掲示板に写真を飾ったりしながら腕を磨くのだ。活動の自由さが僕にはちょうど良かった。


 活動が本格的に始まると、香織が撮る写真のうまさに驚く。色彩が豊かで透明感がある。そして光を感じる。またアオゾラのようなシンプルなものにも、吸い込まれそうな魅力がある。見ている人の気持ちが高揚するのだ。様々な撮影方法を試しては自分の好きな撮り方を模索しているのが分かる。


 僕は主に人を撮っていて、彼女は主に風景を撮っていた。そんな彼女も風景以外に撮りたいものがあった。仁の走る姿だ。僕が撮る仁の写真よりも、走っている躍動感が伝わってくる。僕が、他の選手との関係性を写真に収めているのに対し、香織はシンプルに仁だけを撮っている。ほとばしる汗の輝きまで収めている。香織の写真に写る仁は、とてもいい表情をしていた。


 正直なところ、香織が撮った仁の写真は好きにはなれなかった。実際の仁よりも数倍、かっこ良く撮影されている。僕には、そんなふうに撮れない。


 僕たちは、抜群のバランス感覚で、三人の関係をずっと「きれいな正三角形」に保っておく必要があった。


 それが、僕たち三人の友情を保つための、ただひとつの方法だった。











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