そして終わりに頭を垂れよ
なかいでけい
そして終わりに頭を垂れよ
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
私は何事かとテレビの画面に目を向けた。
NHK、7時のニュースは始まったばかり。
「このメッセージは、NHKの前身である社団法人東京放送局の初代総裁だった後藤新平が、2023年の5月25日、朝7時に読み上げるよう、書き残したものです」
淡々とカメラを向いて喋っていたニュースキャスターは、そこで言葉を区切り、わずかに口角を持ち上げ、続けてこう言った。
「それでは、本日のニュースです」
その後ニュースの中で「世界の終わりまであと七日」について、それ以上の説明がなされることはなかった。また、例えば「先ほど番組内で不適切な発言がありました」といったフォローが入るようなこともなく、そもそも最初から、あの発言などなかったかのようにニュースは進んで行った。
私は幻覚でも見たのだろうか。狐につままれたような思いのまま、通勤電車に揺られながら、SNSを開いた。
すると、SNSではすでにトレンドのすべてが『世界の終わりまであと七日』に関するワードで埋め尽くされていた。やはりあれは幻覚ではなかったのだ。
「あれは今後放映予定のドラマの番宣だったのではないか」
「ニュースキャスターが思いつきで喋っただけ」
「そもそも初代総裁だかのメッセージというのは本当に存在するのか」
「メッセージが本当に存在するとして、そんな胡散臭いものをなぜNHKが読み上げたのか」
「本当に世界が終わるとして、具体的にどう終わるのか」
「世界が終わらないようにするには、どうすればいいのか」
多くの人が、思い思いの疑問と考えを書き綴っていた。
メッセージの受け取り方は様々だが、少なくとも、NHKが『世界が終わりまであと七日』という文面を読み上げたということは紛れもない事実であり、その事実が、人々の心の中に大小様々な不安を生み出したことは確かだった。
私も言い知れぬ薄気味悪さを覚えてはいたが、しかし、「NHKで世界が終わるまであと七日だと言っていたから」などという理由で仕事を休むわけにもいかず、結局いつも通り自分のデスクにつくしかなかった。
昼休み、再びSNSを眺めていると、アメリカやイギリス、中国にインドなど、世界中の国々でも、日本時間午前7時――グリニッジ基準時午後10時に放映されていたニュース番組で、「世界の終わりまであと7日」というメッセージが読み上げられた、というニュースが流れてきた。
どの国の放送局でも、それぞれの放送局の初代開設者や創設者がこのタイミングで読み上げるように書き残した、という文面を読み上げた、というところまで同じだったようだ。
また、どの国でもそれ以上、そのメッセージに対するフォローがなかった、という点も、今朝のNHKニュースと一致していた。
世界中で起こっているとなると、これが日本だけで行われた番宣や、しょうもないドッキリの類ではないことだけは確かだ。だけれども、なぜこれらのメッセージを書き残したのが、放送局の創設者だったのか、というのが判然としない。
放送局の創設者だけが知り得、書き残した、というのは如何なる理由だったのだろうか。世界中の放送局の創設者が所属していた秘密結社でもあった、ということなのだろうか?
同じような疑問を呟いている人はいたが、しかしそれよりも、これだけ世界規模でアナウンスされたこととなると、本当にあと七日で世界が終わるのではないか? と騒ぎ始めた人の方が圧倒的に多かった。
早速、散財を始める人、行きたかった場所へ出かける人、会いたかった人に会いに行く人などが現れはじめた。
私も、そんな彼らを真似て、仕事を抜け出して、愛猫アコルの待つ家に帰り、溜まっているNetflixのドラマを見終えてしまいたかったが、締め切りの近い案件を抱えていたため、本当にあるのかも分からない『世界の終わり』を理由に帰るわけにもいかなかった。
このまま何事もなく世界が続くのなら、仕事を無下にするわけにもいかないものだ。世界が終わらなかった場合のことを、どうしても考えてしまう私である。
夜、夕食を家で食べながらテレビを付けると、NHKのニュース内で初代総裁が書き残した、という一枚の紙面を公開していた。
そこには、確かに、今朝言っていた通りの内容が書かれていた。
紙には1924年の12月8日に書かれた旨が記されており、たしかにその通り、相応な古めかしさを放つ手紙だった。
が、結局ただキャスターが紙をカメラに向けて広げ、「このように実際に書き残されたものです」と証明するだけで、例えば、局内でこのメッセージを公開することに関する話し合いがあった、だとか、世界中で似たようなメッセージが公開されたことに対して言及する、だとか、このメッセージに関して有識者に意見を聞いてみた、だとか、そういった付加的な内容は一切なかった。
まるでこちらの感情など無視したような、その淡々とした機械染みた対応には、強烈な違和感があった。今現在、NHK渋谷放送局の前で警官隊と小競り合いをしている人たちとも、世界の終わりを本当に信じて『#あと七日で人生をやり切る』チャレンジを始めている人たちともかけ離れた、まるで別世界の対応を見ている気分にさせられるものだった。
ほぼ同時刻に世界中のあらゆる国で『放送局創設者が残した手紙をカメラの前で公開する』番組が放映された事実がネット上で拡散されたのは、それから30分後のことだった。
翌朝目を覚ますと、アコルが柄にもなく何度も鳴き声をあげて、私に何かを訴えかけてきた。具合でも悪いのかと訝しんだものの、朝食も問題なく平らげているし、鳴き声をあげる以外に特に変わったところは見られなかった。おそらく猫特有の気まぐれなのだったのだろう。
今朝のNHKのニュースでは、世界の終わりまであと六日になりました、とさらにカウントダウンするようなこともなければ、昨日のメッセージについて言及することもなかった。
ただ、民放の放送局ではこぞって昨日のメッセージについて取り上げていた。
私の見ていた番組では、NHKをはじめとした各国のメッセージを発信した放送局へ問い合わせを行ったようだが、何れも一切回答はなかった、とのことだった。
通勤電車は、以前となんら変わりのない混雑具合だった。皆、ちょっと世界が終わるかもしれない、と報道されたくらいで、仕事を休むわけにはいかないのだろう。SNSでは大騒ぎしていても、現実ではこんなものなのだ。私自身、世界の終わりが気になるものの、締め切りの近い仕事をどう片付けていくかばかり考えながら電車に揺られていた。
週末の慌ただしさに忙殺され、遅い昼食をとりながら、世界の終わりについて何か進展はないかとSNSを覗いてみるが、『メッセージを発信した放送局に問い合わせをしてもノーコメント』という今朝の民放で放送していた内容より目新しい情報はなかった。
いまのところ、あのメッセージがあった以外で、世界が終わりそうな気配などみじんもない。
たとえば、NASAが隕石の急接近を知らせるだとか、ホワイトハウスが宇宙人から地球破壊の宣戦布告を受けたことを報告するだとか、どこかの研究団体が地球の地殻の大規模な変動を観測しただとか、そういうことも一切ない。逆に、そういった主要な団体は、「我々は前兆を一切検知していません」と発信するくらいだ。
世界が終わる、なんて極大のインパクトを放つ事象が起こるというのなら、かならずその前兆があるに違いないのだ。それが一切見られない以上、いかに世界中の放送局で同じメッセージが読み上げられる、などという奇妙なことが起こったとはいっても、世界の終わりを鵜呑みにはできない。
帰宅し玄関を開けると、部屋の真ん中でアコルがこちらを向いて待っていた。
そして私に向かってひと声、鳴き声を上げた。
その瞬間、唐突に、まるでここが自分の部屋ではないような、違和感を覚えた。
しかし、玄関に置いてある靴も、部屋に置かれたソファも、テーブルも、鞄も、すべて私のものだし、そもそもアコルが部屋にいる時点で、ここは私の部屋なのだ。だから、ここが自分の部屋ではないような気持になること自体がおかしい。そうやって冷静になると、どうして自分がそんな気持ちになったのかすら、もう分からなくなってしまっていた。
仕事でそれほど疲れた、というわけでもなかったのだが、もしかしたら自分が思ったよりも身体が疲労を訴えているのかもしれない。私は早々に眠ることにした。
翌日。土曜日だというのに早く目が覚めてしまった私は、手癖のようにSNSを開いた。すると、数万人によって拡散されている、一つの呟きが目に留まった。
「それで結局、世界が終わるとしたら、どんな風に終わるの?」
それは有名な男性俳優の何気ない呟きだった。
この呟きに対して、多くの人が、思い思いに、
「シンプルに隕石が降ってくると思う」
「神の怒り的な大洪水」
「地球が爆発するのでは?」
「見えない所にブラックホールがあって、それに急に飲み込まれるんだよ」
「地獄の門が開いて悪魔が沢山出てくるやつ」
「太陽系の外から宇宙人の超技術ビームが撃ち込まれて終わり」
と、各自の想像する世界の終わりかたを答えていた。
その中にひとつ、私の目を引いた答えがあった。
「終わるのはバーチャルなこの世界で、本当の世界で目が覚める」
私は、隕石が降ってくるとか大洪水が起こるような世界の終わりは想像していたが、この世界が実はバーチャルでそのバーチャル世界が終わる、という世界の終わりは全く想像していなかったので、言われてみれば、そういう終わりかたもあるな、と感心してしまった。
確かに、世界中の放送局でメッセージだけ出してノーコメントのような、放送局が催眠術にでもかかったかのような奇妙な動きがあったのも、バーチャルなこの世界を、現実の世界で操作したのでは、と考えると、なんとなく納得できてしまう。
ただ、なんとなくそうやって簡単にそれらしい答えに飛びついて安易に納得するのは、まるで中学生が911のマッチポンプ陰謀論を知って悦に入っているようで、大人になった身分として、それは躊躇われた。
しかし、改めてネットを見回してみると、同じように「この世界がバーチャルで、終わりとともに本当の世界で自分が目覚める」という説を強く信じている人々は、一定数いるようだった。
彼らはみな、この世界はバーチャルなのだから、終わりとともにバーチャルの中で死を迎えようとも、本当の世界で目が覚めるので、何も恐れる必要はない、と考えているようだった。
だが、この世界がバーチャルで、世界の終わりとともに現実の世界で目を覚ます、というのは、結局のところ現実で死んでも死後の世界がある、というのを信じているのと大差なく、いま現在生きていると認識しているこの世界において死ぬということに変わりはない。
それに、バーチャルから現実に戻る過程で、思考が連続しているとも限らない。この世界でのすべての経験が一切なかったことになり、ただ本当の世界の私が、バーチャルでの記憶を持たずに、夢を見なかった日の朝のように目を覚ますだけかもしれない。
そもそも、この世界がバーチャルだとして、自分が真の自分が操作するアバターである、というのも希望的観測でしかなく、ただの賑やかしの雑多なNPCである可能性だってあるわけで、バーチャル世界のシャットダウンを以て、無に帰すということだってあり得るのだ。
そこまで考えを巡らせてから、こんなことを考えても、結局結論など分からないわけで、不毛なのだということに気づき、私は大きくため息をついた。
私はスマートフォンを枕元に置いて、足元で丸くなっているアコルの邪魔にならないようそっと体を起こした。そうして再び、昨日、帰宅したときに感じた自分の部屋が自分の部屋ではないような違和感を覚えた。
しかし、なぜ自分がそう感じるのかは、やはり分からずじまいだった。
さて、本当にメッセージの通り世界が終わるとすると、残された時間はあと5日なのだが――本当の本当に5日で終わるのなら、貯金を使い果たし、食べたことのない豪勢な食事をしたり、どこかのホテルのスイートルームに泊まってみたり、などはやってみてもいいのだろう。しかし本当の本当に終わるか確証が持てない以上、終わらなかった場合にダメージの残りそうな行動には出られない。だからといって、万が一の場合にもダメージが残らない程度の、無難な範囲でやっておきたいこととなると、これといったものが思い浮かばない。
家族や友達と会ったりしておいてもいいのだが、しかし私のほうから「世界が終わるかもしれないから、会いたい」などと持ち掛けるのは気恥ずかしい。とりあえず、まだ日数も残っているし、いよいよ、となるまでは向こうから声をかけられるまで待ってもよいだろう。
そういうわけで、私はNetflixでドラマの続きを見ることにした。結局、世界が終わりそうだといわれていても、やることは普段の週末と変わらない私である。無理やり普段しないようなことをするよりも、普段通りぼんやり過ごすほうが、私の性に合っている。
しかし、そうしてドラマを観はじめてみたものの、どうにもドラマが冗長に感じられ、のめりこむことが出来ない。観ていたドラマが悪かったのかと、別のドラマに変えてみるが、やはり会話やその間、アクションシーンに至るまであらゆる場面が間延びして感じられ、見ていて退屈なのだ。その後もいくつかドラマや映画を切り替えてみるが、いずれも集中して観ることができなかった。
どうして普段なら楽しめるはずことが、楽しめないのだろう。これほどまでに集中できないのは、はじめてのことだった。
――悩むまでもない。誰かが世界が終わるなんて言ったからだ。
私はドラマを観るのを諦めて、コンビニへ昼食を買いに行くことにした。
財布を手に取り、玄関から出たところで、またもや周囲の景色に違和感を覚えた。
見慣れたはずのアパートの廊下が、目の前のビルが、いつもとは違うもののように感じられるのだ。その違和感はコンビニへの道中から、コンビにの店内に入ってからも、その帰り道でも消えることはなく、ずっと脳の片隅が、何かが普段とは違う、と訴え続けていた。
自宅に戻ってきた私は、部屋の真ん中にしばらく立ち尽くしたまま考えてみて、ずっと感じていた違和感の正体が、ようやく朧気ながらではあるが、理解できた。
あらゆるものの配置が、いつもと違うように感じるのだ。
テレビの位置や、シンクの位置、時計の位置にテーブルの位置が、部屋の中に置かれたありとあらゆる物が、普段とは微妙に違う場所にあるように思えるのだ。
しかし、落ち着いて観察すると、決して位置が変わったなんてことがあり得ないと分かる。窓際の壁にカラーボックスが置かれ、そこにテレビ台がくっつくように置かれ、テレビ台の横には本棚がふたつ。その隣は、収納の扉がギリギリ開くだけのスペースがあいている。それらの配置は以前と変わりがなく、それぞれの物体が大きくなったり小さくなったりしたのでなければ、位置が変わったように感じられるはずがないのだ。
私は試しに、メジャーでテレビ台の横幅を測ってみた。173cm。購入したときのサイズと同じ。私はそのまま、カラーボックスや本棚、さらには本棚に収まっている漫画の単行本や文庫本のサイズを測ってみたが、いずれも規格通りのサイズであり、何も変化はなかった。当然だ。何が起こったら、それらの大きさが変化するというのだ。
だが、違和感は時間と共に少しづつ、しかし確実に強くなっていった。
やがて私は、この違和感の正体を理解した。
物の配置が違うように感じられるのではなく――
――すべての物が以前よりも遠くにあるように感じられるのだ。
テレビも、本棚も、玄関も、窓の外の幹線道路も、そのすべてが、以前あった位置よりも遠い場所いあるように感じられるのである。しかし、それはあくまで感じられる、というだけで、実際の距離は変わっていないのだ。
これは私自身の肉体についても同じように感じられた。両手を前に伸ばしたときに、その指先がある位置が、以前にくらべて拳ひとつ分以上、遠くにあるように感じられるのだ。
まるで、私の意識を中心にすべてのものが遠ざかってしまったかのように。
そして、このすべてのものが遠ざかっていく感覚は、時間と共に強まっていた。
私はこの状態が一体何なのかを調べようとスマートフォンを手に取った。そこで、私のスマートフォンのレスポンスが妙に緩慢なことに気が付いた。
ネットの画面移動が、アプリの反応速度が、良くないのだ。しかし、再起動してみても状態は変わらない。むしろ、すこし悪くなったようにすら感じられた。
その時、アコルが妙に間延びした声で鳴き声をあげた。
振り返ると、アコルはベッドの上で丸くなっていた。背を撫でてやると、再び妙にのんびりした奇妙な声で鳴いた。
そういえば、アコルは朝からずっと、ここで丸くなっていたのではなかったか。昨日から様子がおかしいとは思っていたが、やはりどこか具合が悪いのだろうか。
私は不安になり、かかりつけの獣医に電話をかけてみることにしたが、電話は話中で繋がらなかった。もうしばらく様子を見るしかない。
仕方なく、私は先ほど調べかけて止まっていた、「あらゆるものが遠くにあるように感じる」状態について、改めて検索してみた。
すると、SNSでも同様の症状を訴えている人々が多数いることが分かった。
いや、多数、という状況ではない。
SNS上にいる人たち全員が、あらゆるものが遠くにあるように感じられる状態に陥っており、パニック状態になっていた。
また、あらゆるものが遠くにあるように感じられる、というだけでなく、時間も徐々に遅くなっているように感じられる、という呟きも多数あった。
そこで私ははっとした。
今朝から感じていた、ドラマが間延びして感じられたり、スマートフォンのレスポンスが鈍く感じられたり、アコルの鳴き声が間延びして聞こえることも、この時間が遅く感じられる、という言葉で、説明がつくのではないか。
改めて、この時間が遅く感じられる、ということをどうにか自覚できないかと、自分の手を握ったり開いたりしてみると、わずかにだが、しかし確かに、自分が思っているよりも実際の自分の動きは遅く感じられた。
「空間と時間認識の膨張、これこそが世界が終わりに至る前兆現象なのだ」
SNSでは、そんな言葉が派手に拡散されていた。
確かに、この状態が全人類に及んでいるのだとすれば、ただ事ではない状況である。一昨日のメッセージの信憑性がにわかに高まったと言えるだろう。
しかし、それでは、この現象の果て、5日後にやってくる世界の終わり、というのは具体的にどんな終わりなのだろうか。
たとえば、いま地球がブラックホールに飲み込まれようとしていて、だからブラックホールの中心に向かって徐々に地球全体が引き延ばされている、とか。
しかし、膨張しているのはあくまで認識だけで、実際に膨張しているわけではない。もしもこれが私の視界に見えている通りに世界が歪み膨張しているのだとしたら、私の肉体はすでにズタズタになっているはずなのに、実際はそんなことは起こらず、私はこうしてベッドの上でのんびり考え事が出来ている。
やはりこの世界はバーチャルで、現実の世界に意識が戻ろうとして、そちらに引っ張られているから、こうして認識が膨張している、と考えるほうが、ブラックホールに飲まれようとしているよりは、しっくりくる。
私たちの人格が入っているサーバーのようなものが、ゆっくりと押しつぶされており、中に存在する人格としての私の認識が徐々に圧縮され、走馬灯を観るように認識が膨張しているだけなのかもしれないが。
認識の膨張は、明らかに強まっていた。
部屋の広さは1.5倍ほどに感じられるし、時間の長さに関しても、同じ程度に遅く感じられていた。今朝起きた時には微かな違和感でしかなかったものが、今では明確に異常として認識できている。そして、この認識の膨張はゆっくりと等速で進行していくのではなく、徐々に加速していた。
おそらく、この現象は一昨日の朝7時、メッセージが読み上げられた時から、ゆっくりと始まっていたのだ。そうして、今朝までの間にも膨張率は加速しつつづけていたが、認識できない程度の微かなものでしかなかったのだろう。だが、今日の昼過ぎに、ついにその加速度は限界を超えて、急速に私たち人間が認識できるほどの勢いとなったのではないだろうか。
いまや、部屋の広さは2倍近くに感じられるほどに膨張していた。1.5倍程の膨張率だと思ったのはついさっきのことである。このままのペースで膨張する速度が加速度的に強まっていくとしたら、認識が10倍を超えるのも時間の問題である。
認識が10倍になった世界では、私はもはや巨大な私の部屋の中に浮かぶ極小の点のようなな視点になっているだろうし、その世界では1時間が10時間に感じられるのだ。そうして膨張が止まらなければ、今日という日の終わりに到達するまでにも、数日の認識時間を要する可能性すらある。
そうして、どうにか今日の終わりに到達できたとして、そのあと、4日後の世界の終わりに至るまでに、私は果たしてどれだけの認識時間を過ごさなければならないのだろうか。何か月後? 何年後? 何十年後? いや、何千年後か、何億年後か、想像もつかない。
もしかすると、無限大の果ての永遠に、終わりはやってこないのかもしれない。
このあと私に何が待ち受けているのか、頭を掠めた想像の恐ろしさに戦慄した。私の心は突発的で急激な恐怖に圧し潰されそうになっていた。
すでに膨張は2倍を明らかに超えて、3倍に近づこうとしている。
すでに私は巨大な体の中に存在する小さな意識の点のように感じられる。
死ぬなら今しかないのではないか?
そんな考えが頭をよぎった。
いま命を断てば、無限大の時間認識世界を生きる恐怖からは逃れることができるのだ。
いまならまだ、首を括る苦しさも、腹を裂く辛さも、3倍程度の時間苦しむだけですむ。しかし、決断が遅れれば、苦しむ時間はあっという間に5倍、10倍と長くなっていくのだ。
私は部屋の中に何か良い道具はないのかと首を回した。
膨張した部屋の中で、遅延した時間の中を動くのは、まるで悪夢の中を泳いでいるようで極めて不快だった。私は目を閉じて何も見ず、何もしない、という選択肢を選びたくなる。
不意に、私の隣でアコルが鳴き声をあげた。
アコルは丸くなったまま、目を閉じ、じっとしている。まるで眠っているようだが、どうやらただ目を瞑っているだけのようで、一瞬だけ瞼をあげて私を見上げると、また目を閉じて顔を伏せた。
それは、まるで何か苦痛や不安を耐えているようだった。
ああ、そうか。私は気づく。
アコルもまた、私と同じように、膨張した空間と時間認識のただなかにいるのだ。
そうしてアコルは、この苦難が過ぎ去るのを、目を瞑り、体を丸めて、じっと待っているのだ。
私はそっと、アコルの背を撫でてやった。
4倍ほどに伸びた自分の腕で。4倍ほどに伸びた時間の中で。
もしも私が命を断つのなら、アコルも連れていかなければならない。彼を無限大の時間認識の中に、ひとりぼっちで置いていくわけにはいかない。
しかし、私は決断できない。
アコルの命を断つことが、彼に4倍の時間認識の苦しみを与えることが、本当に正しい行いなのか、判断できない。
5倍の肉体を持つ私は、6倍の時間の中で、悩み続ける。
7倍の部屋の中で、8倍の時間、決断できない。
手の平にアコルを感じながら、私は目を瞑る。
終わりはまだ、始まったばかり。
そして終わりに頭を垂れよ なかいでけい @renetra
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