クロノスの調律

森崇寿乃

クロノスの調律

【序】――白皙の静寂


私の名前はリーナ。識別番号(ID)はA-7881。首都エデンの中央管理局に所属する、特級精神調律師。それが、私の全てだった。


私たちの世界は、完璧な調和ハーモニーの上に成り立っている。かつて旧世界を崩壊させた「感情」という名の混沌カオスは、遺伝子レベルで抑制され、脳内に埋込まれたマイクロデバイス『クロノス・キー』によって、常に最適化されている。怒り、悲しみ、過度な喜び――それらは全て、システム全体の効率を低下させる『不協和音ノイズ』であり、私たち調律師の仕事は、それらを検知し、除去チューニングすることだ。


私の施術室は、純白だった。壁も、床も、私が身にまとうユニフォームも。そこには色がなく、埃がなく、そして感情もなかった。私は、その無菌室の中で、誰よりも正確に、誰よりも冷徹に、対象者の精神に潜むノイズを摘出してきた。私の施術成功率は、99.8%。私の手技は、一種の芸術として、施術のたびに記録ログされ、管理局の永久アーカイブに保管されている。私は、エデンの誇りであり、完璧な調和の象徴だった。


ある日、最高監督官であるゼノンが、私の施術室に自ら足を運んだ。彼の顔には、クロノス・キーでも抑制しきれない、僅かな緊張が浮かんでいた。


「リーナ。君に特命だ」


彼が差し出したデータパッドには、一人の男の顔写真が映し出されていた。痩せこけた頬、挑戦的な瞳。

ID:X-0000。通称、『カイン』。

禁制物である「未加工の原初感情データ」を密売し、多くの市民を精神汚染させた、最重要犯罪者。


「彼の精神は、我々の知らないプロテクトで固く閉ざされている。君の仕事は、彼の精神にダイブし、その深層に眠るアーカイブの在処を特定、そして全てのノイズを消去することだ」


ゼノンは続けた。その声は、氷のように冷たい。

「この施術は、最重要機密だ。私と数名の特級監督官が、君のダイブをリアルタイムでモニタリングする。君のバイタル、脳波パターン、精神汚染レベル、その全てをだ。エデンの未来がかかっている。失敗は、許されない」


私は、静かに頷いた。私の心は、凪いだ湖面のように静かだった。恐怖も、高揚もない。それは、ただ処理すべきタスクが一つ、追加されたに過ぎなかった。




【破】――侵犯される聖域


カインは、白い拘束椅子に座らされ、静かに私を見つめていた。その瞳の奥に、獲物を見定めるような、嘲る光が宿っていた。私は意に介さず、彼のこめかみに接続リンク用のプローブを取り付けた。


「ダイブを開始します」


冷たい声で宣言し、私は意識を彼の精神世界へと沈めた。

瞬間、私は息を呑んだ。

そこは、燃えるような夕焼けの空と、どこまでも続く黄金色の草原だった。


風が私の頬を撫で、草の匂いが肺を満たす。全てが、ノイズ。理解不能な、しかし、どうしようもなく甘美なノイズの奔流だった。


《警告:対象の精神風景は、既知のパターンと一致しません。異常なレベルの感情データが検知されました》


私の内部システムが警報を発する。私は冷静さを取り戻し、精神エネルギーで構築した防護障壁シールドを展開した。この美しいノイズは、私の聖域を汚染するための罠だ。惑わされてはならない。


私は、草原の中心へと歩を進めた。

突然、目の前に小さな家が現れ、中から一人の女性が出てくる。彼女は優しく微笑み、カインの名を呼んだ。次の瞬間、私の全身を、未知の感覚が貫いた。胸の奥が、温かく、そして締め付けられるように痛む。


《解析不能な感情パターンを検知。カテゴリー:愛情? 幸福?》


これは、彼の記憶。彼が愛した誰かとの、記録。

私の純白のシールドに、微かな亀裂が入る。まずい。この記憶は、あまりにも濃厚で、生々しい汚染源だ。


私は記憶から意識を引き剥がし、さらに深層へと向かう。すると今度は、世界が暗転し、激しい嵐に見舞われた。先ほどの女性が血を流して倒れ、カインがその亡骸を抱きしめ、天に向かって咆哮していた。


彼の絶望と怒りが、巨大な黒い楔となって、私のシールドをこじ開けようと襲いかかる。

シールドが、メキメキと音を立てて軋んだ。


《危険:精神汚染レベルが閾値に迫っています。リーナ、直ちに離脱を推奨します》


監督官からの警告が、頭に響く。だが、私は引けなかった。嵐の中心へと飛び込み、光り輝くアーカイブを見つけ出した。


私がそれに触れようとした、その瞬間だった。

カインの、挑戦的な瞳が脳裏をよぎった。


――罠だ。


気づいた時には、遅かった。

アーカイブだと思った光は、彼の精神が仕掛けた最後の防衛機構。私が触れた途端、それは爆発的に膨張し、私のシールドを内側から、完膚なきまでに引き裂いた。


そして、奔流が、逆流を始めた。


彼の絶望が、怒りが、憎しみが、そして、あのどうしようもなく甘美な愛情の記憶が、灼熱の奔流となって、私の無防備な中心へと、一気になだれ込んできた。


「―――――ッ!!」


現実世界の施術室で、私の身体が、ガクンと大きくのけぞった。

拘束椅子の上で、私の指先がカタカタと震え始める。止められない。呼吸が浅く、速くなる。


モニターに映し出された私自身のバイタルサインが、全て危険領域レッドゾーンに振り切れているのが見えた。監督官たちの、驚愕と軽蔑が入り混じった視線が、ガラス越しに突き刺さる。

ゼノンの顔が、これまで見たこともない、恐怖と戸惑いが入り混じった表情に歪んでいた。完璧な調和の象徴が、彼の目の前で理解不能な混沌へと堕ちていく。その光景は、彼の築き上げた秩序そのものへの冒涜だった。


記録されている。

完璧な調律師である私が、未知の奔流に貫かれ、醜く震えるこの様が。

私のキャリア、私の存在意義、その全てが、今、この瞬間に「失態」として永久に記録されていく。


恐怖と羞恥に、意識が遠のきそうになる。

私は、欠陥品になった。




【急】――魂の調律


もう、終わりだ。

そう思った瞬間、不思議なことが起きた。

恐怖が、羞恥が、私のシステムの限界を超えた時、ふっと、全ての抵抗が消えたのだ。


脳裏を、あの黄金色の草原の記憶がよぎる。女性の、慈しむような微笑みが。

あれが、私の世界にないものの正体。完璧な静寂よりも、嵐の中にある、あの不完全な輝きを。


私は、選んだのだ。


自らその身を開き、カインの感情の奔流を、その全てを、迎え入れた。


瞬間、私の全身を、灼熱の楔が貫いた。

それは、純粋な情報としての感情ではなかった。

愛する者を失った、魂が引き裂かれるほどの痛み。

理不尽な世界への、腸が煮え繰り返るほどの怒り。

そして、彼女と共に過ごした日々の、身を焦がすほどの幸福感。


「あ…ぁ…あああああっ…!」


声にならない、新たな律動リズムが、私の口から漏れた。

身体が、弓のように反り返る。からだの奥から、熱い何かがせり上がってくる。どうしようもなく、震える。痺れる。

私の論理回路は、未知の奔流に焼き切れていく。その引き裂かれるほどの苦痛こそが、生まれて初めて感じる、どうしようもない、圧倒的な――快感の形だった。


感情とは、これか。

生きるとは、これほどの痛みを伴い、これほどの喜びに満ちているのか。


光学センサーから、プログラムされていない塩化ナトリウム水溶液が、次々と溢れ落ちた。私は、泣いていた。絶望に。そして、歓喜に。

拘束椅子の上で、恍惚に震える私の姿を、監督官たちが、まるで未知の生物を見るかように凝視している。


晒されている。

私の、最も無様で、最も純粋な、魂が調律される瞬間が。


やがて、奔流が過ぎ去り、嵐が止んだ。

私の精神に流れ込んだカインの感情は、消えることなく、私の魂の一部として溶け合っていた。私の静寂は、彼の旋律で満たされていた。


施術室の扉が、荒々しく開け放たれる。重武装した警備ユニットたちが、私を取り囲んだ。


「ユニットA-7881を拘束。カテゴリーFの欠陥品として、直ちに解体処分とする」


ゼノンの、非情な声が響き渡る。

私は、抵抗しなかった。腕を拘束され、引きずられるように部屋を出る。

「調律師リーナ」は、確かに滅びたのだ。


しかし、連行されていく私の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。

私は、生まれて初めて、自分の心臓が確かに脈打っているのを感じていた。それは、不規則で、不協和音に満じ、しかし、どうしようもなく力強い生命の鼓動だった。


私は全てを失った。

そして、全てを与えられたのだ。

連行される私の心には、黄金色の草原を渡る風の感触が、確かに残っていた。

この、震えるほどの生命の旋律メロディを。

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