いくらの美味しい作り方

安芸哲人

いくらの美味しい作り方

 シュルルルーーー、ピシャアッ!!


 竿から放たれたルアーが、小気味良い音を立てながら川面に着水した。


 俺は川の流れを竿で感じながら、小刻みに竿を動かす。しばらくそうして竿を動かしていたところ、ぐっと竿がしなり、竿を持つ俺の手にもその感触が伝わってきた。


(きたっ……!)


 ここで焦ってはいけない。慎重にアタリを探り、バラさないように少しづつリールを巻き、竿を傾ける。時折、バシャバシャと水が跳ねる音と共に、川面からチラリと銀色の姿が顔をのぞかせる。


 糸を巻き、引き寄せる程に抵抗が少しづつ強くなっていく。竿が大きくしなり、糸がピンと緊張したまま右に、左にと走り回る。その糸の先に居るであろう獲物との我慢比べだ。


 時に獲物が動く方向に竿を傾け、糸を緩める。時に、獲物が動くのと反対に竿を傾け、糸を張る。それを何度も繰り返し、少しづつこちらに引き寄せながら獲物が疲労するのをじっくりと待ち続ける。


(全く、毎度のことながら、ほんとめんどくさい作業だよな……)


 目の前の獲物と必死に格闘しながらも、そのような考えが頭に浮かぶ。こんな面倒な作業、何のためにやってるのだろうか。だが、この面倒な作業が自分の心を高揚させるのも、また事実なのだった。


 数分後、獲物はどうやら観念したようだった。ここまで来れば後は引き寄せるだけだ。リールをぐるぐると手早く巻く。獲物が最後の抵抗の如く、俺の足元でばしゃりと大きく跳ねた。ルアーを咥えた獲物の上顎は大きく発達し、鉤爪のようになっていた。


(オスか……)


 川を遡上してくる鮭のオスの上顎が発達するのは、他のオスとメスを取り合う際に武器になるからだという。子孫を残すための最後の戦い。それに臨む鮭のオスの姿は感動的ではあるが、今日の俺の目当てはこいつでは無い。


 なんせ、遡上してくる鮭は力を使い果たしているから味が落ちるのだ。とは言え食えなくは無いし、リリースしたところで力尽きてしまうのがオチなので一応網に入れ、その辺に泳がせておく。


 再び竿を振りルアーを川に投げ入れるが、その後アタリは中々来なかった。


 早朝から竿を振っているが今のところの成果はこのオス一匹。周りにちらほら見かける同業者も、今日はあまり釣果が良く無いようだ。


 昔はこの川にも、あふれんばかりの鮭が遡上してきて捕り放題だったらしい。が、今は遡上してくる鮭の数も減り、一日竿を振ってもこうして数匹を獲るのがやっとの仕末。


(これも環境破壊の結果なのかね……)


 などと、柄にも無くセンチメンタルな感情に浸っていると、竿を持つ俺の手がぐっと引っ張られた。先ほどのやつよりも少し弱いその感触に、俺の期待が高まる。


(次こそメスであってくれよ……)


 慎重に引き寄せること数分間。果たして俺の足元で跳ねるそいつの口は丸みを帯び、腹もふっくらと膨らんでいた。見まごうことなく、メスである。


(よしっ!)


 思わずガッツポーズが飛び出す。

 なんせこのために早朝から車を1時間以上も駆り、半日も竿を振り続けていたのだ。


 時計を見ると既に十五時を回っていた。オスとメス一匹ずつだが、十分な釣果だろう。俺は網の中のオスとメスをクーラーボックスに放り込み、後片付けをして車に乗り込んだ。


 ◇


 自宅に戻った頃には十六時を回っていた。

 とても空腹だ。朝からほぼ何も食っていない。


 悲鳴をあげる腹を抑えながら、まな板の上に今日の獲物をドンと乗せる。


 まずはオスの方からだ。どうするか思案したが、結局普通に3枚におろす事にした。


 エラの隙間に包丁を入れ、頭を落とす。腹を裂き内臓を取り出し、綺麗に水で洗い流す。尻尾の根本に包丁の先を差し込み、背骨にそって包丁を滑らせる。ひっくり返して反対側も同じように背骨にそって包丁を滑らせると、三枚おろしの出来上がりだ。


 二枚の身を、更に切り身にしていく。オレンジ色の艶やかな身を生で食いたい衝動にかられるが、流石にリスクが高すぎるので何とか我慢する。切り身はラップに包みタッパに入れ冷凍庫へ。一人で食うには十分な量だ。


(さて、次が本命……)


 メスをまな板にどん、と乗せる。ふっくらと膨らんだ腹にいやがおうにも期待が高まる。慎重に、中身を傷つけないように包丁の切っ先で腹を割く。すっと少しの抵抗だけで鮭の腹に切れ目が走り、中から赤く光る粒のかたまりがどろりと露出した。


(これだよ、これ……)


 その美しさに俺は魅了される。台所の切れかけた蛍光灯に照らされたそれは、ほんのりと透き通りきらきらと赤く光っている。俺は傷つけないよう、慎重にその塊を腹から取り出し、用意していたボウルに張った水にそっと沈ませた。


 ボウルに張った水の温かさを感じながら、赤い粒を包んでいる膜を剥がす。一匹のメスの鮭が抱えている卵はおおよそ3000粒だそうだ。その3000粒を潰さないよう、さながら地面に散らばった宝石を一粒ずつ拾い集めるように、丁寧にほぐしていく。


 あらかた全ての粒が膜から剥がれたが、これで終わりでは無い。残った膜の切れ端や筋を取り除いてやらねばならない。これを怠ると出来上がった時に食感が悪くなる。


 ボウルの水を変え、優しくかき混ぜると膜や筋が浮き上がってくる。浮き上がってきたそれらを、一つずつ丁寧に取り除いていく。3度ほど繰り返すと水がだいぶ綺麗になってきた。念のため、あと一回ぐらいはやっておいた方が良いだろう。


 合計4回水にさらし終えたあと、ザルにあげ、水を切る。ここで水をきちんと切っておく事で、後の味付けが薄くならずきちんと味が付くのだ。


 ザルに晒している間に調味液を作る。


 醤油とみりん、そして、酒。


 他にも色々入れるレシピはあるが、俺はこのシンプルな構成が好みだった。これだけで十分美味いのだ。他に何が必要だろうか。


 鍋に調味料を入れ火にかける。ふつふつと煮立ってきたら弱火にして数分煮詰めた後、火を止め調味液を冷ます。時間が惜しいので氷水を用意しそこに鍋を突っ込む。


 さて、これで準備は万端だ。後は水を切った筋子を瓶に入れ、調味液を注ぎ、半日程度待つだけ。時計を見ると十八時を回っていた。食べごろになるのは二十四時過ぎか。


 空腹は限界だが、ここまで来たら後には引けないのだ。必死で空腹に耐えながら米を洗う。2合きっかり、洗い終わった米を炊飯器にセットし、タイマーを23:50分に合わせ炊飯開始。ピーという電子音と共に炊飯器が稼働した。


 ◇


 ピー!という電子音と共に俺は目を覚ました。


 空腹に耐えかねて、間食する誘惑に負け無いように昼寝を決め込んでいたのだ。


 目をこすりながら台所に向かう。炊飯器を開け、炊き上がったご飯をそこからひっくり返しほぐしていく。少し炊飯器の蓋を開けたまま余計な蒸気を抜き、ほどよくなった頃合いを見計らって丼に炊き立てのご飯をよそう。2合あったご飯のおおよそ半分、1合ぶんだ。


 冷蔵庫から筋子を漬けた瓶を取り出し、蓋を開け中身を見る。

 湯にさらされ、白っぽく変色していた筋子は、調味液に浸かり、それを吸い込んだ結果、色合いも赤く濃く鮮やかになっていた。


 いくら、である。


 元を正せば筋子、である。そのまま食べても美味いのだが、こうして一手間加えた後のいくらに勝る物は無い。そのいくらを丼のご飯の上にたっぷりと乗せる。3000粒のおおよそ半分、1500個の赤い宝石。


 1合のご飯と1500粒のいくら。


 これが、俺の黄金比だ。


 今日一日の労力全てを結集したそれを、がっとかきこむ。


 口の中に白い粒と赤い粒が押し寄せてくる。


 暖かいご飯の香り、醤油とみりんと酒の香りが鼻に突き抜ける。

 一口噛み締めると、いくらがぷちぷちと弾け、中からじゅわり、と溢れる汁が炊き立てのご飯と混ざり、俺の口の中を幸福で満たしていく。


 ひたすら無心で、ご飯といくらを次から次へと口に放り込む。

 丸一日、空腹を我慢してきた俺の胃は、あっという間に最初のいっぱいを平らげ収めてしまった。


(さて、もう一杯行くか……)


 空になった丼に残りのご飯といくらを全て乗せる。


 次は少し味わって食べようか。などと殊勝な事を一応考えてはみたが、そんな事が出来る訳もなく、一杯目よりは時間はかかったがあっという間に平らげてしまった。


 残されたのは空の瓶と空の丼、そして空の炊飯器。


 俺の腹と心が満たされた代償だ。


 腹が満たされると途端に眠気が襲ってきた。


(ああ、後片付けしなきゃ……)


 朦朧とする意識の中で、かすかにそのような考えが浮かぶが、この幸福に抗う事など到底不可能だった。


 たった一日の労力でこれだけの幸福を得られて良いのだろうか?


 まどろむ俺は、夢の中で、川を遡上する鮭になっていた。

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