扉の向こうへ


「本当に、行ってしまうのですか……?」

夕暮れの空が、茜色から深紫へと変わる城門前。

リリアーナ・エルンフェルト侯爵令嬢は、黒い外套を羽織り、馬車の前に立っていた。荷台には最低限の旅装と、古びた魔導書がひとつだけ――。

問いかけたのは、彼女の忠義深い元侍女、レーナ。

心配そうに、けれどその瞳に宿るのは止めたいという気持ちではなく、ただ彼女を見届けたいという願いだった。

「ええ、行くわ。……ここに、私の居場所はもうないもの」

リリアーナは静かに答えた。

その声に、寂しさも未練もなかった。ただ、冷たい決意だけがある。

「第一王子様が……あんなことを。リリアーナ様は、ただ命じられた通りに婚約を受け入れただけなのに……!」

「“政略”だからこそ、感情も期待もなかったわ。そもそも、彼を愛していたわけではない。――けれど」

リリアーナは一度、空を見上げた。

「それでも、“令嬢”としての誇りはあったの。王太子妃としてふさわしい教養、礼儀、統治学、魔導理論。すべてを積み上げてきたのに……」

ふ、と笑う。

「“平民上がりの令嬢に心を奪われた”から婚約破棄? 滑稽だわ」

あの玉座の間での出来事は、まるで茶番劇だった。

「リリアーナ嬢、君との婚約は白紙に戻させてもらう。心から愛する者と生きたいのだ。わかってくれるね?」

わかってくれるね、とは。

――まるで、自分が“当然納得すべき脇役”か何かのような言い草だった。

「……悔しくはないのですか?」

レーナの問いに、リリアーナは一瞬だけ眉を寄せた。

「悔しい? いいえ。滑稽で、哀れだとは思ったわ。でも……」

彼女の瞳が細くなる。紫水晶のように澄んだその瞳が、淡く輝いた。

「面白くなってきたとは思ったわ。ようやく“自分の意志”で生きられる。あの宮廷の檻から、ようやく抜け出せるのよ」

「……!」

レーナは言葉を失った。

ただ、目の前のリリアーナが、以前とは別人のように思えた。

否。もしかすると、これこそが本来の彼女だったのかもしれない。

「行き先は……“あの地”なのですね」

「ええ。“アル=ゼルフェン”。千年前の大崩壊カタストロフを生き延びた古代魔導都市の残骸。私の血が、そこを目指せと告げているの」

風が、ざわりと草を揺らす。

同時に、リリアーナの周囲の空気がひりつき始めた。

「この魔力……! まるで空間が震えているみたい……!」

「抑えているだけよ。これでも、まだほんの一部」

リリアーナは自嘲気味に笑った。

「王宮の人間は誰も知らないのよ。私が、“古代魔法の継承者”だということを」

「……リリアーナ様、お願いです。どうか……ご無事で。そして、どうか……必ず戻ってきてください」

レーナが思わず手を握る。冷たい指先。しかしその中に宿る魔力は、熱く脈打っていた。

「ええ。きっと、また会いましょう」

リリアーナは笑った。その笑みに、もはや少女の弱さはなかった。

それは――これから世界を変える者の微笑。

そしてその背に、馬車の扉が開いた。

リリアーナが乗り込むと同時に、馬車は静かに走り出す。

“もう後戻りはしない”

心の中で、そう呟く。

この道の先で、私は世界の“真実”と出会う。

そして、いつか――

私を見下したあの男と、その取り巻きたちに**「後悔」を教えてやる**。

* * *

「……まったく、どこまで思い上がった女だ」

王宮の一室。第一王子は、書類を片付けながら呟いた。

「たかが地方侯爵家の娘が、王太子妃の座にふさわしいと思っていたのか……?」

侍従の一人が、口元に薄笑いを浮かべる。

「すでに王都を離れ、東方へ向かったそうです。……まあ、二度と戻ってこられはしますまい」

「ふん。これで心置きなく、エリーゼを迎えられるというものだ」

第一王子の脳裏に浮かぶのは、最近寵愛している貴族の娘――エリーゼ。

彼女が淹れた甘ったるい茶の香りを思い出し、王子は満足げに頷いた。

だが、彼は知らなかった。

彼が見下し、捨てた令嬢こそが、やがて王国全土を巻き込む激動の渦の中心となることを――

そして、彼自身が、土の上に額を擦りつける未来が、確かに待っていることを。

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