罪悪感を取り除く方法
彼らはどうやってあのバベルの斜塔へ入ったのだろう。そう考えていたとき、ぼくの視線はふとどこかを見上げた。
あるレンガ造りの街ビルの屋上だった。そこから視線を左へ平行移動すると、バベルの斜塔の壁面にぶつかった。その壁面に、何故だか扉が見える。
街ビルとバベルのあいだには、車二台分ほどの路地が通っている。ぼくの視線は屋上の端と、その扉を行ったり来たりした。なるほど、と納得した。
鉄扉をノックした。ややあって小窓が開き、一〇〇〇ヤードの凝視が顔を出す。
「随分かかったな」
「ぼくを覚えてますか」
ここへ戻ってくるのに随分かかった。
「撒いたか」
「はい、撒きました」
どうやら覚えてくれていたらしい。ぼくは答えてから、周囲を見渡した。振り返って遠くの方まで確認した。
「撒いたし、ここへの入り方も大体見当がつきました」
ほんとうか? と疑うような目でしばらく睨まれた。普通に見ているだけだろうが、睨んでいるのと同じような目つきというか、それより気持ち悪い。
「上でしょ?」
溜まらず、ぼくは答えた。すると彼の目線がぼくから外れ、傍の何かを一瞥した気がした。やはり、いるのだ。女が。
この塔の周りに、
「普段は、定めた時間にしか開けないんだ。それがここの決まりでね。だが開けてやろう。特別にな」
彼の首がくいっと傾げて、どこか上の方を示した。小窓が閉まった。屋上へ来い、と言っているのだろう。
〇
街ビルの屋上まで来ると、向かいのバベルの塔の側面に扉が見えた。思った通りだ。丁度、同じ高さにある。その扉が、そのうち開いた。
「歓迎する。仲間は多いほどいい。研究が捗る」
「罪悪感の研究ですか?」
いつか宮城さんがそんなことを言っていた。
「どうして知っている」
「宮城さんという女子高生が知り合いにいて、ここに通ってるそうです」
「知らないな」
「ぼくの
「ぼくらと関わった女を片っ端から殺すんだよ、あれは」
「そうだったんですか」
宮城さんには悪いことをした。ここへ来る前、異世界駅の周りをしばらく歩いたが、彼女の姿はなかった。
「まあ、控えるも関わるも、きみの自由だ。それに関するルールはない。しかし罪悪感を取り除く魔法の研究はしてもらう。それが対価だ」
「罪悪感を取り除く?」
「罪の意識だ。彼女たちは、ぼくらのそれに惹かれてやってくる」
「それを取り除いて、完全に撒くってことですか」
「まず入りたまえ。中で話そう」
屋上の扉の開く音がした。閉めたはずだ。振り返ると、あの人が屋上へ入ってきたところだった。
「きみの
「はい」
「これを渡りなさい。追いつかれる前に」
男が一枚の木の板をバベルの扉から屋上へ架けた。
「それはこの板を渡ろうとしない。自分たちの運動能力では、この板を渡れないと事前に理解するらしい」
ぼくは屋上の端、架けられた板の前で足を止めた。あの人がゆっくりとぼくへ近づいてくる。鋏を手に持っている。
「どうした、未練があるのか。みんな同じだ。ぼくらもみんな未練を抱えている。大丈夫だ。他の
あの外側の鉄格子から見えた、大量の男たちの姿を思い出した。ぼくもあそこに混ざるということだろうか。
ぼくもいつか、あんな顔つきになってゆくのだろうか。
距離が近くなるにつれ、あの人の首筋が見えた。
駅のホームでときおり感じる涼しさ。新学期がはじまってすぐの四月の涼しさ、匂い。夏の残り香を思わせる秋口の微熱、そこに通り抜ける涼しさ、匂い。雨が降った日のアスファルトの匂い、バス停の匂い、彼女を見かけたときの心臓の高鳴り、視界の色、涼しさ、匂い。ぼくの体温の変化。
ぼくは彼女の何に惹かれているのか、いまもわからない。でも彼女を見るとそのすべてを思い出すことができる。なぜなら彼女をこうして見ているいま、その涼しさ、匂いを感じるから。心臓が高鳴る。体温が上がった。その微熱が好きだから、ぼくはそれを心地いいと感じる。ずっとそうしていたいと思う。
「やっぱり、ぼくはいいです」
「いい?」
男がややあって訊いた。
「ぼくは、塔には入りません」
「追いつかれるぞ?……ここには何でもある。呪文の本がたくさんあるんだ。文字を読めるまでにはしばらくかかるだろう。しかし読めるようになれば、どんな知識もすべて手に入る。魔法は人生を思い通りにしてくれる」
「でも罪悪感は消せない」
「……努力している」
「ないですよ」
「ん?」
「ぼくは、彼女をこんなふうにしたくなかった」
彼女は、ゾンビだ。食べることも眠ることもない。ずっとぼくを追って歩いてくる。ぼくを殺したいみたいだ。
「彼女と話がしてみたかった。彼女がどんな人なのか知りたかった。彼女とデートがしたかった。彼女と、恋人らしいことをしてみたかった。それだけです」
「あるさ。魔法はある。そうやって、バベルの書物は生まれてきた。なんだって生まれる」
「後悔した記憶を消したいってことですか? それとも、過ちをなかったことにしたいってことですか? 記憶を消したら、忘れたら、鉄格子越しに彼女を見ること自体なくなりますよ。忘れるって、罪悪感を消すって、そういうことですよ」
「……そうかもしれん」
男は言葉を溜めた。
「だが、もっと都合のいい魔法があるはずだ。ぼくらはそれを探求する。みんなそうしてきた。それがバベル……魔法使いだ」
「思ってたのと違っ──」
背中に重みを感じた。何かが体に入ってきた。引き抜かれたのがわかった。熱が押し寄せて、痛みに変わった。激痛に変わった。顔を歪ませて、ぼくは息を止めて我慢した。
「刺されたか」
男がたんぱくに言った。
ぼくは振り返った。目の前に、あの人の顔があった。間もなく、またぐさりと、多分今度は心臓の辺りを刺された。
ぼくは彼女を抱きしめた。彼女のやわらかさを知った。彼女のもみあげに流れる髪がぼくの顔、鼻に触れる。彼女の匂いがした。はじめて、彼女の匂いを知った。
鋏が引き抜かれた。横腹、下っ腹、太腿……乱雑に、彼女はぼくを刺した。刺されたときの重さがすべて同じだった。
痛みが上書きされていって、よくわからなくなった。そのうち気が遠のきそうな気配を感じた。
板が回収された。男が塔のなかへ板を戻したようだ。
「これが、罪悪感を消す方法です」
ぼくはそう男に告げて、彼女を抱きしめたまま、背中から傾いた。
屋上から落ちた。
手と腕で彼女を感じた。匂いを感じた。彼女はすこし、アメリカ製のグレープ味のガムみたいな匂いがした。彼女の表情が動かない。
「ごめん」
きっと、こんな顔をする人じゃないんだろう。本当ならこういうとき、彼女はどんな顔をするんだろうか。
ぼくらが落ちてゆく。
落ちながら、彼女はぼくを何度も刺した。ぼくはもう痛みを感じなくなっていた。
「ごめん」
謝りながら、彼女の血眼の奥に彼女の表情を探した。鼻孔にかすめる匂いを感じ、彼女を抱きしめ、腕と手に伝わる感触を味わった。
それから目を瞑って、大学図書館前のベンチに座る彼女のことを思い出した。
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