バベルの斜塔

 駅前を離れ、ぼくはレンガ造りの街を走った。スティーヴン・キングの映画で見るような、アメリカの田舎町にも似ている。

 後ろを窺いながら、しばらく移動すると目と鼻の先に塔が見えてきた。


「……バベル?」


 あれがそうだろうか。

 所謂、“バベルの塔”とは見て呉れが違った。例えるならピサの斜塔に似ている。太さも、その傾き具合も。とにかく高く、天辺が雲に隠れて見えない。


「すみません、すみません……」


 ぼくは塔の側面に扉を見つけて、ノックした。二重扉になっていた。外側が鉄格子の扉で、内側が鉄の扉だ。

 小窓が開いた。ぼくは背筋が凍った。“一〇〇〇ヤードの凝視”という言葉がある。戦争帰りの兵隊の窪んだ目だ。その男の目は、黒く沈んでいるのに見開いていた。


「なんだ?」


「ここは、バベルですか?」


「それがどうした」


「中へ入れてください、追われてるんです」


「追われてる?」


「女です」


 ぼくは正直に言った。考えがまわらなかった。迷っている余裕はなかった。学校なんだ。素直に受け応えていれば、そのうち開けてくれないだろうか。


「宮城さんという方に教えてもらいました。魔法を教えてくれるバベルという塔があると。異世界駅の改札を通って来たんです」


「駅?」


「あっちの方にある」


 ぼくは適当に遠くを指差した。


「何を言っている」


「駅ですよ、逆様電車の止まる」


「そんな駅は知らない」


「あの、ラムゼンを知っていますか? ぼくはあの人に魔法を教えてもらって、それで」


「ラムゼン……?」


 男の視線がぼくから見て右上を漂った。


「ああ、あの老人か」


「ご存じなんですか」


 ぼくは少し安心した。


「彼なら知っている。彼は、年寄りなのに逞しい。ぼくらとは違う、なんせ罪悪感がない」


「罪悪感?」


「怯まないやつってのは、何をやっても罪悪感がない。だから強いんだろうな」


 男は瞬きをしなかった。気味が悪い。


「その女は近くにいるか?」


「はい?」


「女だ。女に追われているのだろう?」


 ぼくは振り返った。左右の路地、それぞれの建物の陰まで確かめた。すると一番遠くの曲がり角を曲がってくる、あの人の姿を見つけた。


「います。離れてますけど」


 小窓が閉まって内側の鉄扉だけが開いた。男の全身が見えた。


「服装は?」


「服装?」


「その女の服装はどんなだ」 


「え、なんて言ったらいいんだろう」


「特徴を教えろ。どこを歩いてる」


「左です。あの一番遠くの建物です。あ、いま一つ道路を横切りました。手に鋏を持ってます」


「あの小太りの女か」


「いえ、その前を歩いてる人です」


「いないぞ」


「え」


「その前に女はいない。小太りの女しかいない」


「そんなはず……」


「ファム・ファタルは、それを生み出した男にしか見えない」


「ファム・ファ……?」


破滅の女ファム・ファタルだ。男を破滅させる運命の女のことだ」


「あの、中へ入れてもらえませんか。彼女がここへ来る前に」


「駄目だ」


「どうして」


「ここは開けられない」


 妙だった。外側の鉄格子の扉から、やけに男が離れて立っていることに、いまになってぼくは気づいた。まるで近づかないようにしているみたいだ。

 男がぼくの隣を見ているような気がした。確かめたが、ぼくの隣には誰もいない。


「どうした」


 奥から声がした。すると男の後ろからもうひとり、同じような目元の男が顔を出した。


破滅の女ファム・ファタルに追われてるらしい」


「そうか。またか」


「助けてください」


 ぼくは鉄格子にしがみついた。


「殺されます」


「だろうな」


 まるで他人事だ。当たり前だ、他人事なのだから。


「何か武器をください。彼女、鋏を持ってるんです」


「その女を殺すつもりか?」


 奥の男が訊ねた。


「そうしたくはないですけど、知ってる人なので……」


「殺すなんて、とんでもない。悪いのはすべておまえだ」


「そうだ、彼の言う通りだ」


 人影がまたひとつ、奥から現れた。


「ぼくたちが悪い」


「そうだ、ぼくが悪い」


「彼の言う通りだ、ぼくのせいだ」


 つぎつぎと声がして、続々と奥の薄暗いところから大量の男たちが前へ出てきた。

 ぼくは鉄格子から離れた。みんな、くっきりと見開かれた薄暗い目をしている。瞳孔の開いた、狂気じみた目をしている。


「彼女を生み出したのは、ぼくなんだよ。きみは違うのかい?」


 がりがり──。


 右から音がきこえた。それは塔の壁だった。見間違いかと思った。両手で持って丁度いいくらいの岩が浮いている。それが塔の壁へ打ち付けると、やや下へ擦って、離れる。楕円を描きながら、何度も同じカ所へ打ち付け、擦れる。離れる。それを繰り返している。


 がりがり──。


 今度は左から音がした。台所包丁が浮いていた。同じように、塔の壁へ打ち付けていた。


 ぼくは怖くなった。ぼくは塔から後ずさった。つまずいて尻餅をついた。

 塔の周りに、何かがいるような気がした。格子のなかから、一〇〇〇ヤードの凝視たちが外を見ている。ぼくを見ているんじゃない。格子の周りを、だ。そう見えた。黒い目が宙を見ている。漂っているわけじゃない。ひとりひとりの目が、しっかりと何かを見ている。


「誰か、いるんですか? ここに」


「女がいる」


 手前の男が答えた。ぼくは唾をのみ込んだ。


「ここを開けると彼女たちがなかへ入ってきてしまう。だから開けられない。まだ追いつかれてないか?」


 ぼくは振り返った。あの人がすぐ近くまで来ているのが見えた。

 立ち上がり、おぼついた足でぼくはひとまずバベルを離れようとした。


「そうだ、そうやって逃げ続けろ。破滅の女ファム・ファタルは走れない。慌てる必要はない。ジョージ・アンドリュー・ロメロのゾンビだとでも思え」


 撒いたら来い、と最後に声が聞こえた。鉄扉の閉まる音がした。

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