さようなら異世界駅改札口前
あの人をもういちど見たい。あの人にもういちど会いたい。
あの日、錦市場で声をかけたその続きがしたい。あの日、ぼくに声をかけられ戸惑っていたあの人の、あの素の反応のつづきが知りたい。
ぼくはまた、異世界駅へ向かっていた。
逆様電車からホームへ下りると、赤竜のビンさんが赤い首をホームへ伸ばしていた。
「あれ、ラムゼン……?」
ホームを見渡したがラムゼンの姿がない。
「やつならいないぞ」
ビンさんが教えてくれた。
「そう、なんですか」
ラムゼンに何かまた魔法を教わろうかと思った。いや、もうそんなことは考えていない。ここへ来た理由を考えていた。ぼくはなんのために、具体的な用もないのにまたこのホームにいるのか。
「ラムゼンは荷造りで忙しい。なんでも旅に出るそうだ」
「旅?」
「ああ」
「じゃあもう、ここへ来ないってことですか?」
「そうなるな。やつに何か用か」
「いえ、大したことでは……」
あのエンヴリヲとかいう赤ん坊もいない。
「やけに深刻そうじゃないか」
「え」
「顔が青白いぞ。目の下の隈も酷い。何かあったのか?」
向かいのホームのフェンスの外に宮城さんを見つけた。ぼくと目が合うと、彼女は肘を伸ばしたり曲げたりして、跨線橋の方を指差していた。
「宮城が呼んでるみたいだぞ」
ビンさんが教えてくれた。
〇
階段を上がると、大学の最寄りの駅とまったく同じ姿の改札口前があった。改札の向こうに、一足早い宮城さんの姿を見つけた。ぼくに手を振っている。
「久しぶり」
ぼくから声をかけた。
「フェンス越し以外で会うのは初めてですね」
「前から言おうと思ってたんだけど、その敬語どうにかならないの?」
「やめようか?」
宮城さんは素っ頓狂な顔をして頷いた。
「ずっと見なかったね」
「ちょっと、色々あって」
「顔色悪いね。目の下の隈も酷いし」
ぼくは苦笑いした。
「だから言ったでしょ、ラムゼンを信用しない方がいいって」
「あの人のせいじゃないよ。ぼく自身が招いたことさ」
「まだ気づいてないんだ」
「え?」
「それで、何しに来たの? ラムゼンなら近々ここを発つそうよ」
「らしいね。さっきビンさんに聞いた」
「ビンさん?……ああ、あの赤竜のことか。あの竜も信用しない方がいい。あの二人、グルだから」
「グル?」
「だってそうでしょ。あなた、あの竜を見たから、ここが異世界だって受け入れたんじゃない?」
「……そうかも。よく覚えてないけど。随分前のことだし」
「あれ、むかしラムゼンが王国から依頼されて、殺し損ねた竜なんだよ」
「そうなの?」
「そう。殺したことにして、この駅に住まわせたの。自分のペットみたいにして。酷いと思わない?」
「……ちょっと、よくわからないけど」
話の要領がつかめない。
「エンヴリヲは? あれもラムゼンのグル?」
グルが何を意味するのかわからないが聞いてみた。
「何それ」
「赤ん坊だよ」
「赤ん坊?」
「ほら、偶にホームに浮いている。なんかずっと線路を眺めてる赤ん坊がいるだろ?」
「知らないわ。そんなのいたっけ?」
「いたよ。だって喋ったし」
「喋るの? 赤ん坊なのに?」
「うん」
「変なの」
「まあ、異世界だしね」
「ああ、確かに。じゃあ不思議じゃないか」
ぼくたちは改札越しに笑った。
「これからどうするの? ラムゼンもいなくなるし。もうここへは来ないの?」
「どうだろう。他の魔法が気になったんだよ、それでラムゼンに会いに来たんだ。まあ、でももういいや」
「バベルに行けばいいじゃない」
「でも、この改札を潜ると元の世界に戻れなくなるんでしょ?」
「嫌なの、こっちの世界?」
「嫌というか……よく知らないし。この駅以外」
「そっちの世界にいたい理由でもあるの?」
彼女にそう訊かれて、ぼくは黙ってしまった。思えばそんな理由はない。三善さんとの関係もおかしなこのになっている。バイトもそのうち辞めるだろう。曽根、平井、高木──学友を失った。単位を取るためだけに通う大学。あの人も死んだ。残ったのはこの頭の中にある、ヴィーナスの腕だけだ。
「行こうかな、そっちに」
なんだか、それでいいような気がしていた。
「でも、何も準備してきてないんだ。荷物も持ってきてないし」
「必要なものは、全部こっちにあるよ」
「改札を出るときはどうすればいいの?」
「切符あるでしょ?」
「普通の切符?」
ぼくはポケットから切符を出した。
「そう、それを普通に通せばいいんだよ」
宮城さんに教えてもらい、ぼくは切符を改札へ通した。改札が開くと、ぼくは躊躇わなかった。そのまま歩みを進めた。
改札を抜けると不思議な感じがした。
大学へ入ってからの毎日、ぼくは改札を抜けるといつも次のことを考えていた。バス停に立ち、するとまた次のことを考えていた。今日、あの人は通学しているだろうか。そればかり考えていた。心理学の授業であの人を見かけなかったときは気が滅入る。大学へ来た意味がないような気がした。
改札の外へ出る、それはこれからあの人に会えるかもしれない、ということをいつも意味していた。改札の中へ入る、それは今日はもうあの人に会えない、ということをいつも意味していた。
いまは違う。ぼくは改札の外に出た。でももう、あの人には会えない。
「それで、ぼくはどうすればいいの?」
「魔法を知りたいんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、バベルに行こ」
「わかった。じゃあ……道案内を頼むよ」
歩き出す前に、ぼくは改札をいちどだけ振り返り見た。毎日のように見てきたはずの改札が、いつもと違って見えた。
「改札を潜っても、もう逆様電車は止まらないんだよね」
「止まらないよ」
「じゃあもう、元の世界には戻れないってことか」
「それでラムゼンがむかし、ホームで癇癪起こしてた」
「ラムゼンが?」
「前に言わなかった、あの人も迷子だったって」
「ああ、聞いた気がする」
ぼくたちは歩き始めた。売店の傍を通って、階段を下りた。駅の外へ出ると夕日色のレンガ造りの街並みが広がっていた。
「ひとつだけ聞いたことあるよ」
「何が?」
「元の世界に戻る方法」
「あるの?」
「うん。迷子に魔法を教えるんだって」
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