失せたものたち

「刃物で首を斬られたんだって」


「え、そうなの? わたしはどこも怪我してなかったって聞いたけど」


「それで首から血が吹くわけなくない?」


「なんか死因わかんないらしいよ」


「その日、わたしY館で朝から講義だったんだよねぇ」


「現場見た?」


「見てない。わたしが来たときにはもうなかに入れなかった」


「なーんだ、どんなだったか気になるな」


 心理学の講義はいつも大教室で行われる。所謂、階段教室というやつで、部屋へ入るとそこが頂点だ。頂点から階段を下るように備え付けの長テーブルと座席が扇状に配置されている。下まで下ると黒板があり、壇上で先生が講義を行っていた。


 左座席群の中央、そこにあの人の姿はもうない。彼女は先週に死んだ。ぼくが殺した。殺した実感はない。殺していないのだから実感などあるはずがない。ぼくは殺していない。


 彼女がここY館の待合スペースで早朝に亡くなっていたことは、周知の事実となっている。

 彼女は血まみれの状態で見つかった。テーブルや床に大量の血が付着したため、特殊清掃業者が入ったらしい。そのさい感染症予防のため、消毒も行われたと聞く。

 待合スペース付近がしばらく塩素臭かったことを覚えている。テーブルやライムグリーンの椅子は現在撤去されており、いまは献花台が設置されている。たくさんのお菓子やお花が供えられている。今日この教室へ来るときにも見た。今日もほんのり塩素臭かった。


「全身の血がなかったらしいよ」


 右後ろから女学生たちの会話が聞こえた。


「いやいや、それは意味わかんないっしょ。すぐ怪談にしたがるよね」


「でも怪我してなかったっていうのは本当らしいよ」


「嘘に決まってるでしょ。現場は血まみれだったんでしょ?」


「そこ、静かにしろ──」


 教壇から先生が注意した。





 更衣室で支給されているエプロンに着替えた。

 携帯は仕事中持ち歩いてはいけない。バイト前最後の確認をしていると、なぜだか迷惑フォルダに平井からのメールを見つけた。日付を見ると、あの人が死んだ前日だった。開くと『五十嵐、ふられたってよ』と書いてあった。それだけだった。

 なぜか両目から涙がじわっと滲み出た。ぼくは手の甲で涙を拭った。携帯を鞄のなかへしまって、ロッカーに鍵をかけた。


 事務所前に小太りな副店長が立っていた。


「おはようございます」


 副店長が元気よく「おう」と返してくれたタイミングで、ぼくの背後から人影が現れて、素通りしていった。


「おはようございます」


 三善さんは店長に挨拶すると防火扉の向こう、売り場へ出て行った。ぼくに挨拶はなかった。目も合わせてくれない。絶交したからだ。


「ちょっとぉ、三善ちゃんと何かあった?」


 副店長は小声で訊いた。


「いやぁ……なんすかねぇ」


 ぼくは露骨な苦笑いをした。


「仲良くしてよぉ、バイト少ないんだから」


 副店長は勘弁してと言わんばかりだった。

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