Y館の鮮血
講義棟は複数あって、それぞれに「~館」と名前がついている。Y館の待合スペースは座席数が多く、他の古びた講義棟のものより新しく、心理学科の学生がよく利用する。
あの人の姿もよくここにある。
Y館で講義があると必ずこの待合スペースの傍を通るので、あの人をよく見かける。あの人が通らないかと思って、このスペースを利用することもある。
早朝八時四〇分頃、Y館はまだ閑散としていた。待合スペースも一人を除いて、人けがなかった。
「おはよう」
ぼくは朝の早いあの人へ声をかけた。
「早いね」
彼女が何か口を開きかけたので、「待って」と手を突き出して止めた。
「何も言わないで」
もう彼女の口から卑猥な単語を聞きたくなかった。本心で言っているのならまだしも、それは彼女の言葉ではない。
「魔法をかけてしまって、悪かったと思ってる。でもぼくのような意気地なしには、そうすることしかできなかったんだ。錦市場で声をかけたとき、あのとき、魔法なんかかけずに普通に話をすればよかった」
話しかけることはできたのだ。あれは魔法じゃない、ぼくの勇気だ。ただ話しかけること、それが当初あった些細な目標だった。その先のことは考えていなかった。ただ話せさえすれば、それでよかった。
「何も言わないんだね」
「何も言わないで、とあなたが言ったから」
「そうだね」
彼女は従順だ。これも彼女ではない。あまりに主体性がない。
ぼくは鞄に手を入れ、ラムゼンの
「目を瞑って」
三善さん同様、彼女はすんなり従った。
「魔法を解くよ。解いたら……解いたら、今度はきみの意思で、ぼくと話をしてほしいんだ。嫌なら話さなくてもいい。ちょっとつき合ってやるかと思ってくれるなら、少しでいい、話をしてほしいんだ」
「命令?」
「違う」
いまは何を言っても駄目そうだ。
ぼくは
ぼくは反射的にのけ反った。ぼくのウィンドブレーカーに血が飛び散った。
作り物みたいだと思った。彼女の首から吹き出しつづける霧状の赤い液体は、B級ゾンビ映画でゾンビに食いちぎられた際に、首元から血が噴き出る過剰演出のようだった。こんなに飛び出るものなのか、とぼくは妙に冷静になった。視界はスローモーションで、不快にも思わず、待合スペースの白い壁と丸テーブル、ライムグリーンの椅子を染め上げてゆく。B. J. トーマス の『Raindrops Keep Fallin' on My Head』が聴こえる。彼女は目を瞑ったまま、両膝から崩れ落ちてゆく。壁に付着した血が、重力で流れ落ちてゆく。赤い線になる。お尻から落ちて、当たった丸テーブルと椅子が転げて、彼女は床で小さく一回バウンドして、体を斜めにしながら倒れてゆく。
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