学友

 コンビニから出てくるあの人の姿が見えた。ぼくの隣で高木がにやついたのがわかった。


 高木という男は、社会に興味がありそうな気配が窺えないにも関わらず、社会学部であり、いつも授業をさぼる理由を考えている。肥満体質だ。単位の取れる最低限でしか出席せず、その怠惰に友人を誘う。ぼくを誘う。物怖じする性格で、発言するたび顔と耳を赤くする。いつも緊張をはぐらかしているような印象を受ける。


 高木がわざとらしくびっくりした。あの人がいるぞ、とぼくに目で合図してくる。ぼくが気怠くあしらうと彼の顔と耳が真っ赤になって、悪戯な笑みを浮かべた。


「ちょっと行ってくる」


 ぼくはコンビニの待合スペースにある席を立った。


「便所?」


「違う」


「無理だって、どうせ言えっこない」


 友人三人を待たせコンビニを出た。彼女のあとを数メートル追ったところで、高木の言った通りになった。彼女の背中が近くなるにつれ、何かが頭から吹き出しそうになり、我慢できず身を翻した。なにもできないままコンビニへ戻った。


 呼び止めることもしなかった。いまに始まったことではないから後悔はなく、また明日、と自分を許す。告げたそばから、学生の時間が無限だとでも思っているのか、と自分を責めた。責めるのだが、足取りは変わらず、頭の圧迫感から解放され友人三人の待つコンビニの待合スペースまでぼくはスムーズに戻ってくることができた。

 ぼくが席へ着くなり高木が「な」と疑問形で言った。ひらがな一文字。

 ぼくは自分がなにもできないだろうことを知っていた。高木もまた、知っていた。


 無理だ、やはり魔法がいる。あの人の名前が必要だ。


「なあ、あの人の名前知ってる?」


 三人からの返事はなかった。





「おまえは詰めが甘い」


 大通りに面した河原町通りに安い肉屋がある。

 曽根はぼくが二〇時に店を予約したことに「遅すぎるだろ」と怒っていたが、最初のカルビを平らげる頃には、酒に酔って楽しそうにしていた。だがこいつはプライドの高い男であるからして、酔っていることも悟られたくない。

 それはさておき、曽根はぼくにそう言った。


「どういう意味だ」


 ぼくが訊ねても曽根は答えない。そこへ被せるように平井が言う。


「おまえはへたれだから」


 平井は大学への進学に際し、富山からこちらへ出て来た野生児だ。いつも意味不明に恥ずかしそうな笑みを浮かべている奴で、消極的な雰囲気を漂わせている。だがそれは表層の話で、中身は口の悪い小学生といったところだ。およそ三種類くらいの悪口を使いまわしている。「へたれ」もそのうちの一つである。


「よ、へたれ」平井がまた言った。


「うるさい、黙れ」


「でもあのときは流石にびびったよな」


 平井が言っているのは、街で偶然彼女とすれ違った日のことだ。

 “街”とは主に河原町周辺の繁華街を示す表現で、誰が言い始めたかはわからない。略しすぎて初めて聞いたときはどこの街かわからなかった。平井は富山の人間であるからして違うだろう。おそらく曽根だ。こいつは通ぶった発言を好む。


 あれは休日だった。街に繰り出したぼくと平井は四条通りを東に向かって歩いていた。対向してすれ違う人々の群れを避けていたとき、ふと雑踏にあの人の姿が浮かび上がった。

 空気が静けさを纏い、時間が一瞬止まったかに思えた。あの人と目が合い、すれ違ってすぐにぼくは振り返った。あの人が振り返ることはなかったが、ぼくは気のせいだとは思わなかった。そこに運命的なものを感じてならなかった。

 憧れているくらいならまだよかったのかもしれない。ぼくの場合、偶然は必然であり、驚きはしてもこの程度のことはぼくたちの関係には仕方のないことだとでも言うように、偉そうに余裕ぶっていた。この偶然は、ぼくの中では当然であった。


 三人はぼくがあの人のことを好いていると知っているから、ある意味ぼく以上に喜んだ。茶化せるからだ。だけどぼくも舞い上がって、平井の冗談交じりの「運命じゃん」という言葉に乗ってやった。ただ平井はぼくに、なんで声かけなかったんだ、とはひとことも言わなかった。ぼくがそれをできないことは、ぼくらのあいだでは常識だからだ。ぼくはできない。


「でもおまえ、声かけなかったよな」


 平井がとうとう言った。曽根の焼いた肉でもない、大きな消しゴムみたいなイカを食いながら。


「もったいな」


 高木がぶくぶく太った面で言った。

 ぼくに返す言葉はなかった。こういうとき曽根は何も言わない。彼は気怠い細目をしながら無言で消しゴムを食った。

 やはり魔法が必要だ。魔法があれば、話しかけたと同時にぼくはクリアする。あの人がぼくを拒絶することは万が一にもない。バイト先の三善さんのようになる。


「あの人の名前が知りたい。どうやったらわかる?」


「さあ」


 平井が肩を空かした。


「知ってるやつとかいないのか」


「あの人って心理学科だよな」


「ああ」


「心理学科ならひとり知り合いがいるぞ」


 平井は社交的で横のつながりが多いが、そういう素振りをあまり見せない。だが一緒に学内を歩いていると知らないやつがよく平井に声をかけてくる。あれが全部知り合いだとすると、とんでもない数だ。


「その知り合いに訊いてくれないか」


「そんなことしないで普通に声かけろよ」曽根が言った。


「それができないから苦労してんだ」


「だからおまえは詰めが甘いんだ」


「だからどういう意味だよ」


「あの人、気づいてるぞ」


「は?」


「おまえが気があるって気づいてる。当たり前だろ、あれだけ毎日じろじろ見てたら普通なにかあるのかと思うだろ」


「いやいや……」


「言っただろ、六人に言えば広まるって。もうあの人の耳にちゃんと届いてる」


 そんなはずはないと思った。あの人と目が合うことはある。でもそんなふうに感じたことがない。


「それにおまえが気づかないってのは、どういう意味なんだろうな」


「意味?」


「おまえ、あの人のことなんもわかってないだろ」


「おまえはわかってんのか?」


「わからん。わかるわけないだろ、一文字たりとも話したことないんだから。で、おまえは? あんのか、話したこと」


「……ない」


 ぼくは黙りこくった。曽根は言い返してこなかった。

 こいつの言う通りだ。ぼくはあの人の声を脳内再生できない。曽根や高木、平井の声ならいくらでも思い出せるのに。ときどきあの人が友達と楽しそうに何か話している姿を見かける。声を聞いたことがある。なのに思い出せない。ぼくが声をかけたとき、あの人がどんな表情をするのか、ぼくは知らない。あの人が何が好きで普段何をしているだとか、何も知らない。


「平井、助けてやれ」曽根が言った。


「何が?」


「知り合いがいんだろ」


「いるけど」


「紹介してやれよ。ああ、もしくはおまえがその知り合いからあの人の名前を聞くとか」


「てかさ、授業始まるとき学生証通すだろ? あのとき盗み見るとかすればいいじゃん」


「そんなことはできない」


 ぼくは平井に強く言い放った。


「なんで?」


「ルール違反だ」


「たまたま見えただけならいいだろ」


 平井が悪い顔をした。ぼくは「ルール違反だ」と突っぱねた。


「へたれなくせに真面目かよ。俺が知り合いに訊くのはいいって言うのか?」


 ぼくは頷いた。


「そういう、外堀から埋めようとするのやめろよ。嫌がられるぞ」


「ま、無理だろうな」曽根が言った。「こいつはそういうやつだ」


「あの人の名前を知ったら告白するのか? なわけないよな」


 名前を知ったら話しかけて、あの人にラムゼンの魔法をかけよう。


「名前を教えてくれたら告白する」


「まだ話したこともないのに?」


「ああ」


「高校生かよ」


 ぼくは平井を無視した。


 飲み会のあとは曽根の家へ行ってスマッシュブラザーズとマリオカートをやるのが恒例だが、ぼくはあのゲームは毎回負けてむかつくから嫌いだ。三人を見送り、ぼくだけ駅前の鳥貴族で朝まで飲んだ。

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