項
あの人を初めて見たのは大教室での講義だった。
それはどこの大学にもある階段教室で、部屋に踏み入ればそこが頂上だ。左、中央、右と三つの座席群が二本の階段を挟んでいる。さらに両端の壁に沿いにも階段がある。長テーブルと組み合わさったそれら座席が、扇状に階下の黒板まで続いている。
あの人はよく左座席群の壁際に座った。比較的に前の方だ。友人二人に挟まれている。
ぼくは中央の座席群の後部に座り、彼女の
彼女は後ろ髪を
ぼくには他のどんな女性よりも、彼女が一際違って見えた。紗がかかっているように見えた。
〇
大半の者は大学へ入学して早々ある問題にそわそわし始める。学友についてだ。期限は最初の一カ月としておこう。期間内に友人を作れなければ「ぼっち」の烙印を押され、それは卒業まで続くことになる。確率の問題ではあるが。
一回生の五月ごろ、ぼくのその問題は既に解決されていた。ぼくは学内のコンビニで学友と昼食を済ませていた。
以前よりぼくは三人に彼女の話をしてきた。
内一人に曽根という男がいる。彼はギャンブル好きで金に汚いところがある。大学が終わるとスロットに誘い週末になるとスロットに誘い、有馬記念日には四条通りから花見小路へ下りたところのウインズ京都に誘ってくる。場外馬券売場のことだ。
彼は友情も金で買えると思っている。金の魔力に憑りつかれている。ぼくの曽根に対する印象は不潔であり、いつも一線を引くようにしている。
彼は夜のタクシーに乗れば、まるで中年のおっさんのように振る舞った。落ち着いた雰囲気で饒舌に運転手と会話することができた。話のほとんどは、どこどこのパチンコ屋は玉の出がいいだとかそんなことだ。それでもぼくは彼のそういった、ときおり見せる大人びた一面を認めていた。曽根はぼくよりは大人だった。
かとおもえば、曽根は「ビリヤードはやったことがない」とか言うやつで、いつか河原町のアミューズメント施設「自遊空間」でビリヤードをしたことがあったが、台につくなりキューを構えた曽根の手元を見て、ぼくは苦笑いしてしまった。彼は気だるい顔で「これであってるか」と訊いてきた。
曽根は隙を見せることを嫌った。弱みを見せたがらず、学生のくせにどっしりと腰を下ろした大人であろうとする。だから話を茶化されたり冗談で揶揄っても、平気そうなふりをして歯茎を見せる。それがかえって弱くみえた。そういったときの彼は、目が暗く沈んでいる。
プライドが高いのだ、曽根という男は。そんな彼がぼくに言った。
「恋愛は六人以上に話すと成就する」
ぼくは考えた。では誰に話せばいいのか。友人は学内にこいつら三人しかいない。
伊勢谷という終始七福神のような笑みを浮かべた四人目の学友が以前にいた。彼は一通道路の逆走で衝突事故を起こし、姉の車を全損して忙しいらしい。家庭裁判所にいかなくちゃいけない、とか言っていたのが半年前だ。以来見ていない。大学に来ていない。授業にも出ていないし、単位が足りないだろうからそのうち大学を辞めるだろう。
ぼくはきちっと六人以上に話した。この三人とは別の、高校からの友人によくつるむやつが二人いる。さらにあくる日の飲みの席で、集まった友人数人にも話した。だがぼくの恋に進展はなかった。
考えてみれば意味のないことをしていたのだ。どうせ話すなら学内の誰か六人であるべきだった。しかしいずれにしろ無意味だったろう。“六”という数字には根拠がなく、曽根が日々ジャグラーで擦る金額のようにいい加減なものに違いなかった。
ただ、ぼくは実際のところ、曽根の言葉に少しも耳を傾けていなかった。内心では彼を見下していた。
「どんな根拠があるんだ」
野暮であるとわかっていてぼくは訊ねてみた。曽根は冗談の通じないぼくを、歯茎で笑って見下した。彼は何も言わなかった。ぼくらは見下し合っていた。
〇
授業がすべて終わったころ、キャンパスの講義棟の壁面を夕日が照らしていた。気怠くなって、ぼくの背中は丸くなる。
夕方のバス停はいつも気鬱する。でもいつものようにバス停にあの人の姿を見つけると、僕の心はしばらく幸せになる。彼女を見ているあいだだけ幸せになる。
バス停は二種類あって方向が違う。ぼくが待つバスは彼女とは違う路線で、彼女の姿はここから見えるのだが、離れている。ベタだがこの距離が、まるでぼくと彼女との絶対に交わらない距離を表しているように感じることがあった。随分前からそう感じている。
大体あちらのバスが先に到着する。それは観光バスみたいな大きさで、彼女の姿は車内へ消えて見えなくなる。それが今日の終わりだ。
そのうちぼくのバスが来て、沈鬱になりながらぼくは大学を去る。今日も何もできなかった、と思いながら。
バスが駅に到着した。降りるのは簡単だ。でも改札を潜るのは違う。いつも気が重い。
改札を潜るともう大学へは引き返せない。今日も何もできず一日が終わる。改札を潜ると同時にそんなふうに自分を戒めてしまう。大学に戻ってももうあの人はいないというのに。
明日がある。明日話しかければいい。この二年間、いつもそう思いながらこの改札を潜ってきた。
ホームに立ち、しばらく待っていると電車がやってくる。いよいよ引き返せない。この電車に乗ったら本当に今日が終わってしまう。そう実感しながら僕は車両へ片足から踏み入る。いつもと違うホームに立っていたとも知らず、電車を乗り間違えているとも知らず。
そしてこのあと、ぼくはあの異世界駅へ迷い込んだ。
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