しゃべる電車

あとむ

プロローグ

 空が白み始める夏の朝4時頃。

 まだ目覚めていない街の中で駅のホームの照明だけが煌々と輝き、まるで演劇の舞台のように存在を主張している。

 静まり返った世界にチャリンチャリンという金属同士がぶつかり合う音と、コツコツという足音が響き、ホーム中央にある階段から同じ制服姿をした2人の役者が登場した。

 互いに軽く挙手をし、二手に分かれて反対方向へ歩き出す。

 まだ闇夜の空が広がる方向に進む役者の行方を追うと、ホームの端まで歩き、この長いステージの始点から終点を200mという巨体で陣取っているもう一人の相方と向き合う。

 少しの間を置いた後、スラックスのベルトループにカラビナで繋げた鍵束を取り出して広げ、音を立てながらお目当ての鍵を見つけると、相方に差し込み扉を開けて入っていった。


―――――――――――――――――――――


 運転士の嘉村伶武かむられんが担当列車を出庫するため指定された番線に向かうと、事務所に掲示されていた出庫表で確認した通り、8000系の第3編成が待機していた。

 先日車庫で洗車したばかりなのか、車体はホームの照明が反射してキラキラしており、前面の大きな窓ガラスの油膜や走行中に貼り付く虫も皆無であった。

 架線から電気を取り入れるパンタグラフが下がっている状態のため電気や空調が一切ついておらず、まるで眠っているようだ。

 腰にぶら下げた鍵束を手に取り、その中からヒンジキーを選んで専用扉と呼ばれる乗務員室の扉の鍵を開けて乗り込み、黒の乗務員鞄を適当なスペースに置いてパンタグラフを上昇させるスイッチを入れる。

 一旦ホームに出て見える範囲でパンタグラフが上がっていることを確認し、車内でも電圧計の針が1500Vボルトを示しているか見てから、バッテリーの電源も入れて電車を起こしてやる。

 車両の状態を表示したり、車内の空調を設定できる操作パネルガイダンスがピッと音をならして起動画面が表示される。

 車両の床下にある圧縮空気を作るコンプレッサーが動き出し、車体を小さく振動させながらホーム上にブルルルルと低い音を響かせ、寝起きが悪くて唸っているみたいにも聞こえる。

 電車の電源を立ち上げた際は必ず運転士が安全に走行できるか確認のため車両点検を行う。

 計器やスイッチ類を一つ一つ指差しながら名称を読み上げ、正しい数値や位置になっているかを確認し、その後事故など異常時の対応で使用する備品が車両にきちんと搭載されているかをチェックする。

 次はホームと反対側の扉を使って、正常に扉が開閉するか試験する。

 この電車は10両編成で、一つの車両につき片側4枚の扉があるので、車掌スイッチを1本の指で操作して一度に40枚の扉を開閉することになる。

 車掌は駅で乗客を乗降させる際に毎回この40枚の扉を扱うのだが、駆け込みや降り遅れる人もいるため、挟んで怪我をさせることのないよう神経を使う仕事であり、自分も数年だけ経験したけれど、やはり大変だと思う。

 扉が正常に開閉したのを確認した後は、車掌業務でもよく使う、電車を発車させる際や停止位置の修正を行う時に使う車内ブザーの試験用の合図を鳴らす。

 少しの間の後、反対側の乗務員室に乗り込んでいる今日のペアの車掌からも同じ合図が返ってきたので異常がないことを確認する。

 ブレーキと起動の試験に移るため、出庫点検専用のモードにスイッチを切り替える。

 わが社が所有する全ての車両のハンドルにT字型の主幹制御器マスターコントローラー(略してマスコン)が採用され、ブレーキは7段階と非常ブレーキ、力行ノッチと呼ばれる車でいうところのアクセルは4段階、ブレーキとノッチの中間には惰行運転する際に使うニュートラルがある。

 電車は動かすよりも停めることが重要とされているため、ブレーキ試験から始める。

 マスコンが一番奥に倒されて非常ブレーキがかかっている状態から一気に手前に引き、ブレーキが一切かからないニュートラルにする。

 ブレーキシリンダーに貯められていた空気が勢いよく抜けて「ピュー」と笛を吹いたような高い音を鳴らし、車輪を押さえている制輪子ブレーキシューがガシャンと音を立てながら緩んでブレーキが解除される。

 まるで電車が「頑張るぞー!」と張り切っているようだ。

 ブレーキを解除したことで車両が動き出さないよう直ぐにマスコンを奥に押し込み、今度は空気の圧力計を見ながらブレーキを一気に緩めたり、小刻みに緩めるなど緩急をつけていくつかのパターンで試験する。

 圧力系の数値も正常に推移しブレーキ試験も異常なかったので、起動試験を始める旨を車掌に伝えるため、インターホンと呼ばれる運転台にある乗務員同士で会話するためのマイクのスイッチを入れる。

 車掌も車内で点検をしているため、突然電車が動き出すと転倒したり機器に体をぶつけるなど怪我をする恐れもあるからだ。

 「これから起動試験始めます。」

 「了解です。」

 インターホンを切り電車を動かそうとマスコンを握ったタイミングで、開けておいた窓の外のから、車掌がホーム上に向けて車両が動く旨の放送をしてくれているのが聞こえた。

 いつも始発電車の出庫を担当すると、ホームには既に何人かいてベンチに座ったりして電車の扉が開くのを待っている。

 夜通し飲み会オールして朝帰りする者もちらほらおり、突然フラフラと電車に近付いてくることもある。

 注意喚起の放送をしなければならないという取扱いは乗務員のマニュアルにないので、するかしないかは車掌個人の判断であり、大半の人はしない。

 運転士としては運転中はホームの状況がわからないので、放送してくれるのはとてもありがたい。

 今度はマスコンをニュートラル位置からさらに手前に倒して1ノッチP1を投入し、電車が少し動いたところですぐにブレーキをかけて停める。

 片側の運転台で一通り点検が終わり異常がなかったので、同様の手順で反対側の乗務員室でも点検を行うためインターホンで車掌に一声かけてから移動する。

 運転士は最初に立ち上げたパンタグラフが全て上がっているか一つ一つ確認するためホームから。

 車掌は座席の濡れやゴミ等が落ちていないか見るため車内を通って移動する。

 前半の点検で異常なしの旨も伝えているため、車掌が車内の空調をつけたようで、屋根の上に付いているファンがブーンと音を立てて回っている。

 真ん中の車両に差し掛かる辺りですれ違うので、お互いに窓越しに手を上げ「よろしく。」と心の中で挨拶する。

 反対側の乗務員室に到着してから、またスイッチや計器類の異常の有無の点検から始まり、起動試験まで終えて全ての確認作業が終了となる。

 業務用の携帯電話で駅長に異常なしの旨を連絡し、今いる運転台が進行方向となるためそのまま発車時刻まで待機するだけとなった。



 新人の頃は間違えのないよう手順を確認しながらじっくり作業していたため、車両点検を終えた後それほど待ち時間もなく発車という流れが多かったが、何度も経験を重ねた現在は身体が手順を覚えており、流れるように作業が進むため、車両点検終了から発車まで20分から30分ほど空くことがほとんどだ。

 専用扉の窓を開けているため、外から爽やかな風が入り込んでくる。

 朝一番の始発電車なので先頭車両付近に人がいないのをいいことに、「いやぁ~。今日は清々しい日だなぁ!」呟きながら両手を広げて体を伸ばす。

 最近の夏は異常気象なのか日中は暑すぎて外にいるだけで体がしんどい。

 車内急病人の対応件数も例年より多い傾向にあり、乗務員も例外なくこの暑さによる体調不良者が続出していて、急遽仕事を休む連絡が入って事務所が代わりの乗務員を手配するためにバタバタしている光景をよく見る。

 日が昇りきらない朝や沈んだ後の夜は気温も下がり、吹く風もひんやりとして心地よい。

 仮眠明けで寝ぼけた頭も少しは覚めそうだ。

 背後からプシューというエアー音とピンポンというチャイムを鳴らしながらドアが開く音が聞こえた。

 一度ホームに降りて列車の前面に向かって立ち、種別が各駅停車であることと行き先が品川であることを一つ一つ指差して「各停。品川。異常なし。」と読み上げながら確認する。

 乗務員室に戻り、「よろしくな。」と呟いて運転台にポンポンと手を弾ませる。

 電車は動物ではないが編成によって癖があり、停める時はブレーキのかけ方と緩め方やその強さ、発車させる時はブレーキが緩んでから力行側にハンドルを倒すタイミングなど、同じ車種でも運転の仕方が変わってくる。

 自分の思い通りにいくものは可愛いし、思ったのと違う動きをされると憎たらしいが、どれも愛着が湧き生き物のように思えてついつい運転台をポンポンと叩き、話しかけてしまう。


 『おぅ。よろしく。』


 返事が返ってきた。


 …返事?


 慌てて周囲を見渡す。ここは乗務員室で自分しかいない。窓は開いているが、先頭車両付近に人影は見当たらない。

 「空耳…かな?」

 泊まり勤務の睡眠時間は仮眠として扱われ、短くなるのでどうしても寝不足になり朝は眠い。

 それが日頃から続けば疲労が蓄積されて当然だろう。幻聴が聞こえるなんてよくあることなのかもしれない。


 『今日は本当に清々しい日だな。』


 また聞こえた。しかもはっきりと。

 もしかして知らぬ間にインターホンが繋がっていて車掌に俺の声が聞こえており、それに対して返事をしてくれたのだろうかと思い、運転台にあるマイクのスイッチを見たが、ランプは消えていて切断状態だった。

 スイッチを入れて念のため車掌に尋ねる。

 「すみません、何か連絡頂きましたか?」

 少し不自然な間が空いたあと、

 「いや。何も言ってないですけど…。」と困惑した声で回答が返ってきた。

 じゃあ、誰がしゃべってるんだ?

 もう一度周りを見渡しても、近くには人一人いない。

 そしてここはほぼ密室の空間。

 車掌も話していない。よく聞いてみると声も違う。

 運転席に座り込んで、まだ覚醒していない頭で一生懸命にうんうん考えていると、


 『おーい。無視するなよー。』


 また声をかけられた。

 明らかに俺に対して話しかけてきている。

 どこから声が聞こえてきているか探ろうとしたが、頭の中で響いているような感じで今一つ掴めない。

 SFの小説や映画で出てくるテレパシーというのはこういう感じで聞こえるのかなと思う。

 寝ぼけた頭で導き出した一つの結論を確かめるべく、運転台に手を添えて恐る恐る声を発する。


 「俺に話しかけているのは、あなたですか…?」


 物に声をかけるなんて、何をしてるんだか。

 耳も口もないのに、話を聞いてそれに応えるなんて絶対にあり得ないこと…。

 俺の頭はどうかしてる。

 いや、寝ぼけているからそうしてしまったんだ。

 そう頭の中で必死に言い訳している自分に失笑していると、


 『そうだよ。』

 

 肯定の言葉が返ってきた。


 何かの間違いであってほしかった。

 でも問いに対する明確な答えがはっきり聞こえた。

 先程から俺に話しかけてきた声の正体は、絶対にあり得ないと思っていた電車だったのだ。

 


 理解できない出来事に混乱して再び頭を抱えているといつの間にか発車時刻となっており、ホームに発車ベルが響き渡る音で現実に引き戻される。

 始発から遅延させればその列車の利用者だけでなく、列車の本数や乗客が増える朝ラッシュへの影響も不可避で、大勢の人に多大な迷惑をかける。

 遅延の理由が乗務員の体調不良ならともかく、乗務員トラブル運転士がパニックなんて死んでも避けたい。

 無理矢理他のことを考えるようにし、電車と会話したことを一旦忘れて何とか気持ちを切り替える。

 車掌の発車する旨の案内放送とドアの閉まる音が背後から聞こえたタイミングで、車内信号機が進行現示であることと、電車の停止位置より前方にある列車の種別を表示する選別表示灯に、各駅停車の「各」と表示されていることを指差ししながら確認する。

 「進行。各停。」

 その後車掌から、「プー」と電車の側面とホーム上の安全確認を終えて発車してよい旨のブザー合図が送られてきた。

 運転士に全ての扉が正常に閉まっていることを示す知らせ灯が点灯したことを確認して「点灯よし。」と喚呼し、マスコンを握って手前に引きノッチを入れる。

 シャーっというブレーキシリンダーの空気が勢いよく抜けた後、キーンと音を鳴らしながらモーターが回り始め、ドンと重い車体がゆっくり動き出す。

 車内にショックを与えないよう段階的にハンドルを手前へと倒し、速度が上がってくるとモーターもウオーンという音に切り替わる。

 最終的にはフルノッチP4で一気に加速する。


電車は太陽が昇る東の方向へと走り出し、傍から見ればいつもと変わらぬ日常が始まった。​

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しゃべる電車 あとむ @cairn26202

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