ある不良生徒について-2

朝顔先生に呼び出された次の日、俺と菜名宮は文化棟に来ていた。ちなみに今は3限の授業中である。英語は普通にテストの点数がやばいから授業受けたいのに、有無を言わさず菜名宮に連れ去られた。これで成績悪くなったらどうすんだよまじで。


「なぁ…なんでこんなところ来てんの?」


「なんでって、昨日の話もう忘れちゃったの?記憶力無さすぎない?」


「流石に覚えてるわ…ダチョウじゃあるまいし。」


「そんなこと言ったらダチョウが可哀想じゃん。」


「とりあえず一発殴らせろ。」


「冗談だよ。」


隣に歩く菜名宮は面白おかしく笑っている。

ちなみになぜダチョウをたとえに出したかと言えば、一般的に物覚えが悪い動物とされているからだ。ダチョウは脳より目玉のほうが大きいらしく、自分の家族のことすらも忘れることがあるほどだそう。


「芽衣奈ちゃんの状況をとりあえず知ることから、って昨日話したよね?だから本人に会いに来たんだ。」


「会いに来た…って。雛城はどこにいるんだよ。」


念のため繰り返すが今は授業中だ。特別教室が並んでいる文化棟に、人が集まることはほとんどない。一応副教科の教室も文化棟にあるため、生徒が全くいない訳ではないが、俺が見た感じでは下の階で1年が美術の授業を受けているだけだった。少なくとも今いる4階には、人影は全くと言っていいほどない。


「ここだよ。」


「…上?」


俺の懸念をよそに菜名宮はある方向を指さす。それは俺たちが今登ってきた、階段の方角だった。


菜名宮は階段の方へ振り向くと、今いる階より更に上へと上がって行く。コツコツと無機質なローシューズの音が響いている。


この学校の校舎は、どちらも4階建てのよくある作りである。今いる場所よりも上に教室はない。この上にあるのは、生徒の立ち入りが禁止されている屋上だけのはずだ。


「何してるのタキ。早く行くよ。」


菜名宮は踊り場までの半分を登ったところで立ち止まり、こちらへと振り返った。俺が一歩も動いていないことに対してだろう、菜名宮は眉を顰めている。


「行くって、屋上に?」


「それ以外どこもないでしょ。この上って屋上以外何にもないし。」


「何で行くんだよ。意味わかんねえんだけど。」


「とにかくついてきて。見たら一瞬でわかるからさ。」


言うと菜名宮はまた前に向き、階段を一歩一歩駆け上がって行く。俺もそれに続くように、屋上への道を歩き始めた。


「めちゃくちゃ埃まみれだな…」


4階と屋上のちょうど中間地点、踊り場まで来たところで、辺りが埃まみれであることに気がつく。少し視線を横に向ければ、長年使われていないであろう跳び箱や、すっかり黒ずんだ応援団が使う様なボンボンが無造作に置かれている。人がほとんど寄り付かないこともあり、おそらくずっと放置されているのだろう。


しかも窓がないためほんのりと薄暗い。一応上から光は差し込んではきているので上にはあるんだろうが、それでも他の階よりは幾分闇に包まれている。厨二病ごっこが捗りそうな場所だ。


「早くこっち来て。下着は見ないでよ。」


菜名宮は俺が踊り場に視線を移している間に、気づけば階段を登り切っていた。もちろん菜名宮も踊り場を通っている。下から見てもわかるほどに、菜名宮のスカートは埃まみれになっていた。しかし当の本人は全く気にする様子もない。


「見えねえし見る気ねえよ。そもそも需要がねえだろ。」


そもそも距離めっちゃ離れてるし、角度的にも見えない。というか万が一見えたとしても菜名宮のパンチラは需要ない。少なくともそこだけは断言できる。


「痛ァ!」


なんか急に頭に何か飛んできた。角度的に上から放たれたであろう小さな何かは、俺の頭に強烈な痛みを与えている。普通に一瞬意識飛びそうになったんだけど?


「なんでいきなり人に向かって物投げるんだよ!」


「別に何もしてないよ。たまたま石ころが高速で飛んできたんじゃない?」


「そんな訳ないだろ…終末期かよ。」


「とにかく早くこっちに来てよ。一秒一刻も惜しいんだから。」


人にものを投げておいてよくも…と思ったが、多分このまま菜名宮を問い詰めてものらりくらりと交わされる。本人に強い悪意がないことくらいはわかるので、諦めてスルーすることにした。


階段を登り切ると目の前には水色のドアがあった。水色といっても鮮やかさはほとんどなく、長年使われているからか全体的に黒ずんでいる印象を受ける。ところどころは錆びてボロボロになっており、見た目から相当年季の入ったものだとわかる。


「本当にこんなところに雛城がいるのか?全然見当たらねえけど。」


一応フロアを見回してみるが、ドア以外に目ぼしいものはない。というか1人立ってるのがやっとのスペースであり、俺は現に菜名宮よりも一段下にある階段の上に立っていた。


「この先にいるよ。芽衣奈ちゃんはいつもここで授業をサボっているからね。」


「何でそんなこと知ってんだよ。」


「私が授業サボってる時、たまに芽衣奈ちゃんの姿を見たからね。」


「お前ってこんなところで授業サボってたのか?」


「違う違う。私がサボってるのは会議室3の方。」


菜名宮はいつも昼食をとっている会議室の方を指差す。そもそもサボんなよっていう話だが、そんなこと言っても無駄なので口にはしなかった。


「廊下で涼んでる時に、時たま上に登って行く芽衣奈ちゃん見かけてたんだよね。私のサボりが役に立つこともあるもんだ。」


「絶対役に立ってる訳じゃないからなそれ。お前のはサボりはただの怠惰だろ。」


「タキからみれば、サボりは悪に見えるんだ。やっぱり、物事を一面的に判断するのは難しいね。」


誰から見ても過度なサボりはよくないと思うんですけど。菜名宮のあまりにも堂々とした態度に、呆れてしまう。

俺は視線を少し下、ドアノブの方へ向けた。


「そもそも屋上って立ち入り禁止じゃなかったか?入学した時からずっと決められてるだろ。」


「校則にはそう書かれているね。でも私が守るとでも思ってるの?」


「ルールは破るためにあるわけじゃねえんだぞ。」


俺は視線を少し下、ドアノブの方へ向けた。


「そもそもここ入れないだろ。鍵かかってるし。」


ドアノブには、小さな南京錠がかかっていた。少し表面は錆びているが、それでも輝きが失われているということはなく、少し鈍い光沢で覆われている。

南京錠がドアを固定していない可能性を考え丸いノブを回してみるが、ぴくりとも動かない。到底ドアが開くとは思えなかった。


「ちょっと代わって。」


俺がドアを開けるために一段下に降りていた菜名宮がまた上に登ってくる。菜名宮はドアノブのあたりにかかっている南京錠に手をかけた。かちゃかちゃと、少し甲高い音が響聞こえる。5秒もしないうちに、菜名宮はこちらを振り向いた。


「ここの南京錠、壊れてるんだよ。」


菜名宮は、先ほどまでドアにかかっていたはずの南京錠を右手に持っていた。ぱっと見何も問題ないように見えるが…良く目を凝らすと錠の端が少し欠けている。あの様子じゃ、おそらく鍵もかからないのだろう。


「うわ、ほんとだ…なんで壊れたまま放置されてんの?」


「ここってそもそも立ち入り禁止だし、ほとんど人が来ないからね。結構前から壊れてるっぽいんだけど、誰も気づいてないんじゃない?」


確かに文化棟自体、来る人は本校舎に比べてそんなに多くないし、わざわざ立ち入り禁止の屋上に来る人なんてほとんどいないだろう。現に踊り場に置かれた荷物が埃まみれなのも人気がないからだろう。


菜名宮はプラーンと南京錠を一回揺らすと、それをドアノブにもう一回ひっかける。


「さあタキ、ついてきて。」


「マジで開くんだな。」


菜名宮はドアノブに手をかけてゆっくりと捻った。

一見重厚そうに見えるその水色のドアは、いとも簡単に開く。ドアが空いた空間から光が差し込み、少しあたりが明るくなった。


菜名宮は一歩、屋上へと歩き出す。俺もそれに続いていく。陽の光が差し込んだその奥には、1人の女子生徒の姿があった。


ドアが開いたことで、薄暗かった階段にも光が差し込む。先ほどまでとの明暗差に少し目をくらませながら、俺は屋上へと足を一歩踏み入れた。菜名宮はすでに数歩前に進んでいる。俺が屋上に入ると、菜名宮はドアから右の方向に視線を動かしていた。菜名宮が見ている方に視線を向けると、そこには1人の女子生徒が地面に寝っ転がっていた。


金色が少しかかった茶髪のショートヘアに、この高校の女子用の制服を見に纏っているその女子は、手を組んで枕にしながら空を眺めている。姿勢だけ見れば、休日の何もない日にゲームばっかしてたなぁと振り返っている俺と同じ格好している。


…うん、例えとしてはあんまり良くないな。

ともかく、俺は予想だにしなかった目の前に広がる光景に頭の処理が少し遅れていた。


「…誰?」


その女子生徒は、寝っ転がって空を見上げたままそんな質問を投げかけてきた。視線をこちらに向けていないのに、俺たちの存在に気づいたのは屋上に足音が響いたからだろうか。明らかに声のトーンが不機嫌そうなのがわかる。


「こんにちは、芽衣奈ちゃん。」


「その声、菜名宮か。」


「ご名答。」


「はあ…めんどくさそうな奴が来た。」


菜名宮が名前を呼んだことから、目の前の女子生徒はおそらく雛城なのだろう。菜名宮の存在に気づいてから、さっきよりも不機嫌そうになっていた。雛城は上を見上げたまま、動く様子はない。


「とりあえず起き上がらない?せっかくの可愛い制服が、汚れて台無しになっちゃうよ。」


菜名宮は手を後ろに組みながらどこか奇妙に明るい声で呼びかけた。普段のこいつの能天気さとは全く違う、圧倒的に作られた感じのするそれはなんだか恐ろしい。


そう、この仕草と声音は男子にはほとんどない、いわば女子特有の『作った明るさ』とかいうやつだ。この世にこれほど恐ろしいものはない。あれは俺が中学2年の頃(以下略)


「いちいち言い回しがめんどくさい奴だな。」


雛城は体をよっと動かし立ち上がる。ひゅっと少し強く吹いた風が胸元のリボンを揺らしている。

雛城がこちらに視線を向け…すぐに驚いたような表情を顔に浮かべる。


「菜名宮だけじゃなかったのか…」


「嘘だろ?」


「…お前、いつからいた?」


「最初からずっといたぞ。気づいてなかったのかよ。」


「まあタキだし仕方ないでしょ。」


「俺だからってどういうことだよ。」


「そのままの意味だけど?タキだから影が薄いし、影が薄いからタキだよ。」


「説明になってないからな。原因と結果が入れ替わってるだけだろ。」


まあ明らかに、俺気づかれてなかった。確かに普段から影薄いけど、足音聞いてたんなら2人いることくらい気づいて欲しい。四足歩行とかじゃなければ1人であんなに足音しないと思うから。それとも俺って足の音すらしないの?なんなの?前世忍者だったりする?

俺が問い詰めても菜名宮はどこか馬鹿にするように笑っているだけだ。


「必要十分条件だよ。数学の授業でやったでしょ?」


「この前やったけど、菜名宮はその授業にいなかったよな?」


「多分受けてないね。ていうか逆に私が居る授業の方が珍しいでしょ。」


「開き直んな。」


「今週私がいた授業思い出してみて?」


「えっと…3日前は学校来てなくて、おとといは昼から。昨日は逆に昼までだったな。」


「ほら、半分以上休んでる。」


菜名宮は自慢げに口角を上げた。何で堂々としてるんだ。


「ほらじゃねえんだよ。真面目に授業受けろ。」


「真面目ではないけどタキより賢いよ?」


「くっそ、定期テストで負けてるからなんも言い返せねえ。」


「やーい、タキのアーホ。」


「んーと、」


横にいた雛城が、間を区切るように声を入れた。


「結局、ここには何の用事で来たの?茶々入れにきたけたなら帰って欲しいんだけど。」


雛城は片目を瞑り、前髪を手でかいている。先ほどから呟いているように、めんどくさいと言いたげだ。


「ああ、そうだった。今日は芽衣奈ちゃんに用事があってきたんだよ。」


「菜名宮が私に用事?なんだ?」


菜名宮の作られた猫撫で声に対して、雛城は怪訝そうにそちらを見つめる。

雛城からの問いかけに対し、菜名宮は一呼吸を間を置いた。


「すばり、芽衣奈ちゃん。更生しない?」


そうして先ほどと同じ、奇妙な明るい声でこんなことを言ったのだ。


「はあ?」


菜名宮の言葉に対し、雛城はガチトーン。全くもってその言葉の意味がわからなさそうにしている。というか俺も同じ気持ちになっていた。しかし菜名宮は雛城を気にする様子はない。


「そのままの意味だよ、芽衣奈ちゃん。更生しようって言ったんだよ。」


「更生するって、具体的に何をだよ。」


「そうだねえ…例えば服装とか。」


菜名宮は視線を雛城の顔元から移し、じーっと下から上まで観察していく。その様子はコーディネーターがモデルの服装をチェックしているようだった。


雛城の服装を改めて見ればわかるが、端的に言えば服装は乱れていると言えるだろう。髪にはカラフルなヘアピンがいくつもついており、シャツのリボンは緩く、ボタンも上の方は締まっていない。スカートも普通より短めで、靴下はなんか糸解けてるんじゃないかってくらいゆるゆるだった。それ買い換えた方が良くない?


「ちょっと…じっと見ないでくれない?」


「あっ、すまん。」


咄嗟に謝った。自分がなんか悪い立場にいたらとりあえず謝る癖が出てしまった。朝顔先生に普段からやってるから、いつの間にかづいてる。


というか俺だけに対してなんだな…いや確かに、女子の姿をじっと見るってのは気持ち悪いけど、菜名宮には何にも言わないんだな。菜名宮は俺の5倍くらい雛城の方見てるのに、気にしてる様子もない。


もはや見てるとかじゃなくて観察してるレベルなんだけど。研究者みたいな顔つきしてるのに、雛城は菜名宮にうがを立てることはしない。なんか…平等じゃないな。仕方ないけど。


腰を手に当てながら、若干こちらを睨みつけている雛城をよそに、菜名宮はふんふんと言いながら、雛城の姿を見ている。


「芽衣奈ちゃんの服装、シャツもスカートも短ければ、靴下もゆるゆる。ボタンもしっかり留めてないよね。」


菜名宮は雛城に視線を向け直すと、自信満々にそう告げた。俺より観察してるのにわかってること俺とほぼ一緒じゃねえか。


「なんか悪い?」


「個性的ではあるよね。周りとは違う感じの雰囲気してるって印象かな。」


「結局ダメってことでしょ、それ。」


周りとは違っているなんて表現はだいぶぼかしているが、今回はポジディブな意味ではないだろう。


「まあ、服装乱れているよなぁ。」


雛城の服装は、確かに通常の生徒よりだいぶ異なっている。世間一般で見れば風紀が悪いと言われてもおかしくないような格好だ。例えるなら妹の部屋においてあった、ラノベとかでよく見る高校のギャルの制服の着方みたいな感じ。


ラノベのギャルといえばクラスを牛耳って好き勝手やってる女王様タイプとオタクくんに優しい理解力のあるギャルの2種類いるけど、俺は圧倒的に後者の方がいい。


普通に前者は怖いしなんか気遣いそう。実際にそんな奴がクラスに居たら多分今より1/10くらいに縮こまってる。ただでさえクラスでの存在は低いのに、もはや存在がないレベルになってしまう。


「でしょ?タキもそう思うよね?」


「ああ、不良っぽいなって感じだ。」


雛城の服装から発展したギャルのことを語っていた脳内を、現実に引き戻すように菜名宮はこちらに振り返る。


俺は何もなかったかのように相槌を打ち直した。雛城からの視線がなんかより痛いものになってる気がする。


改めて雛城の姿についてもう一度確認する。なんか雛城からの視線が鋭い気がするが、きっと気のせいだろう。ざっと雛城の服装について確認すると、ギャルトークと別に考えていたことを俺は口に出す。


「でもさあ…これ別に、校則違反じゃなくね?」


「そうだね。多分先生に注意されることもなさそうだし。」


「そうだねって…他人事かよ。」


雛城の見た目はぱっと見、風紀が乱れているような服装をしている。しかし実際のところ、別に風紀違反を犯しているわけではないのだ。ヘアピンは過度につけていなければ特段問題にはならないし、制服に関しても規定のサイズからある程度に短くすることは許可されている。


学校から渡された物では、長すぎる場合があるからだ。ボタンは少し怪しいが、ぶっちゃけ同じくらい開けてる女子は居なくもない。スカートに関しても、特段長さに問題がないように思えた。というよりこの場合、雛城の足が長いせいで相対的に短く見えているだけなのだろう。


「髪の毛の色は流石にアウトだけどさ…」


「これ地毛なんだけど。」


「なら問題ねえな。」


うちの高校は、髪の毛は染めなければ地毛のままでOKである。黒染めの矯正などはない。

つまり雛城の服装はなんら問題ないのである。雰囲気的にはだいぶ浮いて見えるが、風紀違反は別にしていない。


いや、正確に言えば少し違っている。昔であれば、少なくとも俺が入学した当時であれば多分風紀違反になっているが、今では問題にならない。


「芽衣奈ちゃんの服装が学校で問題なくなるなんて、時代も変わるもんだね。」


「校則を変えた奴が何言ってる。」


横を見れば菜名宮は飄々として、笑っていた。まるで自分は何も関係がないかのように。

しかしこいつはこの学校の、特に服装においての校則とは切っても切り離せないのだ。なぜなら菜名宮は雛城のような、多少派手な服装がセーフになる校則を作った張本人であるからだ。


今から1年ほど前、GWが終わってすぐの時だった。突如全校集会が行われたかと思うと、風紀に関しての校則の変更が発表された。


全校生徒が先生からの発表にざわつく中、体育館の壇上にまだ1年生であった菜名宮が堂々と立ち、事の経緯を発表し始めたのは記憶に新しい。今思えば菜名宮を慕うような輩が出てきたのはその辺りからな気がする。あの頃から菜名宮は菜名宮だった。


「芽衣奈ちゃんの服装は、十分今の風紀の校則に則っているんだよね。」


「ならなんも問題ないじゃん。」


雛城はどこかイラついたように菜名宮のことを睨むが、菜名宮は特段驚くこともない。


はあ、と雛城は菜名宮に対してだろう、大きなため息をついた。


「服装に問題ないなら別に良くない?学校のルールの範疇でやってるからとやかく言われる筋合いなんてないよね?」


「ごもっともだな。」


「そもそも菜名宮たちは何しに来たわけ?私に更生しろなんて言ってるけど。それじゃ私の行動が全部ダメって言いたいの?」


雛城は、まるでダムが決壊したかのように矢継ぎ早に菜名宮に攻め立てる。しかし、菜名宮は全くもって動じることなく雛城を見ているだけだ。


「ていうか菜名宮に更生しろって言われる筋合いないんだけど。アンタ授業真面目に受けてないでしょ?人にもの言うんだったらまず自分のこと直せば?」


「クリティカルヒットすぎる。」


思わず声が出る。だってその通りだ。少なくとも菜名宮が授業を受けろどうこう言われるのはあまりにも筋違いすぎる。


「結局、私を悪い人間扱いして、いい子になろうとか綺麗事言いにきただけでしょ。そんなのもううんざりなんだけど。」


雛城はどこか呆れたように、ほんの少し上を向いて手を広げる。


「結局それって自分のエゴじゃん。人をダシにして快楽に浸ってるただの偽善者でしょ。そんなのに付き合ってられない。」


雛城が菜名宮に、溜まったものをぶつけるように言葉を投げる。それはどこか、菜名宮以外に対しての不満も含まれているような気がした。

そんな雛城の態度に菜名宮は真剣そうな表情を向けている。


「結局アンタも先生と何も変わらない。菜名宮も、ただめんどくさいだけの人間だよ。」


雛城は怒りをあらわにしながら、どこか諦めたように呟いた。金の混じった茶髪を乱雑に掻く。その瞳が何を捉えているのかはわからない。


「それに、お前もだけど。」


雛城は急にこちらを振り返ってきた。正確に俺を捉えた瞳を向けられて、ビビってしまった。獣にターゲットロックオンされた時ってこんな感じなのか?


「ひょいひょいと菜名宮についてきて、結局アンタ何してたの?私を見てただけじゃん。」


「…ああいや、それはいろいろと事情があってだな。」


「事情って何?私のこと茶化して何がしたかったの?」


言われっぱなしも癪であるため言い返そうとしたが、雛城の言った通りなので悔しいが何も言い返せない。虫の居所が悪いのを誤魔化すように、菜名宮に視線を向けるが、菜名宮があいも変わらず真剣なままに、雛城を見てはいる。


「はあ…呆れた。結局何しにきたの?何もないならもう帰るけど。」


雛城はやがて俺たちから視線を逸らすと、一歩階段のほうへと足を踏み出す。しかし、菜名宮は雛城を止めようとする動作もない。その間にも雛城は階段へと向かっていく。

それは雛城が数歩動いて俺たちと背中合わせになったときだった。


「大変だったんだね。」


これまで表情を変えず、何も言わなかった菜名宮が、急に口を開いた。


発言の真意を読み取ろうとするが、菜名宮が何の目的でこんなことを言ったのかは理解できない。一体どうしたというんだ?


「んだよ…もう。」


雛城はこちらを振り返る事なく、そうぼやくと、俺たちを背に校舎へと消えていった。



季節的には一応春のはずなのに、吹き付ける風はまだまだ緩い。暑さこそ感じることはないといえど、趣を感じる春の風、というにはあまりにも暖かい。雛城が立ち去った後、俺と菜名宮は屋上で2人佇んでいた。


「はあ…行っちまったな。」


俺は自分の後ろ側を振り返る。そこには、開きっぱなしにされたドアが不安定なやじろべえみたいに、ゆらゆらと小刻みに揺れていた。雛城の姿はもちろんない。


「…お前、何してるんだ?」


菜名宮は先ほど雛城がいた場所を見据えて、眺めている。誰もいないはずなのに菜名宮はそこから動く気配がない。ただひたすらに、真っ直ぐ前を向いているだけだった。


菜名宮に問いかけるが返事はなく、小さなそよ風の音だけが、耳に入ってくる。


「よし、次のステップに行こうか。」


「は?いきなりどうした?」


数秒経って、いきなり菜名宮は口を開いた。

意味がわからず怪訝な目を向けると、菜名宮はくるんとこちらへと振り返る。長く緩い制服が、ひらりと風に揺れた。


「わからなかった?そのままの意味だよ。芽衣奈ちゃんが更生するためのステップを辿っていくんだ。」


「なんだそれ。更生するためにステップを踏むって、ダンスでもやんのか?」


「そういうことじゃないよ。さっき芽衣奈ちゃんと話して、彼女がどんな人かを軽く知ることができたでしょ?」


「…あんなのであいつのことわかるわけないだろ。」


「私にとってはあれで十分。」


先ほど雛城と少し会話したが、俺はあいつがどんな奴なのかというのは全く理解できていない。強いて言うなら少し当たりがきつくて、なんか嫌な感じがするやつだなってことくらいだ。


ちなみにさっきのやつが会話かっていう疑問を持ってはいけない。俺が会話と思えば会話であり、決して一方的な対話ではないはずだ。多分。きっと。メイビー。


菜名宮の表情は、俺とは対象的に自信満々に満ち溢れている。


「言ったでしょ?軽くって。さっきので芽衣奈ちゃんのことを全部知れるようになるなんて思ってもいない。でも、0だったのが1にはなった。それだけで大きな収穫だよ。」


「そうかあ?別に何も変わらない気がするけどな。」


菜名宮的には雛城芽衣奈という人間が、どういう奴なのか全く知らない状態から、最低限知っている状態になったということだけでさっきのやりとりは十分大きいのだろう。俺は全くもってそう思わないが。


「今度は別の観点から、芽衣奈ちゃんがどんな人間なのかを知る必要がある。それが次のステップだよ。」


「別の観点って言っても、どう雛城のことを知るんだよ。プライベートでも覗くのか?」


「…タキってストーカーしたことないよね?」


「流石にしたことない。少なくとも自覚はない。」


「疑われたことはあるんだ。」


「小学校高学年の時に1回な。冤罪だよ。」


言いながら、当時のことを思い出す。小学生の時、好きだった女の子と積極的に話そうとした結果、周囲から〇〇ちゃんのストーカー認定されていたのは苦い思い出だ。あの時は確かただ交流を持ちたくて、積極的に会話をしただけなんだけどな。


しかも席離れてるのにわざわざ話しかけにいってるとかならストーカーって言われても仕方ないけど、当時はその子の席、俺の真後ろだったはずだ。自分の後ろの席の人に話しかけるだけでストーカー認定されるとかこの世の中も末だな。それともこんなのって俺だけなのか?


「別の観点っていうのは、言い換えれば別の視点ってことだよ。多角的に、芽衣奈ちゃんがどういう人間として思われてるか、知るってこと。」


菜名宮は両手の指で四角の形を作って、そこからこちらを覗き込むような仕草をとる。


「別の視点って、雛城自身じゃなくて周りがあいつのをどう思ってるかでも調べんのか?」


「ご名答。芽衣奈ちゃんが、周囲にどういった印象を持たれているか、また周囲の人は雛城ちゃんをどう思ってるか、そういった周りの意見を調べる。いわゆる客観的評価ってやつだね。」


菜名宮は指で作った四角を、あちらこちらへと移して覗き込んでいる。それはまるで名探偵が虫眼鏡を覗き込み、事件の調査をしているようだった。


「はあ、随分まためんどくさそうなことを…雛城のためにそこまでやるか?」


「己は己が為すが、 人は人が為す。人がどれだけ

自分の考えを貫いた行動をしようとも、周りからの印象は付いてくる。周りからの評価というのは存在しない人なんてほとんど居ないよ。」


「ああ、一歳他人と関わりがない人間とかでも、噂話になったりするもんな。近所付き合いがない家の人間は不気味に思われるみたいな感じだろ?」


例えばある田舎で一歳人と関わりを持たない一家があったとしても、彼らは村の人から奇妙な噂をつけられていたりする。曰く、彼らには呪いが掛けられているとか。曰く、彼らは怪しい宗教に入ってるだとか。


根も葉もない噂話をされるなんてのは聞いたことがある話だ。山の奥の屋敷に住むあの一族には何かしらの伝説があるみたいな。探偵が訪れると、必ず事件が起こる。


「その通り。周囲からの評価がない人間がいるとしたら、そもそも存在を知られていない場合だけだよ。どんな人にも大抵、周囲からの評価というのは必ず存在する。それが正しいかは置いておいてね。」


あちこち向いていた菜名宮は、俺の方にまた視線を戻すと指で作った四角を近づけてきた。どんどんと菜名宮と俺の距離が、ほんの少しずつ縮まる。


「もちろん私にも、タキにも。」


相変わらず菜名宮の瞳には、何か未知のものが眠っているように見える。瞳の奥でこいつは、未来でも見ているんじゃないだろうか。


「雛城を知るのはいいんだが、どうやって情報集めるつもりだ?」


なんとなく目を合わせるのが居心地悪く、俺はあからさまに斜め下に視線を落とした。菜名宮の瞳の光は、俺には強すぎる。


「簡単だよ。聞き込み調査を行う、ただそれだけ。街頭インタビューみたいなものかな。」


「街頭インタビューって…雛城ってどんな人間なんですかとでも聞くつもりかよ。」


「その通り。今からできる限り色んな人に聞いて回ろうと思ってるよ。」


「はあ、俺には到底できないことだな。」


あからさまに手をやれやれという素振りをすれば、菜名宮は笑う。


「コミュ症ぼっちのタキには無理だろうね。人間得手不得手があるけど、ここまでタキに向いてないこともなかなかない。」


「そこまでストレートに殴られるといっそ清々しいな。ボクシングでもすれば?」


「褒めてるんだよ、逆にね。」


「褒められた気がしないんだけど。」


少なくともコミュ症ぼっちが褒め言葉になる世界に俺は生きていないな。そんな世界があったら今すぐ行きたい。異世界でもなんでもいいから転生させてくれ。


「まあここは、私が聞き込みに回るよ。その代わりタキにして欲しいことがあるんだ。」


「それは俺でもできるのか?」


「もちろん。」


菜名宮は振り返ると、そう頷いた。

さっきまで吹いていたはずの、まだ来てもいない夏の残りのような、少し暑い風はいつしか肌で感じられなくなっていた。



あいも変わらず教室は喧騒に満ちている。時刻は昼時、4時間の授業という試練を乗り越えた学生たちに許された、自由な時間だ。財布を手に友人数名と学食に行く奴がいれば、教室で机を合わせて弁当を食べる奴もいる。


俺はクラスの半分くらいが残り、食事をとっている教室の中で1人、購買で買っておいたパンを食べていた。俺の席は教室の後ろ側、主人公席とか言われている窓際の席の一個前ところに当たる。普段の授業中でも、目をかけられにくい意外といい席だ。朝顔先生は容赦なくこっちを睨んでくるけど。


「篠末、こんなところにいるなんて珍しいな。」


「…ん?」


カバンから菓子パンを取り出そうと机の淵から屈んだところで、ふと俺を呼ぶ声がする。視線を上げると、そこにはメガネをかけた一人の男子が立っていた。


「えっと、誰だ?」


「誰って…クラスメイトに対して使う言葉じゃなくない?ていうか名前覚えられてないのか…」


目の前の男子は、どこかため息混じりで首を振りながら呆れている。


「日野谷 報…学級委員やってるんだけどな。毎日の朝礼してるだろ。」


「…ああ、そんな名前の奴いたような。」


そういえば目の前の男子の姿はどこか覚えがあった。確か1学期の1番最初に学級委員に立候補していたはずだ。逆にいうとそれ以外記憶がない。日野谷なんて名前は聞いたことがないから、本当に記憶がないのだろう。


「いきなり声かけてきてどうしたんだよ。なんか用か?」


「いや…別に用ってほどじゃないけど、用事がなきゃ声かけてはいけないってわけじゃないだろ。」


「そういうもんなのか。」


俺にとっては当たり前じゃないことを、日野谷はこともなさ気にそう言った。見ず知らずの人に対して用もなく話しかけるなんて俺には到底できそうにない。ていうか実際できない。


「そういうもんって…むしろ篠末は何か用事がないと人に話しかけないのか?」


「用があっても話しかけないぞ。会話するのって疲れるだろ。」


「…なるほど。そんな感じね。」


日野谷は何かを察したように苦笑いを浮かべる。この表情、あれだな。自分と違う価値観を持つ人間に対して引いてるな。多分日野谷にとって、俺は理解できない存在だと思われてる。


「篠末っていつも昼休みに教室いなかったよな?今日ここにいるなんて珍しいな。」


「え、何、普段から俺のこと見てんのか?」


「別に観ようと思って見てるわけじゃないぞ。ただいつも教室の窓際ってだいたい人いないしちょっと目についたんだよ。」


日野谷はほら、と言いながら俺が座っている近辺を指し示す。そのあたりを見てみれば、確かに付近には人影がない。


「前の方はみんな食堂行ってるし、篠末の隣の人はそもそも来てないからな。んで、篠末も大抵ここにはいないから、いつもぽっかりここ空いてるんだよ。」


「ここらへんいっつも空席なんだな。」


「そうだな。まあ菜名宮さんはたまーに見かけるけど、基本的には昼休みどこにいるのかも知らないし。」


日野谷は辺りを見渡しているが、当然そこに菜名宮の姿はない。いつもあいつは会議室3で昼休みを過ごしているし、今日はおそらく学校中を駆け回っているからだ。


「篠末はなんでここにいんの?気分転換とか?」


「…ああ、まあ、そんな感じだ。」


日野谷は物珍しそうにそう呟くと、俺を一瞥してからまた辺りを見渡す。


「ふーん、まあ、ゴミはちゃんと捨てといてくれよ。このクラス、袋の捨て忘れ結構多いからさ。」


日野谷は俺の手元にあるパンの袋を指差しながらそういうと、さっさと立ち去って行ってしまう。


俺は普段、会議室で昼を済ませることが多い。理由は単純明快で、会議室はいつも静かだからだ。最近じゃ菜名宮が頻繁に出入りするようになったため1人で過ごすことは少なくなったが、あいつが現れるまで人との関わりそのものがなかった俺にとって、あの場所は天国そのものだった。


というより教室がうるさすぎる。俺は会話の中に入ることは決してないのにクラスで話してる声が耳に入ってくるのはよくない。


一年生の時に、俺の知らないところで文化祭や体育祭の打ち上げがあったにも関わらず、全く誘われなかった俺がそのことを知ったのもクラスメイトの会話からだ。


誘われないのはなんとなくわかってたが、実際にそんな話を耳にすると悲しくなる。だったらせめてそんな話すら、耳に入らない方がいい。


ではなぜそんな苦手意識のある昼頃の教室で、昼ご飯を食べているのかと言えば単純明快だ。菜名宮の指示によるものである。


話は1時間ほど…屋上から出て、階段を下っているあたりに遡る。


「タキ、今日はお昼を教室で食べてくれない?」


「なんだ?新手の拷問か?」


「3割くらい違うよ。もっと別の目的がある。」


「3割は拷問じゃねえか。」


「タキにしてほしいことがあるってさっき言ったでしょ?そのためだよ。」


ちょくちょくさっきからスルーされてる気がするんだけど。


「菜名宮がすることと俺が教室にいるのに、なんの因果関係があるんだ?」


頭に浮かべた疑問を菜名宮にぶつけると、菜名宮はよくぞ聞いてくれたという風ににっこりと笑い、こちらの方を指差す。


「簡単な話だよ、ワトソンくん。私がさっきしようとしたことを覚えているかい?」


「やめろ菜名宮、探偵キャラはお前には似合わねえ。」


「一度やってみたかったんだよね。意外かもしれないけど、私はシャーロック・ホームズが割と好きだったりする。」


「意外だな。てっきりモリアーティ教授の方が好きだと思っていた。」


「モリアーティ教授も嫌いではないよ。ただシャーロックには及ばない、というだけ。」


菜名宮はぱっと見笑っているが、今度のそれは不気味に感じられる。


「さて、私がさっき何をするっていったかな?」


「確か聞き込み調査だっけ?雛城のことを聞いて回るんだろ?」


「正解。私はこの学校の人に、芽衣奈ちゃんがどんな子かってのを聞いて回ろうと思ってる。これは私にしかできないことだからね。だからタキには、私にできないことをしてほしいんだ。」


「屋上で言ってたやつだよな。菜名宮が聞き込みをしている間のことだろ。」


「その通り。」


「俺に出来て、菜名宮には出来ないこと。いや、正確に言えば、インタビューしている菜名宮にはできないことってなんだ?」


「それはね、聞き手だよ。」


俺が喧騒と揶揄する、クラスで聞こえてくる声は大抵クラスの奴らの雑談の声だ。彼ら彼女らは、昼休みや放課後に仲のいい数人と集まっては自分の周りで起きたことや面白いこと、趣味の話、話題はいろいろあれど、雑談に興じている。


俺の今までの人生において、少なくとも無縁だった休み時間にクラスメイトで駄弁るなんて行為は、大抵周囲では当たり前に行われている。


それは当然、今も例外ではない。俺が教室で亡霊のように影を隠して食事をしている間にもクラスの至るところで何個かのグループが形成されており、話し声が聞こえてくる。俺はそれを横目にしながらパンを頬張る。何回も言うけど決して悲しくなんかない。


3つあるパンの2つ目を食べ終え、ビニール袋をくしゃくしゃにした時だった。


クラスの喧騒の中央に位置している、男女混合の6人くらいのグループの1人が、その名前を発した。


「そういえば、雛城芽衣奈って子知ってる?」


グループの女子の中でも、一際容姿が整っているように見える、名前を知らない女子生徒がふとそんなことを呟いた。


俺はその言葉が聞こえると同時に、聴覚の意識をそちらのグループへと動かす。決して話を聞いてると悟られることなく、慎重に。耳の意識をそちらに寄せても、目の前のパンを開ける動作はごく自然に。


「雛城って…うちのクラスの奴だっけ。」


と言ったのは、グループの男子だ。


「そうそう。一応クラスメイトなんだよね。」


「雛城って2年になってからほとんど来てなくね?」


「確かに。クラス一緒なのに見たことねえわ。」


「単位とか大丈夫なんかな。知らんけど。」


男子Cお前絶対関西に親戚いるだろ、なんてツッコミを脳内でしつつ、俺はパンを食べ終える。手元の袋をゴミ箱に捨てに行こうか迷うが少し考えて、 やめた。めんどくさいし話聞きそびれるかもしれないし。

…ここだけ切り抜くとすげえヤバい奴なんだよな。クラスの人間の会話を盗み聞きしている妖怪みたいな感じだし。


でも今回の場合はちゃんと理由があるから許して欲しい。じゃあ理由がない時はやってないのかというと…うん。


「ていうか、なんでいきなり?雛城さんってほとんど学校来てないよね?」


男子の1人、確か竹内とかいう名前の奴か。高身長でサッカー部でイケメンでモテモテというなんかもう俺とは違う奴だ。神は人に二物を与えないとか言うけど、実際は全然そんなことない。竹内は多分二物どころか二十物くらい貰ってる。神様が人に何を与えるのかを考えるのがめんどくさくなって、もう全部与えちゃえと職務放棄した結果生まれたのがあいつだ。


グループの中にいた竹内が、話を切り出した女子に向かって質問を投げかける。


「六乃がさっき聞いてきたんだ。雛城芽衣奈ちゃんって知ってる?って。」


受け応えた女子生徒が、顎に手を当て何かを思い出すような仕草をしているのが横目に見えた。


「なんでそんなこと聞いたんだろう。」


女子生徒の隣にいた女子生徒…ややこしいな。女子Bでいいか。が、そんな風に疑念を呈した。


「わかんない。でも六乃の行動っていつも突発的だし、それじゃない?」


「まあ確かにな。菜名宮の考えてることはわからん。」


「それが菜名宮の魅力でもあるけどなあ。」


グループ内でうんうん、と同調するような流れになったのが感じられる。菜名宮がいつも突発的な行動をする人間だというのは共通認識らしい。


「なんでいきなり雛城なんか気にしたんだろうな。」


「あれじゃない?六乃って、いつも周りに気を配ったりして優しいじゃん。だからクラスで見かけないことの子を気にして、調べ始めたとか。」


「それありそう。菜名宮さんならやりかねんな。」


竹内もまた、うんうんと頷いている。

そんなことを聞きながら…俺は内心、どこかうんざりとしてしまっていた。


別にクラスメイトの奴らに対してではない。俺はクラスの奴に対して何か感じるほど、慈愛の心を持っていない。相手が何も感じていないようのと同じようにだ。互いのことを何も感じない理由が違うとかいうツッコミはなしで。相手が俺のことにそもそも興味を持ってないってのもなしで。


端的に言えば、菜名宮に対してだ。この会話を聞いてそんな感情が芽生えてしまう。なぜかと言えば、目の前の光景があまりにもあいつの想定通りであったからだ。


菜名宮という人間はこの学校では有名人である。おそらく全校生徒が菜名宮の存在を知っているくらいには。その理由はさまざまあれど、活動的でいろんなところでの目撃情報、誰に対しても声をかけ、接するそのコミュ力、そして入学わずか1ヶ月で校則を変えたという実績。これらのことから、菜名宮という人間を知らないのは、学校の中では変わり者扱いされるほどにあいつは有名人だ。


そんな菜名宮が、新たに動いた…今回の場合は、『雛城芽衣奈という人間について調べ始めた。』ということは当然、多くの人間の耳に入る。菜名宮という人物が与える影響は大きいからだ。そうすればその話を聞いた多くの人たちが、『菜名宮が質問してきた。』ということから雛城について話題に出す。


当然、話を聞いた全員ではないだろうが、菜名宮の言葉を聞いた一定数はあいつの話を思い出して仲のいい奴や友人との話題としてその話をするだろう。


それを菜名宮は利用した。自分自身の影響力が高いことを理解し、そこから菜名宮は学校で自分のことが話題になることを見越してインタビューを行うと言ったのだ。


教室、あるいは廊下で、クラスの奴らが雛城についての話をすればするほど、菜名宮が単純に雛城について話を聞くことで得られることよりも多くの情報が得られる可能性がある。それに質問で聞かれた当時は思い出せなくても後になって雑談していたら、情報を思い出すなんてことがあり得るかもしれない。そうすれば、雛城という人間について更に知ることができる。


だが学校の人たちがそんな話をしていても、耳にしていれば何も情報を得られていないのと同じだ。だから菜名宮は俺に「聞き手」となるようにと言ってきたのだ。


俺は教室のグループの会話を横目に、テーブルに頭をつけ…そのまま突っ伏した。周りから見れば、机の上から頭だけが見えている状態である。もちろん寝てなどおらず、ただの寝たふりだ。


「菜名宮がいきなり気にし始めた雛城…どんな奴だっけ。」


「俺はほとんど見たことねえわ。テストの時に教室で一回だけ見たような気もするけど、なんも印象ねえな。」


「私たまに見るよ。文化棟からたまにカバン持って出てくる所。」


「え?文化棟にいるの?」


男子Bは驚いたのか、声音が少し高くなっている。


「そうみたい。私もたまに部活行く時とかに見かけるだけだけどね。一年の時もクラス一緒だったから見間違いとかもないと思うよ。」


そう言うのは女子Bだ。


「でも雛城さん、授業は受けてないんでしょ?」


「だよね。なんで学校にいるんだろう?』


んー…と、どこか躊躇いがちな声がグループの中から聞こえる。どうやらあそこのグループに女子がもう一人いたようだ。


「私雛城さんと中学一緒だったんだけど、その時は学校サボるような人じゃなかったはずなんだよね…」


今まであまり口を開いていなかった女子Cがふとそんなことを言った。…誰だっけ、確か佐川とかそんな感じの名前だったはず。多分家は宅急便の会社やってる。


「あれ、雫って雛城さんと同じとこなの?」


竹内が興味を持ったようで佐川に対して問いかけている。


「あ、うん。私西中出身なんだけどね。中学2年生の時、雛城さんとクラス一緒だったんだよ。」


「そうなんだ。中学んときはどんな感じだったの?」


「2年の時の雛城さんって、めちゃくちゃしっかりしてた子だったんだよ。とっても真面目でテストではいつも順位上の方だったんだよ。」


「え、それほんと?1年の時の雛城さんってそんな感じの子じゃなかったような気がするけど。」


「だからさっきの話聞いた時びっくりしたんだよね。雛城さんって中学時代、真面目すぎてクラスであまりよく思われてなかったくらいだから。」


「今と全くイメージ違う…」


「恵理子の話だと、中学の時と正反対じゃんか。」


女子生徒と女子Bが口々に頷く。


「真面目な子…なんかあったのかな。」


「あれじゃね?高校デビューとか。」


ふと竹内の隣にいたであろう男子Bが、そんなことを呟いた。


「確かにあるかもな。中学まで真面目だったけど、高校で陽キャになりたくて自分を変えたとか。」


「あ〜、それありそう。」


女子生徒、ややこしいな。女子Aにしよう。男子の意見に賛同するように頷く。


「なんかそれ、雫みたいだね。」


「え?どういうこと?」


女子Aの意見に賛同するように女子Bがそんなことを言った。それに食いついたのは竹内だ。


「ちょっと恵理子、それは言わないでよ〜」


佐川が女子B、恵理子と言われた女子生徒に少しおどけるような口調で言った。


「あ〜実はさ〜」


女子Bは、声のトーンを先ほどよりも一個上げて声高に話し始める。

俺はその話になって、グループの会話を盗み聞きするのをやめた。おそらくあのグループの話題が別の内容に切り替わったからだ。


俺が今やるべきなのは雛城についての情報を聞くことだけであり、それ以外の情報に関してはどうでもいい。多分話の流れから見るに佐川の過去を掘り下げるんだろうが、その会話は何も有益にならない。


俺は寝たふりを続行したまま、聴覚の意識をクラス全体に広げた。教室には竹内がいるグループ以外にもクラスメイトは多くいる。誰か別の人が雛城について話をしているかもしれない。

そんな期待をしたが、俺の周りに少なくとも雛城の話題に話しているグループはなかった。


ある男子グループ…多分野球部の奴らだ。そいつらが部活の顧問の愚痴を話している。あるいは隣のクラスの誰と誰が最近別れた、なんて話をしている女子のグループもいた。教室の対角、廊下の前側では今期のアニメの作画がどうだ、なんてまるで自分たちが批評家になったかのように語り合っている声も聞こえる。


彼らは皆、己が好きなことについて自分たちと同じカテゴリーの人間と、共通した話題で盛り上がっている。おそらくこんな光景はいつも通りの昼休みの風景で、いつも通りの日常なのだろう。


俺は教室の喧騒をよそに、窓から差し込む光を少し煩わしく思いながらも意識を虚にしていくのだった。




時計は16:00少し過ぎを指している。一般的には夕方に分類されることが多いこの時間帯でも、まだまだ空は青に覆われている。

HRが終わった瞬間、俺は荷物をまとめて教室を出ていく。放課後の教室では、掃除の担当の生徒が箒を手に持ち掃除をしていっていた。


廊下に出ると喧騒が聞こえた。決して広いとはいえない、一般的な学校の大きさの廊下の窓側に詰め寄って多くの奴らが雑談に興じている。これから部活に行く奴もいれば帰宅する奴もいるのだろう。


そんな風景を横目に、ほんの少し早歩きで廊下をかけていく。他者に自分の存在を気づかれたくないためにほんの少し気配を消して。


特段深い意味はない。ただ普段から喋らないクラスのモブAが、彼ら彼女らのひとときを邪魔する筋合いもないだろうなんて思っているだけ。彼ら彼女らの青春において、自分の存在が癌になりたくないのだ。俺自身の、そして皆の平穏を守るためにいつからか人が多い所では気配を消すようになった。


そうして廊下を抜けた。特に用事もないので学校に残る意味もない。部活に所属をしていない俺にとって、放課後は暇な時間だ。


家に帰ったら撮り溜めていたドラマでも見ようか、なんて考えた時に、ぶーっという音が近くでなった。同時にポケットから振動を感じる。


「…なんだ?」


俺はポケットからスマホを取り出す。うちの学校では、スマホは授業後であれば自由に使用してOKだ。

スマホにきた通知をクリックして通知アプリを開くと、菜名宮とのトークに通知がついていた。


『会議室にタブレット忘れてきちゃった。私取りに行けないから、回収しといてくれない?』


そんなメッセージと、熊のスタンプが送られてくる。ちなみに熊といっても、可愛らしいデザインではなくやけにリアルでなんかめっちゃ怖い。多分人間の味知ってる方。そんな熊が「できるよな?」っていう圧力を掛けてくるスタンプが送られてきていた。ただの脅迫だろこれ。


菜名宮のイメージにある意味でぴったりなそのスタンプに目をやりつつ、俺はメッセージを返す。


『わかった』


画面には、すぐに既読の表示がつく。


『ペンシルも多分置いてきてたから、回収しておいほしい。』


そんなメッセージと共に、マッチョでスキンヘッドのおっさんがぶりっ子のように「よろしく」と言っているスタンプが送られてきた。どこに需要があるんだよそのスタンプ。


スマホを閉じて歩の矛先を変える。左に行けば帰宅道、右に曲がれば文化棟。俺は体の向きを右に変える。この時間帯なら部活動はまだ活動開始してないだろうし、文化部の生徒もそう多くないはずだ。今のうちに取りに行ってしまおう。


通知音がまた鳴った。多分菜名宮からだろう。というか俺のメッセージアプリに来る通知は9割が菜名宮のものだ。


『今日の夜頃、電話できる?君の声が聞きたいな。』


メッセージアプリにはそんな文章がなんの脈絡もなく、突然送られてきた。先ほどのやり取りからはおよそ1分後だ。


『キモイぞ。頭でも打ったか?』


『どこからどう見ても可愛いJKの頼み事だが?恋する乙女が勇気を振り絞って言ってみたセリフだろ?』


『それがクサイんだよ。お前が言うとな。』


『そんなことないでしょ。めちゃくちゃ可愛くない?』


『じゃあ仮に俺が同じセリフを言ったとしたら、菜名宮はどう思う?』


『考えるより先にタキを刺しにいくかな。』


『ほらな。』


多分俺が「君の声を聞きたい」なんて言ったら即刻有罪。裁判もなしに速攻逮捕されて刑務所行きだ。こういうのは美男美女だけにしか許されてないセリフなのだ。後壁ドンとかもそう。


『タキに納得させられてしまった…なんか不服だ』


『なんでだよ。』


その発言は俺のことを普段馬鹿にしてるっていうことになるんだが。まあ確実に馬鹿にしてるけど。


『てか、なんでいきなり電話なんだ?』


『情報共有したいから。』


『雛城についてのか。電話する意味がわからないんだけど。』


『メッセージで伝えるのも面倒だし、話した方が多分速いでしょ。』


『わかった。いつ頃時間空けとけばいい?』


『時間とかはまた追って連絡する。私の用事が終わったらすぐにかけるよ。』


その文面の後に、今度はまるで地域のゆるキャラみたいな船に顔がついているキャラが刃物を持っているスタンプが送られてきた。「忘れんなよ」という文字が恐ろしいフォントで書かれている。誰だよこれ作った奴。


スマホをポケットにしまい文化棟の方へ歩き出す。菜名宮とのやりとりがあったせいか、文化棟にはいつの間にか多くの生徒の姿があった。


吹奏楽部、美術部、手芸部など、多くの文化系の部活が活動している文化棟は、放課後になると意外と人が多い。この人混みの中歩くのってなんか気まずいから嫌なんだよな。


しかし引き受けてしまってものは仕方ないので、菜名宮の頼み事のために俺は文化棟へと足を向けた。


「ミッション、コンプリート。」


無事会議室からiPadを確保し、なんとか俺は脱出した。普段人が多い時間帯にここに来ることがなかなかないため、行き慣れているはずの会議室へ行くのも、なんだかミッションのように感じられた。気分はミッションインポッシブル。多分インポッシブルなのは俺だけ。


iPadがきちんとあることを確認し廊下を歩き出す。ちなみにスマホはOKだが、タブレットはそもそも持ってくることが禁止なので先生にばれてはいけない。なので少し慎重に行動していたのだ。


4階から3階へと階段を下る。3階は文化棟の中でも異彩を放っている階だ。4階は複数の部活が活動しており文化部の部室が多く、2階は吹奏楽部の部室があるため、そもそも人が多い。


しかし3階に関しては、その大部分が教材室として利用されているために、普段から生徒の出入りはほとんどない。


現に上の階からは時折階段を下る足音が聞こえるし、下の階からは複数の金管楽器が練習している音が聴こえてくる。しかし3階は人の話し声も、楽器の音色も、何も聞こえない。まるでここだけ切り離された空間かのように静かな場所だ。


「何してんだあの人…」


3階にはほとんど人がいない。だからこそある1人の生徒の姿が簡単に見える。


女子生徒は足元にカバンを置いて、窓の外を眺めている。視線の先にはほんの少しオレンジがかった夕日があり、それに影響されて青を失った空があった。


…黄昏てんのかな。沈みゆく夕日を前に、ため息をつきながら、世の中は窮屈だ…とか考えてたりするのだろうか。オレンジ色の空を見ている時はなんか周りのこともどうでも良くなって、自分があたかも世界にとって大きい存在であるみたいな実感が湧くんだよな。ただそれはあくまでも自分だけで、周りから見るとただの厨二病にしか思えない。


女子生徒はふっと小さく息を吐く、と窓の格子から手を外し足元の鞄を手に取った。そうしてこちらの方を振り返ってくる。


まずい。瞬時にそう判断した俺は目を逸らすが、しかし一歩遅く、女子生徒と目が合ってしまった。


「あっ」


思わずそんな声が出た。こちらを振り向いたその女子は、茶色のショートヘアの髪を束ねて赤と青のピンを2つ、頭につけている。


目の前にいたのは今日の昼前、屋上で会った雛城であった。


「何か用?」


その声は低く、どこか棘がある。明らかにこちらに敵意を向けている。


「なんもねえよ。たまたまここを通っただけだ。」


思わずぶっきらぼうな言い方になった。俺は雛城について何も知らないが、明らかに俺を拒絶しているのくらいわかっている。


「そう。ならいいや。」


ため息のように雛城は呟くとこちらへと向かってくる。そうして俺の左横、下の階へと降りる階段に歩を進めていく。


俺はその場に立ち止まっていた。このまま下の階へと行けば雛城と下駄箱に行くタイミングが同じになる。それは避けたかった。


コト、コト、コト、ローファーが床と触れ合う音がする。雛城は階段を一歩一歩降りていっている。


「ねえ。名前なんて言うの?」


「俺の名前か?」


「あんた以外に誰もいないでしょ。」


雛城は少し眉を顰めた。屋上に行った時も思ったが、雛城が浮かべる表情はどこかどんよりとしている。


「篠末だ。一応お前とクラス同じなんだけどな。」


クラスが同じなのに、どうやら名前を覚えられていないらしい。まあ俺もこんないいかたしこんな言い方してるが、雛城の存在を昨日まで知らなかったし何ならクラスの奴らは半分くらいしか覚えてない。というか覚えてるはずの人でもたまに名前があやふやになる。


「篠末ね。変に私に関わらないでって、そう菜名宮に伝えておいてくれる?」


雛城は階段をまた降り始める。すぐに踊り場を曲がって、すっかり姿が見えなくなった。誰もいなくなった廊下は、文化棟の中でも異常なほどに静かで、どこか寂しい。


「なんなんだあいつ。」


誰もいなくなった3階で俺は1人呟く。

下の階から聞こえる吹奏楽部の音が、やけに耳に残った。


タブレットを回収すればもう学校にいる意味はない。一緒に帰る友人もいなければ、熱意を持って部活に打ち込むこともない俺にとって、放課後は基本的に暇な時間だ。


何もすることがなく何にも追われることがないこの至福の時間が俺は好きである。いや、正確に言えば「何をしなくてもいい」というその事実自体が、心が休まる要因なのかもしれない。タスクが残っている、これから予定がある、そんな状況は自分が考えてる以上にストレスになるのだ。


タブレットが今一度カバンの中にあることを確認しながら、階段を降りていく。遠くからは相変わらず雑多な集団が話し込んでいる声が聞こえるが、先ほどよりかは随分と小さくなっていた。


「やあ、そこの少年。今暇かい?」


「…え?」


渡り廊下を通って南校舎…教室がある方の校舎に向かおうとする時に、ふと俺を呼ぶ声が聞こえた。


振り返るとそこには、俺より一回りは小さい背丈をしている、ショートカットの女子生徒が立っていた。胸元の校章は赤色であることから、どうやら先輩らしい。


「ここには君以外いないだろう。そこの陰険な見た目をしている少年。」


「初対面の人に対してよくそんなこと言えますね。」


「事実を述べているだけさ。気に障ったなら謝ろう。」


目の前の女子生徒…俺よりも二回りくらい小さな先輩、チビ先輩はほくそ笑みながらこちらを見ていた。


今時一人称がボクなんて女子は珍しい。ていうか現実世界にそんな人は存在しないだろうと思っていただけに、この先輩が何か特異的なものに見えてくる。身長低いし。見たところ150もなさそうだ。


「なんで声をかけてきたんですか?先輩とは面識ないでしょう。」


「おや、初対面であることが話しかけない理由になるのかい?」


「普通はなりませんよ。」


「ならボクは普通ではないということだね。」


チビ先輩はどこか嬉しそうに頬を緩ませている。普通ではないって言葉に喜んでいるようにも見える。なんか変な人だな。


「まあ君には折り入って用があるんだよ。」


「それって俺にしかできないことですか?」


「ああ、君以外には無理だよ。」


先輩はそう言いながら俺の手を取るとくるっと半回転する。そして渡り廊下の少し奥にある一つの教室を指差した。


「そこに図書室があるだろう?ボクと一緒に来てくれないかい?」


うちの高校の図書室は、渡り廊下に併設するような形で建設されている。大きさは普通の教室より広く、会議室3のおおよそ5倍くらいはありそうな勢いだ。


チビ先輩は俺の手を半ば強引に引っ張りながら、図書室のドアを開ける。別に断ることもできたのだが、なんかここで断ると罪悪感が生まれそうだったため、俺はされるがままにしていた。


先輩に続いて図書室の中に入ると静かな空間が広がっていた。まだ日が暮れていないのにも関わらず、廊下よりもずっと薄暗く、物音がほとんどしない。


先ほどまで聞こえていた喧騒が嘘のように途切れて、古臭い本の匂いが鼻につくそこはまるで外界から隔離されたような、神秘的な空間だとさえ言える。


「ようこそ図書室へ。」


「そんな大声出して大丈夫ですか?図書館では私語厳禁でしょ。」


チビ先輩は俺の手を離すと、またくるりと回転して今度は俺の方を振り返る。


「ああ、何も問題ないよ。だってここには今、誰もいないからね。」


先輩は辺りを一通り見渡して何かを確認すると、本を読むためのテーブルスペースの方に向かってスキップをし始めた。


「ええ…」


目の前の先輩に困惑しながらも、釣られて辺りを見渡してみる。十分な広さのテーブルスペースと書架を持つ本の要塞は、しかしまるで息をしていないような雰囲気を感じた。


実際、俺と先輩を除いた人影は全くと言っていいほどない。この空間があまりに静かに感じたのは、全く物音がしないからなのだろう。


いくら誰もいないとはいえ、スキップするのは図書室に対して失礼な気がするけど。


「ご覧の通り、図書室は基本的に人気がなくてね。テスト前にはたまーに人が来るけど、それでも基本的には閑古鳥が鳴いている状態なんだよ。」


テーブルスペースを一周し、チビ先輩がこちらの方へと戻ってくる。気づけばその手には一冊の文庫本が握られていた。


「せっかく文化的な体験が気軽にできる場所なのに、どうやら多くの若人はこの場所にあまり興味関心がないようなんだ。」


「若人って…あんたもそうでしょ。」


「実際の年齢ではないよ。心の中でどう思っているかが問題だ。」


「…ああ、そうですか。最近はそういうの話題になってますもんね。」


チビ先輩のよくわからない理論に、適当に返事をしてしまう。多分、自分は周りより少し大人びているとか、周りとは違う人間だなんて思っているのかもしれない。厨二病みたいなもんだろう。


「…さてはボクのことを馬鹿にしているね?」


「別にしてませんよ。先輩の理論に感心していただけです。」


「絶対思っていないだろう。言っておくが、ボクは君が思っているより壮絶な人生を歩んできているんだよ。」


「不幸自慢を初対面の人にすると嫌われますよ。」


「君がボクを馬鹿にしているから、反論をしただけだ。」


「はあ…」


この先輩すげえめんどくさいな。下手になんか言い返せば、どんどん意味のわからん方向に話が進んでいく。こんな相手には適当に相槌を打っておくのが1番いいと妹が言っていた。


「…んで、どうして俺を図書室に呼んだんですか?」


この話を続けてもめんどくさくなるだけだと思い、とっとと本題を切り出すことにした。


「ああ、君を呼んだのは他でもない、図書室を利用して欲しいんだよ。」


「図書室を利用、ですか。」


「ご覧の通りこの教室には今誰もいない。ボクにとっては1番居心地がいい場所なんだけど、多くの生徒にとっては興味を全く持てないような場所らしい。」


「…まあ、図書室使ってる人はあまり見かけませんね。いっつもここらへんは静かですし。」


かくいう俺もこの学校に入学してから図書室は一回も利用したことがなかった。なんなら入学式の時に施設案内と銘打ってここに来たきり、一度も足を踏み入れたことがないかもしれない。


本を読むのが嫌いというわけではないが、基本的に読書するなら本屋に行くか電子書籍を買うことが多いからだ。最近はもっぱら漫画やらラノベを多く呼んでいるから、余計ここには用がない。


交友関係がほとんどない俺ですらこんな感じなのだ。普通の高校生なら尚更、図書室に行く用事なんてほとんどないだろう。


「そうだろう?こんなに面白い作品が多くあるのに利用しないなんて勿体無いと思うんだけど、皆とボクではどうやら価値観が合わないようなんだ。」


チビ先輩は図書室全体を見渡すように、小刻みにステップしながらふらついている。


「…人がいないことと俺を呼んだのって何が関係あります?」


「大有りだよ。むしろ人がいないから君を呼んだんだ。」


チビ先輩はそう言いながら、カウンターの方へと向かっていく。隣にある扉を開けると、そこからカウンターの奥へと顔を覗かせた。


「ボクは図書委員なんだけどね、図書室を使ってくれる人がいないと困るんだ。」


「…寂しいんですか?」


「そんな感情的なものではなくもっと現実的な問題さ。第一、ボクは一人で過ごすことがそんなに嫌いじゃないからね。」


「ぼっちになれてるんすね。俺と一緒だ。」


「その通り、ボクは決して孤独なのは嫌いじゃないし、独りぼっちの空間が好きだ。ただ人が来てくれないと困るんだよ。」


チビ先輩は一見矛盾したようなセリフを言い放つ。


「今日は人っ子一人図書室にいない。利用者の生徒や他の図書委員に限らず、司書さんさえもだ。」


そういえば入学当初ここに立ち寄った時に図書室の利用方法を解説してくれた人がいたはずだ。各学校に最低一人はいるであろう、図書室の管理人だ。中学校や小学校のときも何人かいたのを覚えている。


「司書さんがいないのっておかしくないですか?図書室には最低一人いるもんだと思ってたんですけど。」


「元々はいたんだ。けど二人いた司書さんの一人が理由はわからないけど、やめてしまったようでね。ちょうど今日、水曜日の担当者が不在の状況になっているんだよ。もう一人の司書さんが代わりにずっと来てくれるんだけど、別の学校との兼ね合いで水曜日だけは来られないらしいんだ。」


「いわゆる人手不足ってやつですか。最近の学校は大変なんですね。」


「ああ、それで学校側としては、図書室の管理者がいない中でずっと教室を開けておくのは色々問題らしく、司書さんがいない間は図書室を閉じることにしたほうがいいんじゃないかって声が出てね。」


「でも図書室が好きな先輩は当然反対しますよね…衝突でもしたんですか?」


「ボクにとってここは楽園…とまではいかないものの、まあ放課後にいつも来るような場所だからね。当然その意見には反対したよ。」


先輩はカウンターの窓を開けるとそこから顔をひょっこりとこちらに乗り出す。カウンター奥のテーブルの上に膝をついているように見えるが、まあ気にしないでおこう。


「でも普段から図書室を利用する生徒が少ないから、わざわざ開ける意味も薄いのも確かだ。そこで先生は図書室を利用するたびにノルマをボクに課したんだ。」


先輩はカウンターから一冊のファイルを取り出すと、そこの1ページを広げてこちらの方へと向ける。そこには利用状況記録と書かれたプリントがある。どうやら何枚かファイルの中に入っているようだ。


「ノルマって…要は図書室を開くためにある程度の利用者がいるのを証明するってことですか?」


「正確に言えば本を借りた生徒の数だよ。一月当たり数が決められてて、その人数を達成できなければ次の月から図書室を閉じると言われたんだ。」


「…それで俺を呼んだんですね。」


「今月はテスト期間を含めても利用者がかなり少なくてね。実は結構ピンチなんだよ。」


気づけば先輩はカウンターから俺の方へと戻ってきていた。


「そういうことだから、協力してくれないかい?ボクが図書室を利用するための強力な制約を手伝うと思ってさ。」


「本を借りるのは別にいいんですけど…」


「お、ありがとう。なら早速本を見繕ってくるよ。」


「え、ちょ。」


そう言うと先輩は静止するまもなく書架の方へと走っていく。図書室の中を走るなんて本当にここが好きなのか、と疑問にしか浮かばないが、まあ人がいないので誰かに咎められるわけでもないのだろう。というか咎めたところで、どうせあの怠い返事をされるだけだろうし。


近くのテーブルスペースに座ってしばらく待っていれば、チビ先輩が本を両手に抱えて俺の正面に腰掛ける。パッと見ただけでも10冊か15冊程度はあるだろう。俺より体の線がだいぶ細いのにどっからそんな力湧いてるんだろうか。


「…ささ、この中で好きな本を選んでくれるかい?」


「いや…なんで先輩が選ぶんですか?」


「どうせ本を読むなら君が面白いと思うものがいいだらう?こう見えて本の目利きには自信があるんだ。」


「…はあ。」


初対面なのにわかるわけないだろと思ったが、それを言ったところで多分なんの生産性もない会話しか生まれないだろうし押し黙ることにした。めんどそうなことには首を突っ込まないってのは結構大事なことだ。


手元に置かれた本はさまざまなジャンルのものがあった。芥川龍之介が書いた小説や、シャーロック・ホームズシリーズの有名作品、紛争地域に潜入したジャーナリストの書籍など、まさに古今東西、時代もバラバラな本がいくつもある。


「夏目漱石のこころ…なんでこれが俺の好みだと思ったんですかね。


「君は他人を全く信じてなさそうだからね。案外彼の言葉が心の拠り所になるかもしれないよ。」


「先輩って無礼講ってよく言われません?」


「無礼と思われるほど最近は他人と関わってないからわからないね。」


「…」


さらっとぼっち宣言をする先輩は、そのことを決して辛く思っているようには見えない。ずっと人気のいない図書館にいることから、一人に慣れていれるのだろう。


「おや、それはやめるのかい?」


「現代語訳されてるならまだしも、古語で書かれたものは読みませんよ。」


夏目漱石が嫌いというわけではないが、わざわざ現代語訳されていない原文のコピーを読みたいとも思わない。それにこの本を借りれば、チビ先輩の煽りを肯定してしまったことになるのも何か癪だった。


結局一通り目を通した後、太宰治の斜陽と有名ジャーナリストが書いたドキュメンタリー本の2冊を借りることにした。


面白そうだと思ったものを直感で選んだが、本を読むのは嫌いではないしハズレってことはないだろう。


「生徒手帳は持っているかい?」


カウンターの奥に回り込んだチビ先輩がこちらに向かって手を差し伸べる。


胸ポケットに入れていた自分の生徒手帳を差し出すと、先輩はバーコードにそれをかざしてすぐに俺の方へと返してきた。誰が本を借りたかという情報を残すためのよくあるやつだろう。


手渡された生徒手帳を意味もなく開くと、1番初めのページにある個人情報と証明写真のページが目に入ってきた。


そこにある自分の顔は覇気がなく、いつも鏡の前で見る姿となんら代わりない。入学して1年と少しが経過しているが、良くも悪くも見た目は変わっていないのだろう。


「はい、これ。」


カウンター横の扉から出てきたチビ先輩が手元の本を2冊、こちらの方へと差し出してくる。


「ありがとうございます。」


「いやいや、むしろ感謝したいのはボクのほうさ。協力ありがとう。」


チビ先輩はまたにっこりと微笑むと首を少し傾げてこちらの方を覗き込む。


「来週のこの時間帯に返しに来てくれるかい。」


「…あれ、本の返却期限って2週間ですよね?」


カウンター横にある本の返却日という立札を見れば、そこには2週間後の日付が記されている。中学では1週間だったのが高校では長く借りることができるんだと入学当初に記憶していたので間違いないだろう。


「ああ、そうだよ。」


「ならなんで…」


「2週間後だともう月明けしているじゃないか。来週までに来てくれないとノルマがまずいんだよ。」


「ええ…めんどくさ。」


「ここは一度乗りかかった船だろう。人助けをすると思ってまた本を借りに来てくれよ。」


先輩は一歩俺の方へと近づいてくると手を差し伸べてくる。


「でも俺が先輩を手助けするメリットないですし、俺はそんなに本読まないんですよ。」


今日本を借りたのは、たまたまここを通りかかったからであり、図書室に立ち寄ったにも関わらずあのまま立ち去るのは良くないと思ったからだ。


先輩の話を聞いて同情こそすれ、別に協力したいとはあまり思っていなかった。放課後は普通に図書室寄るよりとっとと家に帰りたいのだ。


俺が首を横に振ると、先輩はどこか残念そうにため息をつく。


「後ぶっちゃけ、図書室が使えなくなったとしても俺にとってはどうでもいいですし…」


「…そうか、それは残念だ。」


そうして先輩はトボトボとテーブルスペースの方へと向かっていく。


「君が協力してくれるならそのタブレットのことも黙っていようと思ったけど、そうはいかないみたいだね。」


先輩はそう言いながら、俺が手にかけているカバンの方に視線をやる。


「…え、見てたんですか?」


「ああ、君が大事そうにカバンの中を確認して歩いている姿をね。そのタブレットって学校指定のものじゃないだろう?随分と珍しい柄をしていたね。」


先輩は先ほどまでとは表情を一転させ、どこかいたずらそうに俺の方を見つめる。


渡り廊下を歩いている時に念のため確認していたのが仇となったようだ。学校指定のものではないと看破されたのは、おそらく菜名宮のタブレットカバーが配布されたものとは全く違うからだろう。


「流石に電子機器類の持ち込みは報告するしかないなあ…」


「性格悪いってよく言われません?」


「そんなこと言われるほど友人が居ないからわからないな。」


「先輩って、絶対モテないタイプですよね…」


「多分君よりはモテるよ。」


こんな取引を持ちかけるなんて性格の悪さがカンストしてる。

菜名宮のタブレットを回収するなんて依頼を受け付けなければよかったと多少後悔しつつ、視線をカバンから再び先輩の方へと向けた。そこには相変わらず、いたずらっぽく笑うチビ先輩が座っている。


「…はあ、来週も本を借りに来れば黙っててくれますか?」


「お、取引成立ってことかな?」


「先輩が裏切らないならですけどね。」


「当たり前だよ。君が来てくれるならボクは何も言わないさ。」


背伸びをしながら肩をポンと叩いてくるチビの先輩に対して、ため息をつくしかなかった。


「じゃあまた、来週もよろしく頼むよ。」


「…わかりました。」


俺が図書室のドアを開けて廊下に出ると、チビ先輩が後ろから俺の方を覗き込む。窓の外はまだ明るいが、図書室に来た時よりもほんの少しだけ気温が下がって過ごしやすいくらいの気温になっていた。


図書室から立ち去ると、また教室の方から喧騒が聞こえてくる。後ろからは吹奏楽部が練習している音が小さく響いていた。


「…はあ、めんどくせえ。」


手元にある2冊の本を眺めながら、思わずそう呟く。


別に本をやむことが嫌いではないが、図書室に寄るというそのタスク自体が億劫なのだ。たった5分、されど5分。やらなければならないことは予想以上に心理的負担がかかる。


もうすっかり人が少なくなった教室前を横目に、ゆっくりと階段を降りていった。




「タキ、なんか疲れてない?」


「…あ?」


「いつもより気分が沈んでいるというか…覇気がないというか。なんかあった?」


「なんかあったか、と言われれば返事はイエスだ。今日は色々なことに巻き込まれたからな。」


「へえ…大変だったんだね。」


「言っておくが雛城の件もその色々に含まれてるからな。なんで屋上に連れてかれたんだよ。」


「ははっ、お疲れ。」


電話越しに聞こえる声は嫌に警戒で、こちらが鬱陶しいと思うほど明るい。電話越しの菜名宮は異常なほどに上機嫌だ。


時刻はおおよそ7時ごろ。ついこの間までこの時間は真っ暗だったはずなのに、今となっては窓から覗く景色もまだオレンジ色に染まっている。


「他人事みたいに言いやがって…お前はいつでもウザいな。」


「どうもありがとう。」


「褒めてないんだけど。」


俺は鞄をほっぽり出し自室のベットの上に寝そべっている。こんな時間帯だが親も妹も帰ってきていない。夕飯を食べる気にもなれず寝ようとしたところで電話がかかってきて、今に至る。


「んで、雛城のことについて情報を共有しておくんだろ?」


「ああ、そうだった。今日の昼前にタキにして欲しいことは伝えたよね。」


「聞き手、だったよな。」


「そう。私が周りの人に芽衣奈ちゃんのことを聞いてるうちに、タキには周りの人がどんな話をしてるか聞いといて欲しいと伝えたけど、そこは大丈夫?」


「そこらへんはわかってる。実際、教室じゃある程度話題のタネにはなっていたからな。」


菜名宮の言い方は形式じみていて、確認事項をおさらいするような話し方だ。こうして一個一個、順番に要素を押さえるようなことを菜名宮はたまにする。


確か一つ一つ要点を押さえる話し方は、建設現場の作業前に安全確認のために行われることもあるそうだ。危険を未然に防ぐという意味合いで危険予知活動、略してKY活動。多分こんな略し方はしない。


「よしOK。なら率直に聞くけど、みんなは芽衣奈ちゃんについてどんなこと話してた?」


「どんなことって言われてもな。何を話せばいいかわからん。」


「耳にしたこと何でもだよ。芽衣奈ちゃんの特徴とか、学校の様子とか、どんな印象か、とか。」


「何でも、ねえ」


昼間から放課後にかけて周りの会話を盗み聞きしたが、雛城に関して話しているところは少なかった。

あの昼休みの話を除けば、せいぜいもう1か2グループの話を聞いた程度だ。


それでも雛城についてと言えば、俺の知らないことは多く話題に上がっていた。その内容を伝えればいいのだろうか。


「一番意外だったのは、雛城が中学の時はあんな感じじゃなかったことだな。」


「あんな感じって今日会った時の印象だよね。具体的には今と昔で何が違ったの?」


「雛城って中学時代、真面目な奴だったらしいんだよ。委員会とかにも所属してて、かなりの優等生だったらしい。」


昼頃の会話に多分佐川あたりが話してた内容だ。中学時代はテストの点数もよく、真面目な生徒であったと。


「同じ中学だった奴がいたみたいなんだが、真面目すぎて嫌われていたレベルって言ってたな。」


「ふーん、なるほど。」


電話越しの菜名宮は、どこか遠くに向けているような声をしていた。それは話を聞いていないようにも思えるし、俺を馬鹿にしてるようにも聞こえる。菜名宮の相槌はいつもこんな感じだ。


「結構意外だったな。屋上で会った時は授業サボってるし、服装も乱れているしで不真面目な奴だと思ってただけに。」


「そう、意外かな?」


「意外かなってどういうことだよ。中学と今じゃまるで正反対だろ。」


「正反対ってわけじゃないでしょ?今も昔もおんなじ感じだったよ。」


「は?」


「あれ、タキにはわからないかな?」


ふと電話越しから聴こえる声音が上がる。いつも俺を揶揄う時の菜名宮の声とそっくりだ。電話越しに菜名宮が笑っている姿が容易に想像できる。


「今日芽衣奈ちゃんと屋上で会った時、どんな格好をしていた?」


「いきなりなんだよ。」


「いいから答えて。」


「服装、確かショートヘアの茶髪に、髪留めを何個か付けてて…あとはスカートが短かったくらいか?」


「そうそう、大体そんな感じ。タキがちゃんと覚えてるなんて珍しいね。」


「俺は何だと思われてるんだ。」


「周りに興味がまるでないコミュ症陰キャ。」


「言い過ぎだろ。俺ってそんな風に思われてたのかよ。」


「じゃあ聞くけど、同じクラスの女子の名前はちゃんと言える?」


「女子どころか男子も怪しい。」


「ほらね。」


クラス始まって1ヶ月とかで全員の名前覚えられるわけない。交友関係ある奴ならまだしも、接点ないやつなら特に。


覚えないといけない理由か、めちゃくちゃ目立つような特徴を持っている奴じゃないと名前が覚えられない。こんなこと言ってるから万年友達がいないんだろうか。


「はあ…それで、雛城の服装がなんか関係あるのか。」


悲しき真実から目を逸らすために、話題を切り替える。友達なんてできなくてもまあ何とかやってける。今までの人生過ごせているってことは何も問題ないのだ。


「率直に聞くけど、タキは服装を見てどう思った?」


「何というかすごい服装してんだな、と。あんなの着てたら目立つだろ。まあなんというか派手だった。」


「確かに芽衣奈ちゃんの服って、結構派手といえば派手だったね。」


朝顔先生に限らず、色んな先生と雛城は話をしているはずだ。その時に服装についても言及はおそらくされているだろう。それにも関わらず、あの服装を続けているのなら先生は手を焼いたのでないだろうか。


「でも、一つ重要なこと忘れてない?他ならぬタキ自身が言ってたことだよ。」


「は?なんか言ってたっけ?屋上じゃ、俺ほとんど何も話してないと思うんだけど。」


再度今日の屋上についての記憶を掘り返すが、俺は何を言っていたか、それが思い出せない。覚えてるのは精々、菜名宮のひっつき虫的なことを言われたくらいだ。菜名宮にくっついてノコノコついてきた的なこと言われたのは忘れてない。


「芽衣奈ちゃんは、何も校則違反してなかったよね?」


「…あ。」


言われてようやく思い出す。確か菜名宮が服装について言及してた時に、そんなことを言った覚えがある。他ならぬ菜名宮が作った校則を、雛城芽衣奈はしっかりと遵守していた。


「マジで覚えてなかったんだね。」


「ああ、全く記憶になかった。」


「芽衣奈ちゃんは学校の授業をサボりはして、自由な格好をすれど、校則をはみ出すようなことはしていない。これって結構変じゃない?」


「確かに…なんでわざわざ校則なんて守ってるんだ。」


「校則って普通は守るものだけどね。」


「校則を守れないから自分で作り替えた奴はどこのどいつなんだろな。」


「そんな人がいるんだ。すごいね。」


「鏡見て来い。」


1年の時に、菜名宮は校則を作り替えた。入学して僅かの時期に、体育館の壇上に立ち校則の改定を宣言した姿が思い浮かぶ。


いきなり放課後体育館に呼び出されて放課後が潰された上に、校長のながったるい話を聞かされた。それが終わり、ようやく帰れると思った矢先に突然菜名宮はそこに現れた。あの時はイカれてる奴だなぁとか思っていたが、実際イカれてた。


「まあまあ、その話は置いといて。芽衣奈ちゃんは朝顔先生が『更生』させてほしいなんて言ってるような、いわば不真面目な生徒なんでしょ?ならどうして彼女は彼女はわざわざ校則なんかを守ってるのかな?」


「よくよく考えれば意味不明だな。要はあいつ学校来るのにわざわざ校則を気にしてるってことだろ?何でそんなめんどくさいことを…」


授業をサボって日中を屋上で過ごすようであれば、正直言って校則とか気にしなくてもいいのだろうと思う。少なくとも、忙しい朝の時間にわざわざ生徒手帳を開いて自分が校則違反していないか確認するのは、不真面目な生徒がしているにはいささか疑問だ。


「だから意外じゃないんだよ。芽衣奈ちゃんは元から真面目だったってだけ。」


「意外じゃない…そういえばこの話、雛城の中学時代から来ていたな。」


「多分だけど、芽衣奈ちゃんって根から悪いみたいなタイプではないんだよね。少なくともタキが聞いた中学時代の話が嘘ではないと確信できるくらいにはね。おそらく彼女はどこか真面目で、校則違反するのが躊躇われた。」


真面目すぎて煙たがられていた中学時代を、雛城は持つと言われていた。それが雛城の本当の性格ならば、菜名宮の話にも納得はいく。


「でも、授業サボるような奴が根は真面目とかあるのか?」


「案外不自然じゃないよ。人は大抵どれだけ表面を画面で繕っても、自分の本当の性質に逆らえなかったりもする。」


「まあ、言いたいことはわかる。雛城も今は自分を偽っているんだな。」


この世には嘘をつくことが苦手な人がいるが、その中でも大きく2種類に分類することができる。一方は単純に演じるのが下手な人。そしてもう一方は、自分が嘘をつくことを心のどこかで許せない人である。


いくらうまく嘘をつくことができても、本能的に嘘をついている自分が嫌だと思う人間がどこかにいる。


彼らは自分が嘘をついていると理解するだけで、どこかで自分を嫌ってしまう、またはだめだと思ってしまう節があるのだ。


これは一種の例えであるが、人間にはどれだけ隠そうとも大抵は心の中では隠しきれない何かを持っている。


「それに雛城ちゃんの中学生時代について面白い話があるんだ。芽衣奈ちゃんって、体操の世界ではそこそこ有名人だったらしいんだよね。」


「そりゃまた唐突な。体操…あれだよな。めちゃくちゃ鉄棒でグルングルン回ったり吊り革みたいなやつにぶら下がってるやつ。」


「オリンピック種目にもなってるあれだよ。その中でも芽衣奈ちゃんはどうやらすごい選手だったみたいでね。中学3年生…今から2年前だね。総合体育大会で、全国3位の成績を残してる。」


「総合体育大会って、高校でいうインターハイだろ?全国3位ってほんとなのか?」


「本当だよ。私も周りから話を聞いて驚いたんだけどね。」


電話越しにカタカタ、カタカタとキーボードを鳴らす音が聞こえた。


「床全国7位、跳馬全国4位、並行棒全国2位。そして大会新記録での平均台1位。並々ならぬ成績を残しているね。」


今日昼頃と放課後、2回雛城を見かけたが、運動をバリバリやっているようなタイプに見えなかった。


側から見れば部活すらしておらず、ずっと外で遊び惚けてような見た目にさえ感じる。


それが実際は全国クラスのトップ選手とは思いもしなかった。人を見た目で判断するなという言葉は案外正しいらしい。


「結果からもわかるように、特に平均台はすごかったみたいでね。ついた異名が『平均台の舞姫』らしい。」


「なんか絶妙にダサいな。つけた奴のネーミングセンスどうなってんだよ。」


舞姫という部分はともかく、頭についてる平均台がなんかダサい。あと舞姫で特別感が出てるのに、平均って言葉がつくのもよくないな。なんか普通な感じがしてる。


「それは同感。ただ、芽衣奈ちゃんは今の見かけからは想像ができないような子だったみたいだね。」


「少なくとも全国で3位なんて、並大抵の奴らじゃ届きもしないからな。」


菜名宮の言う通り、雛城は俺が思っていたようなただの授業をサボっている生徒ではないらしい。どうやら、雛城に対する認識を改める必要がありそうだ。


「さて、こうなると一つ疑問が生まれる。昔は真面目で体操に打ち込んでいた芽衣奈ちゃんは、な どうして今、こんなことになっているんだろうね。」


「今と昔の様子じゃ別人って感じだったしなあ…側から見ると本当にただの不良だし。」


授業中の屋上で、あるいは放課後の廊下で見かけた雛城の姿は少なくとも周りからの証言で得られた、あるいは推測された中学時代の雛城からはかけ離れている。


真面目で全校レベルに達するまで体操に打ち込んでいた雛城と、授業をサボり、服装を乱し、どこかつまらなさそうに世界を見ているような雛城。


一体どちらが本当の雛城なのだろうか、なんて安直な疑問ではある。しかしその非対称的な2つの性質は、間違いなく1人の人間が持っているものである。


どちらが本物でどちらが偽物か、なんて考えは野暮だ。


強いていうならば、その両方とも雛城なのだ。例外は同姓同名のやつがたまたまいるパターンくらいだろうか。


ただ、雛城という名字も芽衣奈という名前もどちらもよく見かけるものではない。その可能性はまずないだろう。


ならばなぜ、雛城は中学と高校でこんなにも印象が違うのだろうか。


「何で芽衣奈ちゃんがこんなに変わってしまったのか、知る必要がありそうだね。」


「そこなんか大事そうだよなあ。なんであんな感じになってんだ。」


「人が変わりゆく理由なんて数え切れないほどある。それこそ十人十色というやつだ。だから、安直な推測では、人の心を本質的に理解することはできない。」


菜名宮は言葉をそこで一旦区切り、そうしてまた口を開いた。


「次のステップに行こうか。」


「またダンスでもすんのか?」


「タキは私と踊ってくれる?」


「ぜってぇ嫌だな。お前に合わせられる気がしない。一人で踊っといてくれ。」


「ははっ、そういうと思った。」


菜名宮はきっと屈託のない笑みを浮かべている。電話の向こうの姿なんて見えないはずなのに、なぜか簡単に想像できてしまった。



いくら夏が近づいているからと言って、日本では夜が訪れない日なんてない。世界の極北へと向かえば一日中太陽が登っていたり、あるいは逆に太陽が登らない日があったりするが、中緯度地域に位置しているこの国ではまずそんなことは起こり得ない。


窓から見える夜の景色は、いつも通り変わり映えがない暗さをしている。まるで絵の具をベタ塗りしたような単調な色の闇を、毎日毎日繰り返しているだけだ。


夕食を食べた俺はリビングに置いているソファーに寝っ転がって動画サイトを見ていた。ココアを入れてイヤホンを装備し、万全の体制である。


夜の時間をこうして無碍に過ごすのは小さな楽しみだったりする。誰に何を言われるでもなく、ただ気ままに動画を見て時間を潰す。


大体の現代人なら結構な頻度でこんなことをやってるのではないのだろうか。本当に至高。この何も考えてない時は、とても気楽なものだ。


まあ、後で大抵何で無駄な時間を過ごしていたんだろうって後悔することが多いのには目を瞑る。


とにかくこの時間は楽しいのだ。…これを絶対に邪魔されないといえば嘘になるのだが。


「にぃ、邪魔なんだけど。」


「いったあ!」


そんな声と共に俺の腹部に強烈な痛みが走った。思わずそちらの方を見ると、寝巻き姿の妹、南が手元にコーヒーを持ちながらこちらを睨んでいる。


「いきなり兄を蹴るなよ。暴力に訴えても世界は平和にならないぞ。」


「暴力じゃなくて愛の鞭だよ。妹が兄を思って蹴ってるんだし、むしろ感謝されるべきだと思うんだけど。」


「何言ってんだお前。とうとう頭おかしくなったのか?」


「おにぃから遺伝はしてないから安心して。」


俺はイヤホンを外して、南を睨み返した。いきなり何なんだこいつ。


「ソファー独占しないでよ。座れないじゃん。」


「いや1人用のやつに座れよ。」


「そっちだとテーブルが遠いんだって。」


「知らねえよ。別に横の椅子でもあんま変わんないだろ。」


家のリビングには3人掛けのソファーが一つ、その左と右に、1人掛けのソファーが向かい合うように置いている。中心にローテーブルが鎮座している、割とよく見る構図をしている。


俺が寝転んでいる3人用のソファーは、端っこの2つに比べて、幾分かローテーブルに近くなっている。リビングで作業をするなら、大抵俺も南もここに座っていることが多い。


南の方を見ると、手元には原稿用紙のような大量の紙束と何種類ものペンが入った透明のケースを、コーヒーを持つ手と反対側に持っている。


「何、また漫画でも描いてるの?」


「漫画じゃなくて同人誌。地域のイベントに出すんだけど、締め切りが今週末なんだよ。」


「いっつもギリギリまでやってるよな。」


「いい話が思いつかなかったんだよ。具体的なシチュも書けなかったし、ようやくまとまったところ。」


篠末南、俺の2個下の妹はいわゆるオタクという人種である。毎日夜遅くまでアニメを見ていたり、時たまアニメイトに行っては、推しキャラのグッズを買ってくるような、よくいるタイプのオタクである。


おかげで南の部屋は大量のアクリルスタンドやポスターで飾られており、ごちゃごちゃしている。俺も時々アニメを見たりゲームをしたりすることはあれど南ほどではない。少なくとも俺は徹夜でアニメを見るなんてしないし、そもそも体力がないからできない。気づいたら爆睡してしまっている。


南は今、同人誌を書いているらしい。まあオブラートに包んでいるが、書いているのはBLだ。男子同士の純愛とか、夜の行為なんかをストーリー仕立てにして漫画風に描いているのだ。そうして出来上がったものを、地域のイベントに出す活動を妹は最近始めた。


「はあ…BLねえ。どこがいいんだか。」


独り言のように呟くと、南はこちらへと強烈な視線を送ってくる。


「にぃにはわかんないかもしれないけどさあ!BLってめちゃくちゃいいんだよ?まずさあ、男同士はないなんていう人多いんだけど、それがいいの!」


「あ、おう。」


「世間では男同士の恋愛なんてあまり受け入れられない。だから自分が男が好きってことを隠しているキャラたちが、自分の好きな人の前だけでは、本当の姿を見せる。そのギャップ!」


「うん、わかった。今度聞くわ。」


多分この話を聞いてたら終わらなさそう。南は本当にオタク熱がすごい。一度この手の話をさせたら、終わる頃には太陽が東の空に出ている。だから俺徹夜得意じゃないんだって。


一度南の熱に押されて、BL(南が言うには優しめのやつらしい)を読んだのだが、正直俺はあまり好きじゃなかった。


「本質は少女漫画だから!」と南は語っていたが、そもそも俺少女漫画読まないし魅力がわからない。

「嫌い」というよりは「興味が持てない」という方が正しい。


そもそもBLという話の魅力が何なのか、この世界がどんなものなのか、そもそもの前提知識として俺はそれらを知らない。


いつも南には勘違いされるが、決して妹の趣味を否定しているわけではない。俺はBLという世界を嫌いではないからだ。というより、好き嫌いという感情を持てるほどBLとやらを知らない。


表面上を見ただけで、何となく気持ち悪い。そんなあまりにも浅はかな感想で他人の好きなものを否定できるほど、俺は賢くはない。知らないのなら否定も肯定もするなかれ。この考え方は俺の中で一貫している。


「まあにぃも、いつかBLの魅力がわかる日が来るよ。」


「多分だけど来ないな。」


俺が小さく呟くと、今度はさっきよりもちょっと弱くお腹に衝撃が走った。それでも割と腹部にクリティカルヒットしたため、痛みを感じる。


「何で腹蹴るの?」


「ムカついたから。」


「ムカついたで人を蹴るなよ。」


「他の人にはこんなことしないよ。にぃだけの特別。」


「そんな特別いらねえ。」


あれ、ちょっと前にもこんなやりとりを誰かとした気がする。なんかデジャブだな。


南は可愛らしい仕草でこっちを覗いてくる。それは俺が知っている生意気でよくボディーアタック(物理)を仕掛けてくる妹からはかけ離れていた。多分これが学校で擬態している時の姿だな。


オタクの姿は肩身が狭いとこの前ぼやいてたし、学校だとこの調子じゃないんだろう。南も大変なんだなぁ。


「とりあえずそこどいてくれない?」


南は相変わらず可愛らしい仕草で、しかし言葉遣いは全く可愛げなくそんなことを言った。


「嫌だと言ったら?」


「さっきの3倍の威力の回し蹴りが飛んでくる。」


俺は立ち上がった。思考する過程を飛ばして、本能的に。


さっきの蹴りでも普通に痛かったのに、あれの3倍が飛んでくるとなると多分普通に悶絶する。当たり箇所によっては出てくる。飯が。


空手黒帯の妹の蹴りを流石にくらいたくはなかった。


「ものわかりがいいね。」


「そんな脅しされたら誰だって立ち上がるわ。」


「何のこと?別に私は何も脅してないし勝手におにぃが変な解釈しただけでしょ?」


「しらばっくれやがって。」


南に抗議の視線を送りつつも、物理的な勝負になると勝てないのは分かりきってるので大人しくソファーを開ける。俺がソファーの左側に行くと、南はご満悦そうに、3人掛けのソファーに向かった。


そうして俺は左のソファーに、南は真ん中のソファーに座った。ばさあ、と大量の紙が机の上に広がった。コマ割りが描かれ、薄さがバラバラのいくつかの絵が描かれている。


「受験生なのにこんなの描いてていいのか?」


「こんなのって何?」


「いや、南が同人誌だっけ?それを描いてるのは別にいいと思うけど…でも受験勉強の方は大丈夫なのか?」


南は今年高校受験を控えている。まだ入試が近いわけではないが、それでも中学3年生の今の時期は受験シーズンという流れはあるだろう。もうすぐ夏休みでもあるし、そうなればいよいよ受験モードに突入という感じではないだろうか。


「問題ないよ、多分何とかなる。」


「何とかなるって…勉強は毎日してるか?」


「してないけど。」


「心配だな…」


「私頭はいいから大丈夫だよ。少なくとも志望校は問題なくいける。」


「南って志望校どこなんだ?」


「あれ、言ってなかったっけ?にぃと同じところだけど。」


「え、お前うちくんの?」


「うん。」


南は自分でも自負しているほど頭がいい。それは天性の才ではなく、地道に努力を重ねてきたからこそである。そのことは南自身が自覚していることだろうし、側から見ても人一倍努力していると言える。


少なくとも俺よりは賢いので、俺と同じところにくるのは問題ないと言うのは本当なのだろう。しかし、そもそも南がうちの高校を志望校としているのに驚いた。


「通ってる身として言うけど、うちの高校ってそんないいところじゃないぞ?家から遠いし、謎の課題とか多いし、後色々なんかルールがあるからめんどくさいし。それでもいいのか?」


「ちゃんとそこも理解してるよ。それでも行くつもり。」


南のその表情は嘘には見えない。本当にうちの高校を志望校としているのだろう。


「…考えがわからん。なんでうちに来るんだ。」


「にぃは私が同じところに来るのが嫌?」


「いや全然、どっちかって言うとむしろ歓迎だけど、それはそれとして理由がわからん。この前は行きたくないとか言ってなかったか?」


「気持ちが変わったんだよ。にぃを見ててね。」


南はソファーより低いローテーブルに向かって前屈みになりながら、手元のペンをくるくるとさせている。視線は机の原稿の方に向かっていた。


「俺?」


「うん。にぃって中学の時暗かったじゃん?」


「何で俺いきなり刺された?」


「とりあえず聞いて。…にぃって暗かったでしょ?」


「暗いという意味では今もだけどな。」


いまだにクラスのやつと交流がほとんどないし何なら名前覚えてない。高校に入ってからは体育のペアはずっと先生である。自慢じゃないが生粋の陰キャだ。よくこんなやつの妹が立派になったよなあ。


「…そう。」


南は何とも言えない感じの表情をしている。なんか悪いことした気分になったんだけど。俺悪くないはずなのに。


「まあ、にぃは今も暗いのかもしれないけど少なくとも中学時代よりは変わったよね。」


数秒の沈黙ののち、どよんとした空気を払拭するように南は明るい声でそんなこと言った。なんかごめん。


「中学時代とそんなに変わってるか?自分で言うのもあれだが、雰囲気とか何も変わってないぞ。」


「変わってるよ。少なくとも前は今よりはずっと酷かった。中学の時はなんかもう全てに否定的で、人類全員を憎んでるって感じしてたし。」


「本当にそれ俺のことか?全く記憶ないんだけど。」


今はまあつまらないような生活ではあるので、昔よりは充実してるのだろう。というより、とあるやつのせいで良くも悪くも今が退屈にならない。これを人生に色があるなんていうのだろうか。


「にぃのことだよ。昔はめちゃくちゃネガティブだったじゃん。それが今は普通というか。」


「そこはポジディブじゃないんだな。」


「にぃは自分がポジディブだと思う?」


「いいや全く。」


俺が楽観主義者であるならば、人類の大抵はどうしようもなく明るいし多分地球に『絶望』なんて単語はなくなる。流石に言い過ぎたが、俺は少なくとも物事をプラスに捉えるような考え方を普段から持ち合わせていない。


「だよね。それでも昔よりは物事に対して肯定的になってる。」


「実感はないけどな。まあ南からはそう見えてんのか。」


「にぃに自覚はなくても、近くで見ている私にとってはそう感じたんだよ。にぃがこんなに変わったのって高校始まってからなんだよね。だから多分、面白い学校なんだろうなぁって思ったから、にぃの学校に入る事にしたんだよ。」


南が志望校をうちにした理由が何となくわかった。俺が色々と変わったから、高校はいいところなんだろうと判断したのか。


「はあなるほど。…半分合ってて、半分間違ってるな。」


「どういうこと?」


「俺が変わったのが高校のせいだと思ってるんだろ?だったらそれは半分正解だ。だけど全部正解というわけではない。」


高校時代になって俺が変わったという原因は高校が直接的なものではない。高校は間接的という意味では影響を与えているかもしれないが、確実に高校が全ての原因ではない。


というか高校に通い出したからと言って俺みたいな人類は普通は何も変化しないものだ。自分から意図的に変わろうとしない限り、人の性格とか性質とかそういったものはずっと同じである。


直接的な原因はやはりあいつだ。マイペースで、能天気で、誰よりも優しく、誰よりも正義感にあふれ、それでいてところどころ怠惰で、授業をサボりがちな後ろの席のあいつだ。


菜名宮六乃という人間が、俺の何もなかったはずの高校生活を退屈ではなくしているのはあまりにも明々白々である。


おそらくあいつがいなければ俺の人生は何もなく、平常な毎日を送っていただろう。それを許さないのが菜名宮六乃だった。


高校はあくまでも菜名宮と出会うきっかけになった場所にすぎない。そういった意味では高校が俺を変えたというのは半分正解で、半分不正解である。


「俺は高校でめんどくさい奴と知り合いになってな。そいつに色々振り回されてるせいで俺の性格は多分変わってる。だか同じ高校に行ったからって、南に必ずしもいいことばっかであるとは限らないぞ。」


「めんどくさい奴って、にぃがいつも口にしてる人?確か、菜名宮さんだっけ。」


「そう、まさにそいつのせいだ。」


「ふーん。」


南はこちらから天井の方へと視線を移した。ペンを顎の下に当てて、何かを考えているような仕草をしている。


「だからまあ、うちに来るのは好きにしろ。俺はどうなっても知らん。」


俺は俺の人生を歩んでいるし南は南の人生を過ごしている。南はもちろん大切な妹であることには違いないが、だからとて南がどこに行こうと、口出しをするつもりはない。


意見やアドバイスをしたりはすれど、南の決定に反対するつもりはない。南の人生は、南自身のものであるからだ。


「よし、決めた。やっぱりにぃと同じところに行く。」


「…マジ?」


それはそれとしてやっぱり意見は言う。正直うちの学校ってあんまりいいところじゃないからな。うちよりも近くて、賢い学校なんていくらでもあるし、南が好きそうな雰囲気のところもある。わざわざ南が来るにはいささか合わないような気がするのだ。


「にぃの考え方が、雰囲気が変わるような人がその学校にはいるんでしょ?そんな人が行くって決めた学校なんだよ?絶対面白いに決まってるじゃん。だからにぃと同じところに行く。」


南の顔には決意が見えている。久しぶりに見たその顔はあまりにも可愛げであるが、それでいて絶対的に揺るがない自信を持っている。


顔の良さも一度決めたことは絶対筋を通すその頑固さも、やはり相変わらず親譲りのようだった。


「にぃはやっぱり不満?」


「別に。お前がやりたいようにしろ。それが1番後悔しないだろ。」


妹が決めた決断なら、否定するつもりはない。ただもし妹に何かがあった時に、自分にできることは最大限しよう。心の中でそんな小さな決意を秘めた。


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