ある不良生徒について-1

窓から吹き付ける風は少し暑さを感じさせるくらいになり、ほんのりと春の雰囲気はありつつも夏の比率が勝ち始めたくらいの日のことだ。放課後のこの時間帯はちょうどいい気温で、ゆったりと過ごすには最適である。


今日も今日とて、友人がほとんどいない俺は一人で帰宅の途についていた。放課後の校舎は部活や下校する生徒が仲のいい人間と集まっており、辺りからは他愛のない雑談が聞こえてくる。


いつも通りの、将来記憶に残らないであろう青春の1ページが広がっていた。


「まじで百ってドジだよな、そんなんじゃ彼氏できないだろ?」


「ちょっと先輩、酷いですよ!」


「いやいや、お前が好きな奴なんて聞いたことないぜ?」


「え、本当ですか?ちょっとショックだなあ…」


2階にある教室から階段を降りて踊り場に来ると、下の方に男子二人が屯していた。非常時に使うドアの前に立ち尽くして、一人の女子を囲っている。


男子二人は校章や上靴の色からどうやら俺と同じ学年であり、一方女子の方はおそらく一年生だ。同じ部活か或いは同じ中学の知り合いだろうか。彼らはぱっと見、和気藹々と雑談をしている普通の高校生に見えた。


「まあそんな落ち込むなって。仮にモテなくても俺らがいるしな。」


「そうそう、俺らくらいしか気にかけないからさ。仕方ないって。」


「あはは…」


ただ、あくまでも見かけだけだ。女子はその顔に笑顔を貼り付けているが、今すぐにでも立ち去りそうな雰囲気を漂わせている。しかし男子二人の立ち位置が明らかに下駄箱への道を防いでいた。


ナンパの類か、或いは単純に仲のいい後輩女子を落としにかかろうとしているのか。男子二人には下心があるように見えるが、残念ながら女子にはその気がなさそうだ。


周囲に生徒は多くいるが、彼ら彼女らはほとんどその3人を気にかける様子はない。ぱっと見、その3人がただの仲がいい集団に見えるからだろう。雑談の内容もよくあるかは知らないが、仲良しグループであれば違和感がない。


「先輩たちって彼女さん作らないんですか?」


「んー…今はいないんだよな。いつか欲しいとは思ってるけど。」


「残念ながらモテないんだよね。」


「えー…先輩たちならすぐに恋人作れそうなのに。」


「あはは、言ってくれるな!」


女子の方は愛想笑いを浮かべながら一歩その場を後ずさる。しかし片方の男子がその動きを察知したのか、女子との距離をさらに半歩詰めた。


「…大変そうだなあ。」


女子はさっきより露骨に表情を歪めたが、男子たちは気づいた様子もないようだ。もしくはわかっていて、あえて無視をしているのかもしれない。


それにしてもあの女子は気の毒だな。興味がない先輩から言い寄られるなんて対処が大変そうだ。変に断れば今後の関係性が悪くなる可能性があるし、断らなければ逆によりめんどくさい事態になる。


俺が関わることのない世界では、俺が体験することがない苦労が待ち構えているらしい。


「大変そうって何が?」


「うわ、びくった。」


踊り場でその光景を眺めていると、急に背後から呼びかけられた。独り言に反応されると思っておらず、慌てて後ろを振り返ると、同じ学年の校章を付けた一人の女子生徒が立っていた。


「…菜名宮か。」


「久しぶりだねタキ。」


「久しぶりなのはお前が学校に来てなかったからだろ。今日どこにいたんだ?」


「さっきまで家にいた。」


「あのさあ…」


なんの悪気もなくそう言い放つ菜名宮に対し、俺は思わずため息をつく。


学校一の自由人として知られる菜名宮六乃は、同時に学校一の問題児だと言われている。遅刻や無断欠席は当たり前、服装も普通の生徒と比べてみだれている。


とにかく何かに囚われることが嫌いであり、常に自由を求めているような人間だ。菜名宮が学校に来ないというのはもはやある種の日常になっている。



「んで、大変そうってさっき呟いてたけど、なんかあったの?」


「ああ…あれだよ。」


菜名宮が不思議そうに首を傾げるので俺は下の方を指差す。先ほどまでと同様、例の男子二人と一年の女子が話を続けていた。


「女子の方は逃げたそうにしているのに、延々と男子に絡まれてるっぽいんだよなあ。俺の勘違いかもしんねえけど。」


実際、あの3人は本当に仲がいいだけかもしれない。俺が勝手に変な解釈をして男子二人を悪者にしている可能性は十分あるのだ。というかあの光景が、女子が嫌がっていると断言できるほど人とのコミュニケーションを知らない。あまりにもシンプルで致命的な弱点が、俺の考えを推測に留めていた。


「なるほど…袴とろーちゃんか。」


「おい、何しに行くんだ。」


しかし菜名宮はその二人を見て一瞬で何か悟ったようにそう呟く。そして俺が引き止める間もなく、階段を一段飛ばしで軽快に降りていった。


「だから百、今日もどっか行こうぜ。」


「ありあり、独身同士仲良くしようぜ。」


「えっと…」


「おはよ、袴、ろーちゃん。」


そしてぱっと見楽しそうに談笑している3人の中に割って入ると、男子に向かって軽快に挨拶を飛ばした。


「…あ、菜名宮さん。」


「お、おう。久しぶり。」


男子の一人、袴と呼ばれた方が菜名宮の方に振り向いた。その表情はどこかぎこちないもので、子供が隠し事をしているみたいだ。


もう片方の男子、ろーちゃんと呼ばれた方もどこか狼狽えている。友人にたまたま会ったというよりは、まるで出会ってしまったと言った方が適切だろうか。


「百代もいたんだ、おはよ。」


「あ、おはようございます。」


菜名宮はそんな二人の様子を気にかけることもなく一年生の女子の方へ振り向くと笑顔で声をかける。百代と呼ばれた女子は菜名宮の姿を見て、目を丸くしていた。


「3人は何してるの?部活もう始まってるよ?」


菜名宮はいつの間にか手に持っていた銀色の懐中時計を取り出すと、その蓋をパカっと開いて3人の方へ向ける。


スマホで時間を確認してみると、HRが終わってからおおよそ30分程度時間が経った頃だった。運動部であればそろそろ準備運動を始めている頃だろう。まあ運動部入ったことないから知らないんだけど。


「あ、ちょっとサボっててさ…」


「そうそう。今日大崎先生が来ないから駄弁ってたんだよ。」


袴とろーちゃんの二人は苦笑いを浮かべながら、互いに視線を合わせる。


「そういや今日職員会議するから職員室入るなとか言われてたっけ。百代もサボってたの?」


「はい…そんな感じです。」


「入部したばかりなのにもうサボってるなんて度胸あるね。さすがだ。」


菜名宮は笑顔のまま、百代と呼んだ女子の肩をトントンと優しく叩いた。


「でもサボるのは良くないよ。部活は真剣に取り組まなくちゃ。」


「六乃先輩がそれ言うんですか?」


百代後輩は先ほどまで男子二人に向けていたものとは違う、どこか自然な微笑みを浮かべる。おそらく、あれがあの1年生の本来の素顔なのだろう。


「いやいや、私のはサボりじゃなくてちゃんと意味があることだから。」


「本当ですか?」


菜名宮は一年女子の肩に触れたまま、それとなく袴と言われた男子と後輩の間に割って入り、後輩を下駄箱方向に一歩誘導する。


袴は顔を顰めたようにも見えたが、それは不満げというよりかは気まずそうな感じだ。あの表情を見る感じ、下駄箱への道を防いていたのは意図的なのだろう。つまりまあ、さっきの動きは確信犯だ。


「3人は今日、部活行かないの?」


「あー…もうこんな時間だし今から行ってもなって思っててさ。」


「もう準備運動終わってるし、今から合流しても微妙なんだよな。」


「また二人ともサボるんだ…後輩巻き込むのは良くないよ。」


菜名宮は男子二人の方をまた振り向く。先ほどと表情自体変わっていないが、明らかに女子に向けたものとは違い優しげがない。というか圧力をかけていると言ってもいいだろう。男子二人がその表情に若干気圧されている。


「サボるって言えば…そういや気になったんだけど、百代って例の彼とはどんな感じなの?」


「え…?」


「ほら、中学の時の先輩だっけ?いい感じだってこの前言ってたじゃん。部活サボってるのは、もしかして彼との時間作るためだったり?」


後輩女子は困惑したように菜名宮の顔を眺めている。男子二人に見えないように、菜名宮は女子の背中をトントンと優しく叩いた。後輩女子はしばらくぽかんとしていたが、やがて何かを悟ったようにハッと目を見開いた。


「遊びに行くために部活サボってるわけじゃないんです!ただ、まあ結構いい感じなのはそうですけど…」


後輩女子は菜名宮に向かって一歩近づくが、その頬は若干赤らんでいる。


「え、まじ?また今度詳しく聞かせてよ。」


「はい!」


二人のやりとりを見ていた袴とろーちゃんと言われていた男子は、呆気に取られていたように口を開いていた。

それにしてもやるなあの後輩。菜名宮の誘導見る感じ、あの話は嘘なんだろうけど、なんでそれっぽい表情出せるんだ。完全に男子放心してるし。それとも女子ってみんなあんな感じなの?そんなんじゃ人間不信になっちゃうよ。


「袴もろーちゃんも百代がノリいいから誘いたくなるのわかるけどさ、遊び回ってたらこの子の恋路邪魔しちゃうから、程々にしときなよ。」


「そうなのか…」


ろーちゃんの方は完全に意気消沈、というか先ほどまでのキレがなくなっている。ボクシングでボコボコにされた後みたいに真っ白に燃え尽きている。明日のジョーだな。


「いや、百って彼氏居ないんじゃなかったっけ?あれ嘘だったの?」


しかし袴はまだ引き下がらない。先ほどよりも半歩、百代後輩の方へと踏み出していく。


「あ、えっと…」


「そりゃ付き合ってないからね。彼氏居ないってのは嘘じゃないでしょ。」


「それでもいい感じの奴がいるとも言ってなかっただろ?」

菜名宮が表情をそのままに袴の方へと振り返るが、袴は引き下がらない。あいつ度胸あるな。


「…あのさあ袴、言わないに決まってるじゃん。」


「言わないって…なんで?」


「袴は女の子のことほんとわかってないね。女の子はいつだって恋に真剣なんだよ?女子の友達には真剣な恋を自慢しても、男子にはそうそう言えないよ。いくら部活の先輩だからってね。」


菜名宮はフッと先ほどよりも微笑みを深くすると、袴の方に向かって逆に一歩詰め寄る。表情はずっと笑顔なのにどこか無機質なように見えた。怖すぎだろあいつ。


「ひ…」


「まあ、百代も先輩だからって遠慮してるのはちょっと悪いけどね。」


「えっと…先輩のお誘いを断るのもどうかと思って…」


「せっかくだし、今のうちに本音はちゃんと伝えといたら?」


菜名宮は百代後輩の方に振り向くと、敢えて男子二人の方に後輩の女子を半歩近づけさせる。


百代後輩は突然のことに一瞬ビクッと体を震わせた。そして少しの間黙り込んでいたが、何か意を決したように顔を上げて男子二人の方を覗き込む。


「先輩たちのお誘いはありがたいんですが…私、彼との時間を大切にもしたいので…これから遊びに行くのはちょっと遠慮させていただきます。」


そうして、きっぱりとそう言い放った。


「あ、おう…」


「…」


男子二人はもはや何も言い返せないというか、どうすることもできないと言った様子で上辺だけの返事をする。その顔には諦念が浮かんでいた。


「二人とも特にそんな気は、きっと、なかったんだろうけど…勘違いさせちゃうかもしれないから注意しときなよ。」


「あ、そうだな…」


「…ごめん、百。」


人通りが少なくなった廊下で4人の男女が向き合っている。二人の女子は笑顔で、そして二人の男子は落ち込んでいる。結果として男子たちは後輩を狙っていたが失敗してしまった。


それは菜名宮という人間のせいなのか、あるいは青春という鳥籠の因果だったのだろうか。どちらにせよただの日常の1ページであることに変わりはない。


「おい、袴田と吉岡、そこにいるのか!」


ふと俺が立ち尽くしている階段の後ろ側から少し野太い声が聞こえた。ていうかよく考えたら、何で俺はこんなところで階段下をずっと眺めていたんだろうか。側から見たら不審者でしかない。


「やべ、大崎じゃん!」


「ちょっと待て、今日会議だっただろ!?」


階段の下にいる男子二人が慌てたように声をあげて、地面に置いていた鞄を急いで手に取る。


「どうしてこんなとこにいるんだ!?もう基礎練の時間だろう!」


俺の隣に少し太った中年メガネの先生が現れる。確か一年の時、物理を持っていた大崎先生だ。おそらくあの二人の部活の顧問なのだろう。


男子二人はこちらの方を確認すると、一気に表情を青ざめさせて下駄箱の方へと逃げていく。大崎先生はその二人を追いかけて階段を小走りでかけて行った。


いや、小走りは嘘だな。ゆっくり一段ずつ降りてるわ。エッホ、エッホなんてまるでフクロウのような掛け声をしながら、階段を慎重に進んでいる。このスピードで行っても多分見失うだろう。


事の顛末を眺めていた菜名宮と後輩女子はフッと息を吐くと、どこかイタズラそうに笑った。


「お前らも早く帰るんだぞ。」


「はーい、わかりました。」


階段をようやく降りた大崎先生に声をかけられた二人は、その笑顔のまま振り返る。


菜名宮がちらっとこちらの方を振り返る。そこにはドヤ顔というか、してやったりと言いたげに頬を引き上げている。


もう見慣れてしまったうざいそんな表情に、俺は敢えて無視をしながら階段を降りていく。


「戸谷さん、それに菜名宮さん、どこに行ったの?」


俺が一歩階段を踏み出したところで、また後ろ側から、今度は甲高い声が聞こえてきた。


「あ、やべ。」


「何でバレたの!?」


声のした方を振り返ると、そこに濃い化粧を施した中年の女性教師がいる。国語の科目を主に担当している八代先生だ。


菜名宮と後輩女子は八代先生の姿を捉えると同時に、先ほどの男子と同じように鞄を手に取ると、まるで再放送のように下駄箱の方へと急いで逃げていった。


「ごめんなさい、いきなりだけど菜名宮さんと戸谷さんを見なかったかしら?」


八代先生が階段で足を止め、俺の方に尋ねる。


「あ…えっと…」


「あの二人、国語の補習逃げ出しているんですよ。」

「戸谷…という奴は知らないですけど、菜名宮なら下駄箱の方行きましたよ。」


「そう、ありがとうございます。」


八代先生は小さく頷くと、そのまま階段を一気にかけていく。すげえなあの先生、もう50超えてるのになんで階段を一段飛ばしで降りれるんだよ。この前息子が大学入ったって自慢してたよな?


大崎先生の10倍くらいのスピードで階段をかけて行った八代先生を横目に、俺はゆっくりと段差を降りて下駄箱へと向かう。


一階に着けば、大抵騒がしい下駄箱にはすっかりと人の姿が消えていた。どうやらいつも帰る時間より大幅に時間を潰してしまったらしい。


先ほどの出来事は菜名宮にとっては日常の一部なのだろう。菜名宮六乃という人間は、周りで何かあれば迷わず顔を突っ込んでいつのまにか事を解決してしまっている。それが自分に関係あろうとなかろうとだ。


その度胸や行動力は俺どころか大抵の人間が持ち合わせてないものだろう。菜名宮は誰に対しても気後れしない性格とその明るさから、男女問わずに人気が高い奴である。実際、菜名宮に憧れているという生徒の噂は何度聞いたことか。


他人と距離なんてまるで感じさせず、自分に関係のないことまで足を踏み入れていく。俺にはあいつの行動原理も性格も考え方も何も理解できない。


根本的に相容れない存在なのだろう。自分とここまで真反対の人間が居るものかと最初は驚いたほどだ。


日常を謳歌し、現実を改善し、そしてある意味平穏を壊してしまう。そんな奴の存在を、菜名宮のことを、俺は革命家と呼んでいる。




お昼休みになり、俺は事前に購買で買っておいた数個のパンを持って教室を出た。影なるもの特有の速歩きで、学食や外にお昼を食べにいく生徒の間をそそくさとすり抜けていく。


多分俺の存在を認識している奴はこの中に1/3もいない。この隠密スキルをもってすれば、俺の存在に気づくことは難しい。ただ影が薄いだけだろとかいうのは無しで。


俺の通う学校は校舎が北と南に分かれており、普段授業を受けている教室があるのは南校舎の方だ。北校舎には音楽室や美術室といった特別科目の教室が固まっており、文化部が活動していることが多いため、文化棟なんて呼ばれ方もしている。


誰もいない渡り廊下を歩いて俺は文化棟に来ていた。放課後ならば部活をしている生徒も多いためそこそこ盛んな文化棟だが、昼休みにはまるで人影がない。コトコトとスリッパと廊下が重なり、擦れる音がはっきり聞こえるほど静かである。


文化棟をしばらく歩くと、ある一つの教室が見えてくる。北側の校舎自体、普段授業をする教室がある南校舎に比べて使われる機会が少ないため、うすら汚れていることが多い。


そんな校舎の中でも、特に暗い印象を与える教室がある。会議室3と書かれているはずの、ほとんど見えなくなっているプレートがかかった教室のドアを俺は開いた。


中央に無造作に置かれた椅子と散らばったいくつかの机が並ぶ無機質な空間。レイアウトだけ見れば会議室をイメージできるが、しかしまるで使われているような形跡がない殺風景な場所に、座っておにぎりを頬張っている菜名宮の姿があった。


ドアが開く音を聞いたのか菜名宮はこちらを振り向いた。おにぎりを頬張った様子はまるで食事を溜め込んだリスのようにも見える。こいつを動物で例えた時に、リスかと聞かれれば絶対そうじゃないけど。


「そろそろこの部屋掃除しないのか?」


開口一番に俺は菜名宮に聞く。ほとんど使われている形跡がない会議室3は、現在菜名宮と俺が昼食を食べるために占有している。


ほとんど人が寄り付かないので、当たり前だがほとんど掃除もされない。そのために机の上や床が結構汚い状態なのだ。健康面に実害が出るほど汚いわけではないが、潔癖症の人間が見たら悶絶するくらいの汚さをしている。


「別にまだ気にならないし、いいかなあって。」


「気にならないとかの問題じゃないんだよなあ。掃除の当番お前だろ。」


「そうだっけ。」


「…はあ。またやっとけよ。」


とぼけているのか本心からの疑問なのか判別できない反応に呆れながら、俺は菜名宮の前の席に座る。


菜名宮の方はといえば、おにぎり片手にタブレットを覗き込み小難しい顔をしていた。


「日本人とアフリカの人じゃあ、識字率がまるで違うみたいだね。」


パンの袋を開けた時、菜名宮は突拍子もなくそう呟いた。その視線はタブレットの方から動かない。


「いきなりどうした。」


「今、各国の教育状況のグラフを見てて気がついたんだよね。アフリカとか他にも一部の国では、著しく文字を読める子供が少ないらしい。」


どうやら菜名宮は、アフリカの識字率に書かれたニュースを読んでいるようだ。iPadをスライドさせながら、時折眉を潜ませている。


「ほんといきなりだな。」


なんの脈絡もなくいきなりそんな話題を切り出した菜名宮に眉を顰める。


「アフリカじゃ、多くの地域で教育がまともにされていないから仕方がない。ほとんどの家庭は学校に子供を通わせるお金がないほど貧困で苦しんでいるし、そもそも子供が貴重な働き手となっているなら尚更学校に行かせようなんて思わないだろうな。」


「子供が働き手、ねえ。日本じゃ考えらんないな。」


相変わらずタブレットから視線を離さず、画面をしっかり見続けている。食事中に電子機器触るなって言いたいが俺も家ではよくしているのでなんも言えない。


「何をしようかな。」


手を顎の下に当てて、菜名宮はまるで探偵のように考える仕草を取っていた。


おそらくほとんどの人はこの言葉の意味が瞬時には理解できない。いきなり何言いだしているんだ、となるだろう。


ただ菜名宮とそれなりの時間を過ごしてきた俺はすぐにその意味を理解した。


「手っ取り早いのは現金の寄付か、教育資材を送るとか。現地でのボランティアなんてのもあるけど、お前が行くにしては知識も時間も足りないからな。」


「なるほど…なら教科書を送ろうかな。」


「あてはあるのか?」


「ない。けど準備するよ。どこに送るのがいいかも調べなくちゃいけないね。」


そう言いながら、菜名宮は手に持ったタブレットになにやら打ち込み始めた。


菜名宮という人間は、何よりも弱者のために行動する人物である。誰かが困っているのを見つけたらすぐに助けに行くし、困っている被害者がいればどんなに身を払っても解決しようとする。


例えばこうして貧困に悩んでいる人がいたとして、多くの人は「そんなことあるんだ」と関心を抱く程度だろう。一部の人は「何かできないか」と考えたりして、さらにごく一部の人は募金や支援なんかの方法を調べるかもしれない。俺だって多分、せいぜい何かできないかと考える程度だ。


ただこいつは違う。困っている人の存在を知れば、菜名宮はすぐに助けに向かう。例え自分の手が届かない場所でも、必ずどうにかして救い出そうとする。


菜名宮には考える時間など存在しない。困っている人がいればただ助けようと動き出す。それはもはや本能の域に近い。


菜名宮が多くの人に好かれる要因には、人のピンチに手を伸ばす優しさがあるだろう。いつも明るく思慮深い活発な少女は、普通の人よりも桁外れたヒーロー気質を持っている。


それだけではただの優しい人間である。目の前に助けを求めている人か、あるいは立場的に弱いものに対していつでも、すぐに手を差し伸べるその優しさは度が外れているとは思うが、この世にそんな人が全くいないわけではないだろう。


ボランティアや被災者支援に参加している人なんて、全員ではないだろうが、それでも大半の人は心の中にある優しさからそんな活動をしているだろう。


しかし菜名宮が異常である所以は、少なくとも高校で多くの時間を過ごしてきた俺から見て確定的である、弱者に救いの手を差し伸べるという点だけではない。


「それにしても、どうして子供が働かないといけないような環境なんだろうか。」


「また唐突だ。…実際、難しいな。こういった問題は要因が多くて複雑だ。何も単純な理由でそうなってるわけじゃない。」


「パッと思いつくのは産業の格差、教育者の不足、貧困問題くらい?似たり寄ったりだけど細かく見ていけば違うよね。」


「大まかなのはそこらへんだろうな。先進国と比べれば何もかもが足りていない。」


「貧困問題にしろ教育者の不足にしろ、大概な問題だよねえ。根本的に解決することが必要なことばっかりだ。」


菜名宮はベッタリと頭を机の上に置き倒れ込む。漫画のキャラが、夏の暑さに打ちのめされて溶けているみたいな体勢だ。


「一朝一夕で解決できるなら、とっくにこんな問題は消えている。未だに残っているのはそういうことだろ。」


「どこが悪いかって言われてもパッと思いつくわけじゃないよねえ。強いていうなら人類の歴史が悪いかな。」


「スケールがでかすぎる。」


俺のツッコミに反応することもなく、菜名宮はタブレットをいじり続けている。というかさっきからこの子一度も目合わせてくれないんだけど。ずっとタブレット見ておにぎり頬張ってる。嫌われてんのかな。


とまあ、そんな冗談(であってほしい)は置いておく。


先ほどから菜名宮は貧困に喘いでいる存在を救う方法を考えて、その原因を探していた。菜名宮六乃の異常性は、人間性は、そこにある。


菜名宮は立場の弱いものに寄り添い救おうとするが、それと同時に、絶対的に立場が弱いものが生まれる原因を、悪の存在を許さない。誰よりも誰かが理不尽な状態にあることを、意味もなく罰を受けることを許さないのだ。


その原因が何であろうとも牙を向ける。菜名宮のそんな行動は一見無茶苦茶に見えるものばかりだ。

こいつは絶対的な存在を疑うことにも容赦がない。


一見安泰に見えるグループでも、上手く運営されているように見える組織であっても、誰かが虐げられていないか、損をしていないかと疑念を持つ。


菜名宮は生まれながらにして何かに刃向かい、絶対的なものを疑い、争うモンスターである。


菜名宮六乃という人間を最も適切に表すなら、革命家という言葉が相応しい。常に弱者を救い、悪と戦い続け、悪い現状ならすぐに改善しようとする。その信念はもはや狂気の沙汰と思えるほどだ。


そうして俺は菜名宮という人間に何度迷惑を被ったかわからない。菜名宮の活動にどれほど巻き込まれたか…思い出すだけでで頭が痛くなってくる。この頭痛を理由に早退しようかな。


菜名宮は未だタブレットを覗き込んでいる。時計を見ると昼開けの授業がもう始まりそうな時間帯だった。


「早く教室戻ってこいよ。」


「はーい。」


俺は鞄を手に取って会議室の3を後にすしたり菜名宮は校内でも有名人ではあるが、菜名宮と俺の昼休みのこうした過ごし方はあまり知られていない。


おそらく昼休みが始まった瞬間、教室を出ていく菜名宮の姿は多く目撃されているだろうが、その後に教室をそそくさと出ていく俺の姿を認識してる奴なんて多分ほとんどいないからだ。


ていうか認識されてても「教室でぼっち飯はいたたまれないから別の場所行ってんだな」くらいに思われてると思う。だから別に泣いてなんか(ry


だがまあ、俺にとってはこの空間を知られないことは色々と都合が良い。そのために俺は菜名宮よりも早く教室を出る。


ヒューヒューと、春風がが窓を揺らす音がする。特別校舎だからだろう、窓の立て付けが悪くガタガタと時折聞こえてきた。


先ほどのタブレットを真剣に覗き込み、何かをずっと思案している菜名宮の姿を頭に思い浮かべる。やはりあいつは異常だと改めて思った。




俺が教室に戻ってしばらくすると、授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。確か次の時間は化学だ。正直、結構苦手な授業である。


チャイムが鳴り終わって少し経っているが、先生はまだ来ない。授業が始まっていないのをいいことにクラスの奴らは周りの人間と話し始めている。ざわざわ、ざわざわとまるで某ギャンブル漫画のように、話し声はヒソヒソと大きくなっていく。


しかし教室が話し声に満ちたのも、ほんの一瞬であった。


ガラン、と教室のドアが開く音がした。その音と共に教室も俺も一気に静かになる。


いや、俺は元々静かだったな。


コツコツと甲高いヒールの音を立て、カーディガンのような上着を袖を通さず見に纏った先生が教卓の前に立った。


まるで獣のように獰猛な目を向け、眉を顰めて怒りを露わにしている。しかしその雰囲気さえ、まるで美しさの一部と感じさせるような顔立ちを持つ化学の教員、朝顔夏目は教室を見回している。


「諸君、授業が始まっているのに雑談というのはいただけないね。予鈴が鳴っているのを聞いていたなら、前回の予習や復習をしておくべきだろう。」


いの一番に朝顔先生はそう言った。教室全体の生徒を威圧するような、鋭い視線で生徒たちに視線を配る。


何かが体の中から突き刺さったような冷たさが背中に走った。周りの生徒も視線に気押されているのだろう。教室に妙な緊張感が流れている。


「今回は例外的に認めるが、次回もこのような状況だった場合少しペナルティを与えることも検討する。教科書78ページを開きなさい。」


先生は体を180度捻って黒板の方を向いた。体の動きに少し遅れて、身につけていたカーディガンがひらりと舞う。朝顔先生はチョークを取り出して、板書を始めた。


朝顔先生の視線が逸れたことに少し安堵したのか、辺りのクラスメイトも多少は落ち着いた様子で教科書を開き始めている。


…いや、なんで俺たちだけ悪いみたいになってるんですかね。なんかまるで雑談しているのがダメみたいな雰囲気じゃねえか。


まあ授業中に雑談するのはこの国では良くないことだけどさあ、朝顔先生も堂々と遅刻してるんだよなあ。しかも3分。結構長くね?


全く汗かいてないから走っても来てなさそう。しかも次回からはペナルティってなんだよ。

先生昨日もだいぶ遅れてたし遅刻は今年だけでもう5回くらいしてるんじゃないかな。なんだよ次はないって。その場合朝顔先生もうダメじゃん。


ていうかなんで遅れておいて堂々と教室に入ってくるんだ、せめて時間ギリギリなら急いでる雰囲気だけでも出してくれ。


なんで汗水ひとつ垂らしてないんだよ。教卓の前であんなに凛としているのってめだかちゃんと朝顔先生くらいだろ。それともあれか、日本でよくある重役出勤ってやつか?まあ確かに先生って結構歳言ってるよな。確かもうすぐ


「何かあるか篠末。」


「いえ、何も。」


教科書を手元に開き、今日の単元のページを黒板に書いていた朝顔先生は、急にその手を止めた。

さっきまで黒板の方に向いていたはずなのに、なぜか視線は俺の方に注がれている。一応、窓際の後ろの方の席なんだけどな。なんでこっち見るんだ。


「余計なことを考えていないだろうな?」


「いや、全然そんなことないですよ。」


「杞憂だったか…しかし、教科書を開けていないのはいただけないな。授業は集中して聞け。」


朝顔先生はまた黒板のほうへ立ち直る。コツコツと、黒板に文字を連ねる無機質な音がまた教室に響いた。


俺は授業前に出すだけ出しておいて、置きっぱなしにしていた教科書を手に取る。先生の方をこそっと伺いながら、先ほど指定されていたページを開いた。


先生ってもしかしてエスパーなのか?なんであんなに生徒がいて俺を直接指名してきたの?なんで余計なこと考えてるってわかったの?怖すぎるだろ。


今度から先生の前では変なこと考えない方が良さそうだな。


「であるから、炭酸ナトリウムの濃度は〜」


授業時間の半分が過ぎた頃、朝顔先生によって黒板に書いている計算式の解説がされていた。俺は話半分で耳に入れながら、時計をぼーっと眺めている。


ぶっちゃけかなり眠たい。別に退屈ってわけではないし、化学は苦手ではあるが嫌いな科目ではない。ただそれはそれ、これはこれだ。よほど集中していたり、あるいは好きな教科でもなければお昼上がりの授業ってだいたい眠くなってしまう。


なんなら5時間目が体育の時でも眠くなることあるからな。大体2人組作ってという流れになって、ペアが作れないため、1人でやってる風出しておいていつも見学している。端の方で目立たないように突っ立っていると、単純に眠たくなる。というか先生が授業の方に集中してるなら思いっきり寝てる。バレてなけりゃサボっても大丈夫だ。


しかし化学の授業では寝ることができない。なぜなら朝顔先生は寝てる生徒にはしっかり注意するタイプであり、いくら上手く隠しても寝てるとすぐ見つけてくるからだ。


この前なんかがチョーク飛んできたからな。某忍者アニメのなんとかかんたろうで土○先生がやってるやつ。アニメとかマンガとかでよく見るヒューンって投げてるやつ。


あんなの実際にやる人なんていないと思ってたんだけど、朝顔先生は実際にやる人だった。しかも最前席から窓際の後ろの席で爆睡していた俺にクリティカルヒット。なんであの距離で俺の頭に当てられるんだ。もうチョーク投げ選手権あれば先生が世界一でいいよっていうくらい正確だった。


とにかく化学の授業中に寝るのは物理的に不可能だし、先生が許してくれないので仕方なく目を覚ましているというわけだ。


「じゃあ、2番を誰かに答えてもらうか…そうだな。篠末。」


ぼーっと時計と睨めっこをしていると、教科書を手元に開いた朝顔先生に指名された。黒板に書いてある問題を解けということらしい。


「あ〜えっと、27ですかね?」


黒板に書かれている問題は、今日の授業でやった内容でありそんなに難しいものではない。


「正解だ。眠たそうにしていたが、ちゃんと授業は聞いているようだな。」


「ええ、まあ。」


俺は曖昧な返事で返す。眠そうなことすら見破られてたんだけど。もうなんだよあの先生。


「じゃあ次の3番を…菜名宮、答えてくれるか?」


俺はその単語を聞き、視線を右隣に向ける。


「…って、いないじゃないか。あいつどこに行ったんだ?」


後ろを軽く振り返れば、そこにいるはずの菜名宮の姿はどこにもない。昼前までは授業を受けていたはずだ。


あいつまたサボってるのか。さっき会議室を俺が後にした時、菜名宮はまだ残っていた。もしかすると今もまだあそこにいるのか?


朝顔先生は呆れたように小さくため息をつく。


「またあいつは欠席してるのか。仕方ない。じゃあ3番を…前の篠末、答えてくれ。」


「は?」


思わずそんな反応をしてしまった。なんでだよ。


「篠末、3番の答えは?」


朝顔先生は問題が書かれた黒板をトントンと叩く。有無を言わせず答えさせようとする圧力がすごい。

なんで?こういう時、近くの人当てるのはわかるけどなんでもう答えた奴にまた当てるんだ。せめて別の人当ててくれよ。


しかもその問題、多分だけど俺が聞いてなかったところだ。だって記憶がない。多分睡眠と一番格闘していた10分前くらいにやってたところだと思う。


「なんだ、わからないか?」


俺が黙っていると、朝顔先生がまた圧をかけてくる。今どきそんなパワハラ良くないと思うんですけど。


「…すみません、わからないです。」


「やっぱりちゃんと聞いてなかったな?授業には集中しておけ。」


「はい。」


俺の返事を聞くと、先生は振り返って問題の解説を始める。先ほどのやりとりを見ていたのか、あたりの生徒もノートを真剣に取りながら授業を受けている。


先ほどまで爆睡していた3つ隣の石田も、今は真面目に教科書を覗き込んでいた。なんで俺だけバレるんですかね。あと石田、教科書反対だ。今時そのボケは流石に流行らない。


そんな教室の様子を眺めてから、俺は視線を後ろに移した。世間一般で主人公席なんて言われるそこにはもちろん菜名宮の姿なんてなく、机の上も綺麗さっぱりしている。


ていうか何もない。いつも菜名宮が机の横にかけているハンドバックすらなかった。俺の席からは見えないが、多分机の中にも空っぽだ。


今日の午前中にはあったはずなんだけどなあ…菜名宮の奴、帰りやがった。おそらく昼前に荷物を全て回収して会議室3から直接撤退していったな。


相変わらず菜名宮という人間は恐ろしいほど自由である。授業はほとんど遅刻するし、そもそも結構休むし、学校に来たとしても早退する。


良い言い方をすれば自由だが、要はただのサボり魔だ。高校になってしばらく経つが、いまだに菜名宮のサボり癖が治ることはない。


そこにいない菜名宮の姿を思い浮かべ、俺は大きなため息を一つついた。




「篠末、少しいいか?」


なんとか地獄の5限を終え、次の授業の準備をしていると、朝顔先生が俺の席の元にやってきた。え?なんで?さっきの授業のこと?


「すみません、許してください。」


とりあえず謝った。先に謝っておいて反省の色があることを見せれば先生も強くは言えないと、そんな打算があった。というかそんな打算しかない。多分授業で寝かけたことだろうし。


「さっきの件ではない。まあそれはそれで問題だが、また別件だ。」


しかし返ってきたのは意外な返事であった。なんだ、授業で寝かけたことじゃないのか。


朝顔先生は呆れたようにため息をつく。にしても先生さっきの授業からため息ついてばっかだな。教師って仕事は大変らしいね。その原因が俺であるかもしれないという考えはどこかに投げ捨てておいた。


「じゃあなんですか?」


「ここでは話せないことだ。放課後、職員室に来てくれるか?」


「嫌と言ったらどうなりますか?」


「明日、お前は退学になっているだろうな。」


「わかりました…行きます。」


この先生はどんな権力持ってるんだよ。一教師が持っていい権限じゃないだろ。


正直めんどくさいと思いながらも、流石に退学にはなりたくないので、俺は渋々職員室に放課後向かうことにした。




俺は割と昔のドラマを見たりする。昭和世代に放送されている学園ものだったりすると、職員室では教員がタバコを当たり前のように吸っている光景が広がっている。


職員室は端っこの方が煙たい場所で、一部の生徒が職員室に行くのを嫌がる理由になっていることもある。でも実際、今の時代になると受動喫煙やらなんやらで、職員室でたばこを吸うような先生はほとんどいない。


そもそも業務中に吸うのが怠慢だとか、生徒への影響を考えてやらで、昔のドラマのようにタバコを職員室で吸うことが問題になっているのだ。まあ吸わない側からしたらタバコって迷惑だからな。


今現在、俺は職員室の端の方にある応接スペースのソファに座っている。先ほど朝顔先生から放課後に呼び出されたため、帰りたい欲を我慢してここに来ているのだ。


辺りを見回すと、部活や授業の準備をしている先生たちが忙しなく動いているのが見える。ガヤガヤとした話し声は聞こえないものの、書類をめくる音やコピー機が動く音なんかは、教室の喧騒にほんの少し似ている。


視線を前の方に戻せば、目の前のソファには誰も座っておらず外の景色が見える。数年ほど前には喫煙所だったらしいスペースで、朝顔先生は棒の飴を咥えながらスマホを眺めていた。


なんで人を呼び出しておいて自分はサボってるんだ流石に職員室内でサボってたらまずいと思ったのか

他の先生からは見えにくいところにいるが、そういう配慮ができるなら人を待たせない配慮をしてほしい。


ていうかあの手の動き方、多分スロット打ってるな。本当に何してんだよあの人。業務時間外だからセーフじゃねえよ周り働いてるだろ。


しばらくすると満足したのか、朝顔先生はポケットにスマホをしまうと、大きく背伸びをする。リラックスしているだけなのにも関わらず、


朝顔先生の姿はひどく様になっていた。さすが顔とスタイルだけはいい先生のことだ。まるで一枚の完成された絵のように、美しい姿と構図だ。


朝顔先生はしばらくすると満足したのか、外から職員室へと戻ってくる。カツカツと甲高いヒールの音を鳴らしながら俺の姿を確認すると、小さな袋をくしゃくしゃと胸ポケットにしまった。


「なんだ、もう来てたのか。」


「もうって15分くらい待ってましたけど。」


「そうなのか。全く存在感がなかったから来ていないかと思ったぞ。」


「先生が生徒に言っちゃいけない言葉でしょそれ。」


「他の奴に言うはずがないだろう。お前だけだよ。」


「そんな特別いらなさすぎる。」


「お前以外の生徒はしっかりと存在感があるからな。そもそもこんなこと言わないよ。」


「もっとひどくなってるんですけど。」


朝顔先生は俺の前に腰掛ける。肩にかけられたカーディガンがソファの背面の上に乗り、くしゃっとなるが、まるで気にしていないかのように朝顔先生は切り出した。


「さて、急に呼び出して悪かったな。」


「本当に突然すぎてびっくりしましたよ。」


「私からのサプライズは嬉しかったか?」


「いや全然です。突然来ていいのは気になってるあの子から急にかかってくる着信だけでいいですよ。」


「そんな着信、君に来たことあるのか?」


「ないですね。そもそもほとんど人と連絡交換してないですから。」


そもそも連絡先の交換なんてする必要がない。クラスの奴と連絡取る必要がないからな。通知がうるさくないのはメリット。デメリットは時折めちゃくちゃ虚しくなることだけど。


「まあ、だろうな。」


朝顔先生は俺を馬鹿にするようにフッと嘲笑した。


「もしかしなくても馬鹿にしてますよね?」


「馬鹿にしているたもりはない。篠末らしいと思っただけさ。」


「俺らしいってどういうことですか…」


「そのままの意味だよ。」


俺らしいという言葉の意味がわからず、朝顔先生に質問したが、帰ってきたのは返事になっていないものだった。これ以上聞いても無駄だと思い、話を追求するのをやめる。


朝顔先生は改めて俺に向き合うと、さて、と話を切り出した。


「今回呼び出した件だが…端的に言えば篠末、君の力を借りたいんだ。」


「それはまたいきなりですね…俺の手を借りるってどんな要件ですか?」


「まあいきなり結論だけ伝えても意味不明だな。順を追って説明しよう。」


ふう、と小さく朝顔先生は息を吐いた。かすかに柑橘系の甘い匂いが辺りに広がる。先ほど食べていた飴の匂いだろうか。


「うちのクラスにいる雛城って知ってるか?」


「そんな人いましたっけ。」


頭の中で雛城、という名前に心当たりがないか探してみるがそんな名前に覚えはない。というかクラスメイトの名前半分くらい記憶がない。石田はめちゃくちゃ寝る奴だから覚えてただけだ。


「相変わらずだな…と言いたいところだが、今回は仕方ない。篠末でなくとも、覚えていないのは割と不思議でないかもしれないな。」


「俺でなくともってどういうことですか。」


「雛城はな、2年になってほとんど教室に来ていないんだ。」


スルーですかそうですか。朝顔先生って段々俺への辺りが酷くなってる気がするんだよな。初めて会った時こんな感じじゃなかっただろ。


「たまに来てもほとんど授業を受けずに帰ってしまう。1年からそもそも素行の悪さが目立つ生徒ではあったが、2年になってからはひどくなっている。」


先生は頭に手を当て顔を顰めている。あまりにも苦しそうな顔から、先生が苦労しているのが容易に想像がつく。


「どうやら親御さんとも折り合いが悪いようでな。たまに家に帰るのが遅いこともあると伝えられたよ。」


「なんというか典型的な非行学生って感じですね。」


「言ってしまえばな。教師陣もその振る舞いを注意したり、何度か話し合いの機会を設けたんだが結局ほとんど効果がなかった。」


「なるほど…それで、なんで俺が呼ばれたんです?」


俺が最初から持っていた疑問を改めてぶつける。すると先生は案の定というか、俺が予想していた通りの回答を突き出してきた。


「簡単な話だ。雛城を更生させてほしい。」


「更生って…具体的に何をすればいいんですか。」


「普段の素行の改善であったり、授業のサボり癖をどうにかしてほしいんだ。」


「…いや、何で俺なんですか?」


「こんなことを頼めるのが篠末くらいしかいないからだよ。」


朝顔先生はさも当たり前のようにそう告げるが、それに対し思わず鼻で笑ってしまった。


「俺しかって言いますけど…今回の案件に関しては俺、むしろ向いてないような気がするですけどね。」


「ふむ?」


「だって一番近くにいる奴がまともに登校してないんですよ?」


そんな事を言いながら、頭の中に浮かぶのは菜名宮の姿だった。今朝遅刻しながら教室に入場し、そして昼頃相対した隣人のことを思い出すとそれだけで頭が痛くなる。


「ははっ、確かにな。」


「でしょう?それに生徒の更生なんて、俺には到底無理ですよ。なんせクラスメイトとまともに話すことすら堪らない。」


「自分で言ってて悲しくならないのか?」


「結構辛いですね。」


自信満々に言ったけど、実のところは悲しい。自分が人と話すのが得意ではないのは事実だが、それを自覚するのはなかなかきついのだ。


「だから、俺には無理ですよ。その雛鳥?とかいうやつの更生なんて。」


両手をあげて自分にはできないと先生にアピールする。非行学生を更生させるなんてアニメ的な展開も、現実でできる奴なんてほとんどいないのではないか。


少なくとも俺は確実に無理だ。俺はクラスの不登校児を学校に通うように説得する熱血教師ではないし、心に訴えかけるラノベの主人公でもない。ただ一人のありふれた高校生である。悪い素行が目立つ生徒の更生なんてできるようなタマじゃない。


「ふむ…困ったな。」


朝顔先生は顎に手を当て考え込むような仕草を取った。ほんの少し眉間に皺が寄っている。


一見すれば問題解決の頼みの綱がなくなり、次の手を考えているように見えるだろう。


しかし俺はそんな仕草を見て、思わず苦笑してしまった。なぜなら悩んでいるようなポーズを取っているように見えて、朝顔先生の口元が笑っていたからだ。


その表情を見た時点で、この後の展開が容易に想像できてしまう。決して心を読む能力なんてオカルトめいたものではなく、ただの経験則から来ている想像だ。


「ならば依頼の仕方を変えようか。」


朝顔先生はきらりと口元に星が出ているかのような、素晴らしい笑顔をしていた。


「同じ要件を菜名宮六乃に頼もう。篠末は菜名宮に掛け合ってくれるか。」


「でしょうね…」


「なんだ、不服か?」


「いえ、もう想像してた通りだったんで笑っちゃっただけです。」


おそらく朝顔先生は鼻から俺がこの件に対して首を縦に振ることを考えていなかっただろう。絶対に俺が拒否する事を想像していた。


朝顔先生が本当にこの件を依頼しようとしていたのは、おそらく菜名宮だ。あいつなら、こんな無茶でも引き受けてしまう。なぜならば菜名宮には可能だからだ。


俺は人の心を動かすような力もなければ、そんなやる気もない。正統派主人公のように、どんどんと周りを味方につけていくようなカリスマ性なんて持ち合わせていない。


しかしそれはあくまでも俺の話だ。後ろの席の菜名宮ならまた話は変わってくる。先生もそれを理解しているのだろう。


「まあ君はわかっていたのだろうな。実際、この件は菜名宮に依頼しようとしていた。」


「いっつも思いますが、朝顔先生の依頼の仕方っていちいち回りくどいですよね。」


「これしか手段がないからな。菜名宮はまず教師の呼び出しに応じない。話があると言っても職員室には来ない奴だからな。それに我々の話は基本的に耳に入れたがらない。」


「まあ菜名宮って自由人ですし。」


「よくわかっているじゃないか。あいつは教師の話を聞くことはないが、なぜか篠末の声には耳を傾ける。だから君にこの話をする必要があった。」


菜名宮はいつも自由気ままな奴だ。割と自分の都合でずっと過ごしている。自分の時間を捻じ曲げられるのが大嫌いで、教師の引き止めには応じない。


おそらく授業を休む時も、菜名宮は自分がやるべきと信じた事をやっているのだろう。そんな時、授業はあいつがするべき事の妨げになっている。だから菜名宮は授業を時々サボっているのだ。


「一度篠末に依頼をして断られた場合には、菜名宮に依頼してもらうように声をかける。こうでもしないとあいつは動かない。」


ふっと軽く朝顔先生は笑った。菜名宮という生徒の扱い方を心得ている。


「そうですよねえ、なんてめんどくさい。」


俺は両手を広げ口端を少しだけ歪ませた。


「というわけだ、篠末。菜名宮に話を通してくれるか。」


はあ、とため息が溢れ出る。もう俺がするべきことが決まってしまった。


「わかりましたよ。菜名宮に声をかけておきます。」


「協力感謝するよ。」


朝顔先生はさっきよりもわかりやすく、笑っていた。





同日夜、家に帰った俺は荷物を自室のベットの横にほっぽり出すと、ポケットからスマホを取り出す。普通ならスマホは学校の時間はカバンに入れておかなければならないのだが、俺はいつも制服の腰ポケットに常備している。それは、スマホがいい暇つぶしの道具だからだ。


辺りが雑談に耽っている中、授業中の休み時間は大抵寝てるかスマホ触ってるフリして過ごしている。大抵菜名宮は隣にいないことの方が多いし、クラスで他に喋るような奴もほとんどいない。だから休み時間の過ごし方は決まっているのだ。


腰を落としてベットにもたれかかると、通話アプリを開く。スクロールする意味がないほど少ない、友人の欄の一番上にある名前をタップし着信をかける。2コールする前に相手は電話を受け取った。


「どうしたの、タキ?」


電話の主、菜名宮は携帯越しでもわかるくらい透き通った綺麗な声をしていた。


「いきなり電話してすまんな。今家か?」


「うん、自室でゆっくりしてる。」


「いつ帰ったんだ?」


「お昼くらいかな。化学の授業でタキが寝かけていたくらいには家に着いてたよ。」


やっぱりこいつ昼の間に帰っていやがった。机に荷物なかったし、授業結局来なかったからまさかと思ったが案の定だ。


「なんで俺が化学の授業で寝かけてたの知ってるんだよ。」


「タキのしそうな行動なんてなんでもお見通しだけど?」


「怖すぎるだろ。」


朝顔先生といい、俺の周りにエスパー多すぎない?

それかもしかして監視でもされてる?だとしたら相当暇人だなそいつ。


「んで、どうして私に電話かけてきたのかな。人肌恋しくなった?」


「なんでそんな解釈になるんだ。」


「寂しいなら私はいつでもタキの元へ駆けつけるよ。」


「いや大丈夫です。」


「本当に大丈夫?私にできることない?」


「心配の仕方が確実に悪い男に捕まる人タイプの奴だな。」


なんかこんなキャラクター、昔妹が見てたアニメであったような気がする。深夜帯に放送してた奴だ。何気なく録画番組の一覧から見てみたらめっちゃ後悔したやつだ。


「私はいつでもタキの味方でいるからね。何かあったら言って。力になるよ。」


「今月金で困ってて…少し貸してくれない?」


「えっと…どのくらい?」


「5万くらい貸してほしいな。」


「…仕方ないよ。タキ、今月で3回目だけど、お金返せそう?」


「いや…少し厳しいかもしれない。」


「返せそうにないの?」


「俺は、ずっと夢を追って行ったいんだ。そのためにはどうしても必要なんだ」


「なら仕方ないね…タキの夢のためだもん。」


「お前絶対将来変な男に引っかかんなよ。」


こんなにも模範的な、ダメ男に尽くす女性のマネができるのが恐ろしい。


「今のは結局3年くらいして男の方から愛想尽かされて何もかも失う女性の真似。」


「似過ぎているし状況がリアルすぎて怖い。」


「はははっ、どうもありがとう。」


「変なところで変な力見せないでくれ。」


画面越しに、菜名宮がケラケラと笑っているのが聞こえた。

俺は伸ばしている足を動かして交差させる。同じ体制でずっと過ごしていたため、ちょっと足が痺れていた。


「それで結局要件は何?話逸れまくってるけど。」


「誰のせいだと思ってんだよ。」


「他でもない私だね。」


「よくお分かりのようで。」


どうやら自分から話を逸らした自覚はあったらしい。


「私賢いからね。」


「はいはい、そうだな。」


「少なくともタキよりは賢いのは本当だよ。この前の定期テストが証明している。」


「…この前のテスト何位だったんだ。」


俺は少し間を開けて聞く。


「2位〜」


電話越しから、少し笑いを含んだ声が聞こえる。勝ち誇っているしている菜名宮の鮮明な姿が浮かんだ。


「はあ…何で学校には来ないのにそんな点数取れるんだよ。」


「だから言ったじゃん、賢いって。少なくとも私より上にはタキの名前がなかったから私の勝ちだ。」


実際、菜名宮は俺に定期テストの点数で勝っていた。ちなみに俺は確か3桁前半くらいだった。半分よりは上だけど、別にすげえ〜ってなるわけでもないマジで微妙な順位。これでも一応前よりは上がってるんだけどな。


「というか、この前のテストそもそも受けてたのか。お前いなかったような気がするけど。」


「受けてたよ。5日間とも30分くらい遅刻したから別室でだけど。」


「なんで当たり前のように遅刻してんだよ。」


テスト期間中でさえ毎日遅刻できるのはもはや才能なんじゃないかな。というか菜名宮って遅刻してない日あるの?


「テストを受けただけでも褒められるべきじゃない?」


「だからお前は何様なんだ。」


「他の誰でもない菜名宮様だよ。」


菜名宮は自信満々に語る。だが実際、よく考えたら毎日遅刻してるのにテスト2位って結構高い。割と化け物じみた順位である。これは確かに菜名宮様だが、でもこいつのことは絶対様付けしたくない。


「じゃなくて!菜名宮に話があるんだよ。」


なんで菜名宮の成績の話になっていたんだ。さっきから全然関係ないことばっか話してる。


「話逸れまくってるから全然本筋に辿り着けない。」


「誰のせいだと思ってんだよ…本当に」


「他でもない私だね。」


「流石に本題に入ろうぜ。この流れさっきも見たぞ。」


「OK」


なんかこのままだとまた同じように話が逸れそうな気がした。ここら辺で軌道修正かけておかないとまずいと判断した。無限ループって怖くね?


「今日、朝顔先生に呼び出されたんだよ。職員室に連れ出されてさ…」


俺は、菜名宮に今日あったことを話しだす。画面の向こうの菜名宮はふんふんと頷いている。


「お前は雛城って奴のことは知ってるか?」


「知ってる。雛城芽衣奈ちゃんでしょ?同じクラスにいるよ。」


「知らんけど多分そうだな。」


菜名宮はやはり雛城のことを知っていた。一応同じクラスであるし、いくら授業にほとんど来ていないとしても菜名宮が知らないはずもない。


「知らないって…相変わらずだね。」


「興味ないからな。」


電話越しに菜名宮が笑う。ただ今度は先ほどのとは違い、どちらかといえば呆れているように聞こえる。


「1年の時から結構問題児で、授業にもめったに出ないから、先生に目をつけられている子だよ。最近じゃそれが当たり前になっちゃってるから、先生も声をかけることが少ないらしいし。」


「自己紹介か?」


「芽衣奈ちゃんのことだよ。私と芽衣奈ちゃんは全く違う人間だよ?」


「今の説明聞いてる限りだと、お前の特徴と完全に一致してるんだけど。」


「どこが?」


「全部だよ。」


「嘘だあ。」


さっき聞いた雛城の説明、完全に菜名宮の特徴と一致しているんだけど。遅刻魔だし、授業出ないし、先生に見逃されてる。こんなに完全一致してることそうそうないだろ。それともあれか、雛鳥とかいう奴は実は菜名宮だったりすんのか?


「んで、芽衣奈ちゃんがどうしたの?」


「ああ、その雛鳥とかいう奴についてなんだけどな。簡単に言えば、朝顔先生から更生させてほしいって俺に依頼が来たんだ。」


「ふーん。」


あえて、俺にの部分を強調させて言った。

本当は菜名宮に頼もうと思っていたと朝顔先生は言っていたが、ここで事実を言ってしまうと意味がない。こうでもしないと菜名宮のやる気を引き出せないことを知っている。


「でも、俺にはそんなこと無理ですって言ったんだよ。」


「そりゃそうだろうね。タキだし。」


いちいち菜名宮の相槌は腹立たしいものだ。でも事実なだけに何も言えないんだよな。少なくとも俺に朝顔先生の依頼を何とかできる未来は見えないし、そもそも雛城に会うことする無理かもしれない。


「…まあいいか。そんで、そしたら朝顔先生は同じ依頼を菜名宮に頼んで欲しいって伝えられたんだ。」


「そういうことね。とりあえず要件はわかった。」


様子を見る限り、菜名宮は事の次第を理解したようだ。また少しの沈黙をおいて、声が聞こえる。


「とりあえず、芽衣奈ちゃんの今の状況を改善しすればいいんだね。」


「だいたいそんな感じだと思う。俺も詳しいことはわかんねえけどな。」


「まあわかった。先生の願いを叶えようか。」


菜名宮の声には一切の躊躇がなかった。その返答は、やっぱり俺が予想していたものだ。


決して長い期間付き合いがあるというわけではないが、それでも菜名宮は、朝顔先生の依頼を受けないなんて選択肢にはないと思う。


「よくそんな即決できるよなあ。先生の依頼内容ってめちゃくちゃ抽象的じゃないか?具体的に何すればいいか決まってるもんじゃないのによ。」


更生、なんて言葉の定義はあまりにも曖昧なものだ。帰宅途中に調べた意味なんかでは、もとのよい状態にもどること。或いは役に立たなくなったものに手を加えて利用すること。という意味があるらしいが、あくまでも辞書的な意味である。


結局どうすれば『更生した』ことになるのか、明確になっていない。いわばゴールが全くわかっていない状況なのだ。


終着点が見えなければ、モチベーションは当然下がってしまう。何をするのが正解なのか、どこまで行けばタスクを完了したことになるのか。目標がわからなければ、自ずとやる気は無くなっていくものだ。


しかし菜名宮に関しては、この問題に興味津々である様に思える。


「だから朝顔先生は私にこの問題を回してきたんでしょ?何をすればいいか正解ってわからない事は、解決法は自由って事だよ。」


菜名宮の声は心なしか、ウキウキしているようだった。


「先生の立場じゃ、どうしても生徒にできることは限られている。朝顔先生だって思慮深い人だ。おそらく芽衣奈ちゃんを放置していたわけじゃないだろうし。ただ、どうしても教師という立場だと出来ることには限りがある。先生もあらゆる手を尽くして、それでもどうにもならなかったからこんな話を持ってきたんだろうね。」


「あの人が何もやってないとは流石に思えないしな。不登校…というより授業をサボり始めてからしばらく経ってるみたいだし。」


朝顔先生はああ見えて、生徒思いな先生だということは俺も知っている。


普通ならめんどくさいと思う俺や菜名宮に関わることにも全く躊躇がないし、他の生徒と分別することなんてほとんどない。授業に遅刻してくるし、課題は唐突に出すし、たまに俺の存在感を馬鹿にする。時々スマホでスロット打ってるし、性格は結構高圧的だ。最後の方だけ聞いてるとめちゃくちゃ悪い先生だな。本当にいい先生なのかあの人。


「だから私は私にしかできない方法を考えられる。どうやったら芽衣奈ちゃんのためになるのか。何をやるべきかわからない、じゃなくて何をやるべきかは決まっていないだけだよ。」


菜名宮の声には一切淀みがない。自分の考えに疑いの余地なんてまるでないとでもいいたげである。菜名宮のこういった発想は俺にはない。


先の見えない暗いトンネルをただひたすら歩き続けたとしよう。真っ暗で何も見えず、永遠に変わらない景色、そんな道を歩くことになったとすれば、俺はいつしかゴールは存在しないと思ってしまうだろう。


しかし菜名宮は同じ状況に陥っても、ゴールがあると、いつしか必ず洞窟の先に光があると信じて疑わないのだ。


進んでいけば必ずゴールがあると信じているというより、ゴールがあることを確信しているように、菜名宮は振る舞うことが多い。菜名宮の目には、暗闇の先のゴールが見えているのか、はたまた本当は何も見えていないのに見えているように振る舞っているだけなのか。


「決まっていないだけ、か。お前ならそう考えるか。」


「当たり前だよ。」


やはり菜名宮はどうしようもない奴なのだろう。思わず苦笑いをしてしまう。


「明日、早速芽衣奈ちゃんに会いに行こう。とにかく現状を知らなければ何も始まらないからね。」


「嫌だと言っても聞かないんだろうな。」


「もちろん。」


「はあ…我儘だ。」


「だって私だからね。」


電話越しに聞こえる菜名宮の声は、憎たらしいほどに明るかった。

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