書く上で気を付けている事

 私が近年読んだ長編で最も感銘を受けたのは、エレナ・フェッランテのナポリの物語だろうか。テレビドラマ化したのを一部分見ただけですぐに原作を読みたくなった。毎晩眠る前に読んでいたのだが、あまりに面白いので読了するまで大した時間はかからなかった。


 フェッランテは、「本というものはひとたび書かれたら、作者の必要など無い」*と発言しているが、それは書籍化しているプロの作家だから簡単に言えるのだと思う。


 このサイトのようにWebが媒体だと匿名ではあっても作家と作品が一体化しがちだ。それが悪い事だとは思わないが、完全に切り離すのは無理だと思う。ハートが多いか、PVや星が多いかなどが議論になるのはそういう事なのではないか。この問題は奥が深い。


 彼女は、自身の匿名性が最初からの条件であること、また名前を明かさないことが執筆の鍵であることを繰り返し主張している。これには全く同感で、だから自由な創作が出来るのではないかと、小説を書き始めてからさらに強く思うようになった。私は出来るだけこの自由を大切にしていきたい。


 どこまでがフィクションで、どこからが実体験なのかなど、作者にしか分からなくていい事だ。だだ私の描く女性たちが私の実体験の色に染まっているのはもちろん否めない。読者がもしそれを追求し始めたら、フィクションを書く意味が半減すると思うのだが、どうだろう。


 だが、そう言いつつ、私はエッセイを使ってところどころ種明かしをしている。矛盾しているが、エッセイを新しい視点で書くプロセスだと言っておこう。


 私が執筆中に考える事は、読者がどうしたら追体験しやすく作品を仕上げられるかということだ。だから今のところ小説を書く時はあまり細かい描写をしないように気をつけている。言葉が足りないのではないかと心配だが、読者の想像力に任せていい事と、そうでない事の区別を書きながら学ぼうとしている。

 

 これは他の作家がどうのという事ではなく私の考えだ。私は私というフィルターを通して見える世界を読者に楽しんでもらいたい。そのためにどういう工夫が必要なのか今模索しているところで、成功しているのか失敗しているのかはあまり分かっていない。


 ましてや、読者が読んで面白いのかどうかなどはっきり言って全く分からない。結局は人それぞれ感じ方や考え方が違うので、何を感じるのかは読者に任せるしかないのだと思う。





 *Once I knew that the completed book would make its way in the world without me, once I knew that nothing of the concrete, physical me would ever appear beside the volume—as if the book were a little dog and I were its master—it made me see something new about writing. I felt as though I had released the words from myself.


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 完成した本というものは、私なしでひとりでに世界に旅立っていくのだとわかったとき、あるいは、その作品のそばに私という具体的でかつ物理的な存在が決していることはないのだと悟ったとき

 ——まるで本が小さな犬で、私がその飼い主であるかのようだ——

 私は、執筆について新しい何かを発見した。

 あたかも言葉というものを自分の中から解き放ったような気持ちになったのだ。


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