第2話 禁忌の目覚め

 それからの日々、俺はただ黙々と働き続けた。


 誰に認められなくとも、努力をやめることだけはしたくなかった。

 どれほど蔑まれ、どれほど拒絶されても、俺はヴァルネスト家の長男であり、この領地を支える一人であることに変わりはない。


 夜明けとともに机に向かい、書類を読み、政策を立案した。昼には農地や交易路の報告を確認し、夜は領民からの請願書に目を通した。

 誰も褒めない。誰も感謝しない。けれど、それでいいと思っていた。


 俺の隣には、いつもリヴがいたからだ。


 彼女は俺の仕事を手伝い、疲れた頃にそっと温かい茶を差し出してくれる。夜、書類に埋もれたまま眠ってしまえば、静かに毛布をかけてくれた。

 彼女の存在がなければ、俺はとっくに折れていただろう。


 父も、母も、サリアも――何かを察しているのか、その関係に口を出すことはなかった。あるいは、言う価値もないと見なされていたのかもしれない。

 

 だが、それでも構わなかった。

 俺には、リヴがいればそれでよかった。リヴの笑顔だけが、俺を生かしていた。


 ◇   ◆   ◇   ◆   ◇


 俺がネクロマンシーを授かって一年が経とうとした頃、屋敷が慌ただしくなった。不穏な胸騒ぎがして、俺は廊下へ出た。


「どうした。何があったんだ?」


 息を切らせた使用人が振り返る。


「ジーノ様が……成人の儀を終えられました! 【獄雷】を授けられたそうです!」


 【獄雷】――父の【獄炎】と並び立つ、雷を司る力。

 その報せは、瞬く間に屋敷全体を祝福と歓喜の渦に包み込んだ。


 執務室の前を通りかかると、扉の隙間から父と母の笑い声が漏れていた。父のそんな声を聞くのは、いつ以来だろうか。母の目元には涙が浮かび、ジーノは胸を張っていた。


 その光景が眩しく、そして遠かった。


「……おめでとう、ジーノ」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。その声は雷鳴にかき消されるように、屋敷の喧噪に飲まれていった。


 ◇   ◆   ◇   ◆   ◇


 三日後、父から珍しく呼び出しを受けた。


「今夜、家族で食卓を囲む。大事な話がある。お前も来い」


 その言い方が、妙に引っかかった。ただ冷たく、事務的に響く声――それが余計に怖かった。


 ――何かが起こる。そんな予感だけが、静かに胸に広がっていった。


 食堂のテーブルには、豪華な料理が並び、母とジーノがすでに座っていた。父はゆっくりとワインを傾け、そして俺の方を見た。


「クロム。この一年のお前の行動を、見させてもらった」


 その言葉を聞いた瞬間、呼吸が止まった。

 父が俺を見ていてくれた――たったそれだけのことが、胸を締めつけた。

 俺は、震える声で答えた。


「……ありがとうございます、父上」


 父は短く頷き、そして続けた。


「三日後、次期領主の任命式を行う。お前も出席しろ。大切な日になる」


 胸が震えた。


 まさか、自分の努力が――穢れた力を持っていても、ようやく認めてもらえるのか。


 その夜、俺は久しぶりに深く眠れた。夢の中で、リヴが笑っていた。長い冬が、ようやく終わる――そう思った。


 ◇   ◆   ◇   ◆   ◇


 任命式当日。朝から屋敷は賑わい、会場の庭には許嫁のサリア、貴族、教会の司祭や騎士たちだけでなく領民も参加していた。


 父は威厳に満ちた正装で壇上に立ち、母とジーノがその隣に並ぶ。俺も緊張しながらに隣に立ち、胸の鼓動を押さえた。


 これまでの努力が、ついに報われる――そう信じていた。


 父が壇上に上がり、声を張った。


「本日、我がヴァルネスト領に新たな時代が訪れる。未来を担う者――次期領主を、ここに定める」


 会場が静まり返る。誰もが次の言葉を待った。


「――次期領主、ジーノ・ヴァルネスト」


 その一言で、時間が止まった。父の口から出た名は、俺ではなかった。


 母が涙を拭い、ジーノが膝をついて頭を垂れる。歓声と拍手が会場を満たす。

 

 俺の胸の奥で、何かが崩れ落ちていった。それでも笑おうとした。領地のためになるのなら、弟が選ばれても、それでいいと……。


 だが、父の次の言葉が、その薄い希望を焼き尽くした。


「そしてもう一つ、重大な報せがある」


 父が教会の司祭に目配せをする。司祭が一歩前に出て、低く響く声で告げた。


「神の教えにより、アンデッドとなった者は世界の輪から外れ、永遠に転生の輪廻へと戻れぬ罪人と定められている。よって、アンデッドを生み出すネクロマンサー、クロム・ヴァルネストを――ここに、処刑とする」


 空気が凍りついた。


 人々の視線が一斉に俺に向かう。鎧のきしむ音。騎士たちが剣を抜く。


「待て! そんな話、聞いていない!」


 思わず声が出た。だが父は、俺の方を見ようとしなかった。


「本来なら、授かったその日にでも処刑するべきでした。しかし当主殿は、長子としての可能性に最後の望みを繋いだ。ゆえに教会も一年の猶予を与えたのです」


 司祭の言葉が静まり、広間に沈黙が落ちた。父は、静かに目を閉じた。声は震えてはいなかった。ただ、深く、重かった。


「……だが、国も、教会も、そして領民も恐れていた。ネクロマンサーは災厄だと──。その不安を、私は抑えられなかった」


 父はようやく俺を見た。


「そして……ジーノがヴァルネストを継ぐ力を授かった。ならば私は、国を揺るがす火種を残すわけにはいかぬ」


 俺は震えながら、ジーノを見る。ジーノは、ただ、笑っていた。勝ち誇った者だけが浮かべる、薄い、乾いた笑み。


「安心してください。僕が立派にヴァルネストを継ぎます。あなたが汚したヴァルネストの名も、僕が取り戻してあげます」


 それはまるで俺の死を、待ち望んでいたかのように。その声音には、慈悲も痛みもなかった。ただ、勝者が敗者に投げる最後の言葉だった。


「父上! 俺はヴァルネストの人間として恥じる事をしたつもりはない! 罪など犯していない!」

「……お前の存在そのものが、罪なのだ」


 その声は炎のように熱く、氷のように冷たかった。

 騎士たちが俺の腕を掴み、押さえつける。そして、父が剣を抜いた。


「神と一族の名にかけて、穢れは断たねばならぬ。……せめて私の手で終わらせよう」


 その瞬間だった。乾いた空気を裂くように、リヴの悲鳴が響いた。


「やめてください! クロム様は何も悪くありません!」


 彼女は駆け寄り、俺の前へと身を投げ出すように立ちはだかった。震えながらも、両腕を広げて俺を庇う。


「退け。お前に口を挟む権利はない」


 父の声は冷徹だった。


「で、ですが……クロム様は――」


「邪魔だ」


 次の瞬間、銀の軌跡が空を裂く。閃いた刃。空気が震え、赤い飛沫が花のように咲いた。


「…………え?」


 リヴの小さな声が、耳の奥で霞んでいく。彼女の身体が力を失い、 俺の前に倒れ込んできた。父の剣が、彼女の胸を貫いていた。


「いやだ……リヴ、駄目だ……!」


 押さえつける手を振り払い、彼女の体を抱きしめる。彼女の血が、俺の手を赤く染めていく。その体から、ぬくもりが急速に失われていく。

 それでもリヴは微笑んでいた。かすかに俺の頬を撫で、震える唇で囁く。


「……あなたを、愛して……」


 その言葉を最後に、彼女の瞳から光が消えた。


 世界が音を失った。胸の奥が裂け、喉が焼けるように痛い。涙が止まらなかった。


 彼女が息を引き取った瞬間、何かが――目を覚ました。


 震える手で彼女の頬に触れ、魔力を解き放つ。


「……死ぬな! 俺を一人にしないでくれ!」


 その瞬間、心の奥から黒い衝動が滲み出した。暗く、重く、冷たいのに、どこか懐かしい。意識するより早く、俺はその力に身を委ねていた。


 空気が軋み、光が歪み、教会の紋章が砕ける。騎士たちが悲鳴を上げて後ずさった。


「やめろ! それは禁忌の力だ!」


 司祭の叫びが響く。だが、もう届かない。


 リヴの身体を包むように、黒い霧が渦を巻く。

 理屈も恐れもなかった。ただ――、彼女を取り戻したいという願いだけが、俺を動かしていた。


 彼女の身体を包み込んでいた黒い靄が、やがて静かに消えていった。


 リヴの胸がかすかに上下し、唇が震えた。薄く開いた瞳が俺を映す。血の気を失っていたはずの唇に淡い紅が戻り、冷たかった指先がかすかに俺の手を握り返す。


「……クロム、様……?」


 その声は確かにリヴのものだった。生前と変わらぬ柔らかさに満ちている──だが、どこかこの世ならぬ透明な響きも混じっていた。


 涙が溢れた。俺はリヴを抱きしめた。


 その瞬間、俺の中で何かが壊れた。

 禁忌でも、神の敵でも構わない。彼女が蘇った――それだけで十分だった。


 人々の視線が突き刺さる。恐怖と憎悪が混じった眼差し。

 だが、もう何も怖くなかった。


 リヴの瞳に、再び微かな光が宿った。その光を見て、俺は静かに微笑んだ。

 この腕の中で、呼吸をしていること、瞳が自分を見返していることが、すべてを証明していた。


 その瞬間、悟った。

 俺に授けられた【ネクロマンシー】は、呪いなんかじゃない。

 愛する人を繋ぎとめる、祝福だと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る