白樺くん考記 無神無仏の祈り
2.
夏が濃い日々が続いていた。さながらイカロスを焼き殺したあの太陽だった。外に数分もいれば、熱が溜まり、熱病に掛かったように汗がだらだらと噴いて、くらくらとするのを感じた。そうなると家から出て何かする気力もない。控えめに設定したクーラーを背に玄関の扉を開けておく。玄関に座って外を眺めると、雲一つない蒼天が確かめられる。周りは二階建ての住宅が建っていて、それらがちょうどオアシスの木陰のように影をつくり、輝く太陽の光を和らげてくれる。気持ちがよかった。ワンルームのアパート、酷くせせこましい一隅に座って時折吹く風と住宅街の物音が心を軽くさせた。
そういったことを納涼として澄ましていうことができるだろうか、とにかく脳天に、身体の奥に、軽さや涼しさを感じたかった。せわしない日々にストレスが溜まっていて、休みの日でもタスクをどう消化するかかんがえてしまう。昼寝をしても、あれを片づけないとな、そういった小昼夢(しょうはくむ)がふとでてきてしまう。そういった生活や時の流れが好ましいものだとは思えなかった。
しかしそうではない自分も想像できなかった。いっそ仕事をやめてしまって、好きなことやってしまうか。厭、数年のうちにもう数度職替えをしている。まして仕事をやめて数か月過ごした時期があったが、今のように軽さや涼しさを感じることはなかった。ましてそれが長く続くごとに自身の暇というか手持ち無沙汰の感覚、それが熟成されるようにずんと重くなっていく、やはりそれならば今の方がいいのだと思う。そういった気持ちが長く続いていた。
そういう心境であったので休日の過ごし方は自然に決まったように思う。音楽を聴きながら読書をする。図書館に行き、嫌にならない程度に本をめくる。美術館に出かけ、ただ絵を眺める。ルシファーは堕天の際にはひとえにその翼を失ったが、地上の者は見えない翼をもっていて徐々に毟られるという。だから何事も若いうちに一生懸命にやったほうがいいのだが———厭なことがあると頑張る気になれず、早々と切りをつけてしまう———私の元来の気質からすると、生まれた時から半分の翼はないのか、人より半分小さな翼で生まれたのではないかと思えた。とにかく土日の二日間にすべてのことをやろうと気張るようなことは無駄だ、なにか一つやればいい。それがいつのまにか貯まっていけばいい。それぐらいの気持ちがちょうどよかった。
昔は何かを頑張ってみようと試みる時も何度もあった。たとえば小説を書こうとしていた時期があった。なにか得意なことができたらいいと思った。スポーツは好きではない。音楽やダンスやイラストもやったことがない。ただ本は人並みかそれ以上読む。ならばなにか書いてみたらいいのではないか。
とにかくいい作品を作りたいという気持ちがあった。同級生が読まないような分厚い本や文学も多少なりとも読んでいるのだ。なにかしら作れるはずだ。
朝早くデスクに座ってなにか書こうとしたり、たびたび熱が入って数百文字ぐらいは進むのだが、それ以降は続かなかった。筆を折ったというのも恥ずかしいぐらいなにも書けないでいた。それが恥ずかしかったが、今はそういう気持ちはなかった。
ただいい小説はどういった文章表現———レトリックを使っているのか興味があって、それを収集したいという気持ちが強かった。
面白いと感じた作品が常に多くのレトリックがあるというわけではないように思えた。シェイクスピアのジュリアス・シーザーなんかは面白いし、反語や対比などのレトリックも豊富である。ゴッドファーザーはあまりそういった感じをうけなかった。とにかくあるワンシーンに5つレトリックを感じることがあれば、長編でもまったく感じないこともあった。100個ほどこれを集めてみたら面白いのではないかと思ったので気長に収集しようと思った。なによりそういう形であっても小説に関われるのがうれしかった。
自分が好きになった作品を思い返して、なにかレトリックの手掛かりはないかと
思った。それで短編小説でやはり自分が好きだった白樺派の志賀直哉の城崎にてと
あとは魯迅の故郷を読んだ。これらは旧友のように学生時代に出会ってからもう何度も読み返している小説であった。
その他に青空文庫で読めるもの、芥川や太宰なんかを久しぶりに見ることになった。芥川はトロッコと走れメロスのほかにいくつか読んでいたと思うが———あらすじを覚えていたのその二編だったので久々にその二編だけを読んだ。トロッコは当時何度も見返すぐらいだったが、メロスは代表作として読んだだけで特に印象はなかった。
いつものように狭い繁華街を通り、駅前の雑踏の波を抜け、その帰りの電車の中でメロスを読んだ———もし万に一メロスを知らぬ人がいるとするならば青空文庫ですぐ読むといい———悪逆非道の王はメロスの替わりに友のセリヌンティウスを殺すという、ならば太陽が沈む前に刑場にたどり着かねばならない。そうしなければセリヌンティウスはメロスの身替わりとなって殺されるのだ。まだ刑場までは何キロもあるだろうに太陽が沈みかけている。その時青年がメロスの前に現れる。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。嗚呼、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!そうは言ってももう遅い
ならば今はその命を大事になさってください。師はあなたのことをずっと来ると信じておりました」
メロスの友でもあり、石工でもあるセリヌンティウスには弟子がおり、弟子はもう間に合わないと思ってメロスに並走しながらそう忠告したのだ。今向かえば師どころか、師がそこまで信頼して命を捧げたメロスまで王の裁量次第では命を失うことになりかねない。弟子はそれを恐れたのだ。
しかしメロスはこう言う。
「なぜ走るのか、信じられているから走るのだ。間に合う間に合わないではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私はなんだかもっと恐ろしく、大きいもののために走っている」
ふと、私の脳裡には、そのもっと恐ろしく大きなものを抱えて走る人々が見えた。その中には私も混じっている。また私の友人も家族も、また過去の人も未来の人もまた、その何か恐ろしく大きなものを抱えて、遠すぎて小さく遠近される山々の尾根が乗っかる地平線に向かって走っている。
それは徒労なのか、しかし決して恐ろしい考ではなかった。前にも後ろにも屍が転がっている。学生時代に熱中症で運悪く草むらの中で倒れて、そのまま数日みつからずに亡くなったKくんもいる。しかしそれは未来の自分でありまた他者なのである。だがやはりそれは恐ろしい考ではなかった。
わたしたちの心というのは信じるということやまったく信じないということでできているのではないか。若い確信がやってきて、また不信となり、それを交互に繰り返す。しかし年を重ねていくと、すぐに何かを信じるということもなくなり、また強情に何かを否定していようという気持ちも薄れていくものだ。それとはまた別に、ぼんやりと信じたいという思いが出てくる。教義化された信仰とも違うこれは、信じる信じないと同じ種類のものではないのだ。いうなれば無神無法の祈りのようなもので、そう考えると人というのは遅かれ早かれ、どこか祈りながら生きて、そしてどこかでふと死ぬのだという気がした。それはなんだかメロスがいうようにもっと恐ろしく大きなものなのだ。
私はここにおいて、そういうまったく何かを信じるという気持ちや逆にまったく信じないという気持ちではなく、ただなにか信じたいという気持ちをもって、ぼんやりもって最後を迎えるのではないかという気がした。人は長い困難な道のりをひとえに乗り越えてしまおうとまた乗り越えた人をたたえるが、そういったことはほとんど起こらないのだ。まったくそういう人がいないわけでもないが、多くのこと飲み込んで逞しく生きるよりもできるなら静かで落ち着いたものを心にもっておきたい。
———そういえばどうして志賀直哉や魯迅のあれらの作品が好きになったのか。
自然とまっすぐな散文は誰にでも出せるわけではない。どこか面白くしようとおもったり、その時の欲が出てきて文章に表れる。そういったところがないのが好きだった。白樺のように自然とまっすぐな文体、志賀直哉や魯迅にはそれができたように思う。私もそのような文章でもって何かを書くことがホントウのことのように思えた。しかしホントウのこととはなんだろう。やはりこれも無神無仏の祈りのようなもの、あるいは自分のお手製の偶像ではないだろうか。ただみながいうところのホントウが金や家族、信頼や愛やら、より感触があり語りやすくあるものであるだけで私のものは遠く遠くとりとめのないものであるだけのことである。
電車が停まり、駅からアパートへの帰路につく。暗い路地から徐々に遠ざかって駅の雑踏もまた消えてゆく。私は魯迅の故郷の最後の一遍を思い出していた。
———私はまた彼らが同じようになるとしても、決して私のような苦しみと放浪の生活をするようになることを願わないし、また決して苦しみと麻痺との生活をするようになることをも願わない。またその他の人々のような苦しみと我儘との生活をすればいいとも願わない。彼らは私たちがまだ見も知らないような新しい生活をしなければならないと思うのである。
白樺くん考記 ボワニエール活字製作所 @apartment345
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