子供の忠告と賢者の瞳

決意を固めたカイルだったが、問題はどうやって彼らに危険を知らせるか、だった。


父レオンに「あの商隊は、ウルフモウ渓谷で山賊に襲われる未来を視ました」と進言したところで、どうなるか。

おそらく、疲労による幻覚か、悪い夢でも見たのだろうと、心配されて寝室に連れていかれるのが関の山だ。


商会長のグスタフに直接言っても、結果は同じだろう。

七歳の子供の戯言を真に受けて、損失の出るルート変更を決断する商人など、いるはずがない。


(大人ではダメだ。ならば、クロエ本人に。彼女が信じざるを得ない形で、伝えるしかない)


カイルの脳が、最適なアルゴリズムを高速で検索する。

必要なのは、信憑性があり、かつ、子供が知っていても不自然ではない情報。


そして何より、彼女の商人としての合理的な思考を、一瞬でも麻痺させるほどの「何か」。

ただの嘘ではダメだ。

真実味を帯びた、ロジカルな「嘘」でなければならない。


彼は、父の隣からそっと離れると、出発の準備で慌ただしくしている隊商の中から、クロエの姿を探した。

彼女は、皆が慌ただしく動き回る中で、一人冷静に、荷馬車の車輪の状態を最終チェックしていた。


その姿は、やはり子供というより、現場監督のようだった。

カイルは、偶然を装って、彼女に駆け寄った。


「クロエさん、もう出発されるのですね」


「ええ、カイル様。また半年後には参りますわ。その時まで、どうかお元気で」


にこやかに、完璧な笑顔で応えるクロエに、カイルは、これから人生を賭けた大芝居を打つ男の顔を、巧みに隠した。

彼は、声を潜め、まるで重大な秘密を打ち明けるかのように、不安げな表情を作ってみせた。


「一つ、気になる噂を耳にしたのですが……クロエさん、あなた方の隊商は、ウルフモウ渓谷を通られるご予定ですか?」


「ええ、そのように聞いておりますが……それが何か?」


クロエが、不思議そうに小首を傾げる。


カイルは、さらに声を潜め、真剣な眼差しで彼女を見つめた。


『先日、森の散策中に道に迷ってしまいまして。その時に、父の部下である騎士の方に助けていただいたのですが、その方が言っていたのです。「ウルフモウ渓谷は、最近見たこともないほど大きな熊が出るから、絶対に近づいてはいけない」と。なんでも、荷馬車を一台、軽々とひっくり返すほどの力だとか。その話を聞いて、僕も父上に、あの道は絶対に通ってはいけないと、固く言われてしまったのです』


純粋な子供の恐怖心を装った、計算ずくの誘導だった。

彼は「父の部下の騎士」「父の命令」という、逆らえない権威のある単語をさりげなく混ぜ込み、情報の信憑性を極限まで高めることも忘れなかった。


クロエは最初、領主の息子の、親切心からくる可愛らしい戯言だと、軽く受け流そうとした。

彼女の商人の頭脳が、即座に損得勘定を始める。


(……熊ですって? 確かに危険ではあるけれど、こちらの隊商には腕利きの護衛が十人もいる。大型の獣一匹に、遅れを取るはずがない。それに、あの渓谷を避け、王家の街道を使えば、到着が二日も遅れる。その分の人件費、食料費……経費は馬鹿にならないわ)


商人としての思考が、彼の言葉を「非合理的」だと、明確に切り捨てようとする。

リスクとリターンが、全く釣り合っていない。


彼女は、いつも通りの営業スマイルを浮かべ、「ご心配ありがとうございます」と、当たり障りなく話を終えようとした。

だが、その時。

彼女は、カイルの顔をまともに見て、はっと息を呑んだのだ。


彼の深い蒼色の瞳。

それは、ただ熊を怖がる子供の瞳ではなかった。


あの、市場を案内してくれた時と同じ、全てを見通すかのような、静かで、真剣な光。

そして、その奥には、懇願するような、鬼気迫るほどの必死の光が宿っていた。


まるで、「お願いだから、信じてくれ」と、魂が直接訴えかけてくるかのように。

その瞳は、熊の噂話をしているのではなかった。

揺るぎない「事実」を告げている者の瞳だった。


『……そうですの』


クロエは、ごくりと唾を飲み込んだ。

全身に、鳥肌が立っていた。


自らの合理的な判断よりも、目の前の不思議な少年の瞳が持つ、不可思議な説得力を信じることにした。

これは、勘ではない。

商人として、相手の目の奥にある本質を見抜いた上での、論理的な判断だった。


『それは、貴重な情報をありがとうございます、カイル様。父にも、そのように伝えておきますわ』


彼女は優雅に一礼すると、踵を返し、父グスタフの元へと早足で向かった。

そして、彼女は父に、カイルの名前は一切出さなかった。


「お父様、ルートの変更をご提案いたします。ウルフモウ渓谷ですが、城下で現地の猟師から、大型の獣の目撃情報が多発していると、確かに耳にいたしました。数日の遅れという“確定損失”は、隊商の全滅という“壊滅的リスク”に比べれば、許容範囲内の“保険”かと存じます。この投資は、決して無駄にはならないはずです」


と、冷静沈着に、完璧な商人らしい言葉で父を説得した。


グスタフは、娘の的確すぎるリスク評価と、七歳とは思えぬ堂々とした物言いに目を丸くしながらも、少しだけ不満を漏らしつつ、最終的にはその進言を受け入れたのだった。

彼の娘が、領主の息子の不思議な瞳に、商会の未来を賭けたことなど、知る由もなかった。

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