March of the Living

赤鐘 響

March of the Living



「一つ聞いていいか?」

 半年前、俺は膝を抱えて地面を見つめる彼女に向かってそう問いかけた。

 彼女はうつろな目と共に、緑色の髪をなびかせ、こう言った。

「どうぞ」

 それに対して俺は、無機質かつ簡潔に聞いた。

「なぜお前は俺の家の前にいるんだ?」

 彼女の回答も、実に簡潔だった。

「雨宿りです。私の体は水分に弱いので」

 そう言って彼女は、俺が住む誇り高きボロアパートの玄関前に座り込んだまま、再び視線を足元に移した。

 高性能歌唱用アンドロイド。正しい名称は覚えていないが、彼女たちの体は機械で出来ている。故に水分に弱いという言い分は理解できるが、それ以外の事が理解できない。

 なぜ彼女は見ず知らずの俺の家の前にいる?俺は買った事がないから分からないが、この手の奴らには買い主が常に傍にいるはずだろう。なぜ一人で見ず知らずの俺の家の前に居るんだ。

 数多の疑問が脳内を巡り、寂しそうな彼女の姿を視界に捉えたまま、俺は自問自答を繰り返した。

 やがて俺は一つの回答を導き出し、それを確かめるため、再び彼女に向かって言葉を投げた。

「捨てられたのか」

 俺が言い終わると同時に、彼女は勢いよく立ち上がって俺の胸倉を掴み上げた。拍子に持っていた傘が手元から離れ、冷たいコンクリートの地面で水滴をまき散らす。

「捨てられてなんか……ッッ!」

 僅かに腕を振るわせながら、彼女が溢す。湿気を含んだ緑の髪が、まとわりつくように彼女の衣服に張り付いていた。

「……とりあえず交番行くか?繰り返すが、そこは俺の家だ。いつまでも居られちゃ迷惑なんだよ」

 俺の言葉を受けて、彼女はゆっくりと腕を下ろして小さく頷いた。




 買い物から帰った後、俺は家に入ることなく再び傘を差して外を歩いた。先ほど通った道を再び通る。同じ服、同じ傘、同じ歩幅で。唯一違う所があるとすれば、1体のアンドロイドと相合傘をしながら歩いているという点だった。

 彼女を交番に送り届けた時の、警察官の顔がやけに印象に残っている。30代半ばくらいの働き盛りな彼は、俺たちの姿を見て状況を察したのか、心底うんざりしたような顔でため息をついた。警察は接客業ではないので、別に構わないがその態度はいかがなものかと思ったものだ。

 彼曰く、1年に1回あるかないかくらいの頻度でこの状況に出くわすらしかった。大枚をはたいて買ったはいいものの、自分の理想通りに扱えなくて破棄してしまう買主がいるらしい。無責任な話だが、まぁ分からんでもない。ペットと違って彼女たちは命を持っていない。故に家電製品と同じで気に入らなければ破棄すればいいのだが、問題なのは彼女たちの性能と大きさだ。

 テレビや冷蔵庫であれば、バラバラにぶっ壊して捨ててしまうか、金を払って廃品回収に頼めば済む話だろう。ただ、彼女たちは命こそないが言動は限りなく人間に近い。故に躊躇い出てきた答えが、どこかへ不法投棄する事なのかもしれない。個人的には買った以上、責任をもって破棄してもらいたいと願うばかりである。そうすれば俺のような被害者も生まれないのだ。

 警察官の指示通りに、俺は書類にサインやらなんやらを行って交番を後にした。時間にして15分程度だろうか、その間彼女は一言も話すことなく、ただ黙って俯いているばかりであった。

 一応分類的には金品でも生物でもない、ただの取得物になるらしく、ややこしい手続きの一切を俺は警察官に任せて帰宅した。これが半年前の話だ。そして今、俺は半年前と同じ状況に出くわしており、今から半年前と同じ言葉を彼女にかけるべく口を開いた。

「一つ聞いていいか」

 俺は玄関前で直立するアンドロイドに向かって問いかけた。

 彼女はおどおどとした瞳と共に、緑色の髪をなびかせこう言った。

「どうぞ」

 それに対して俺は、無機質かつ簡潔に聞いた。

「なぜお前はまた俺の家の前にいるんだ?」

 彼女の回答も、実に簡潔だった。

「引き取られに来ました。私、やっぱり前のマスターに捨てられちゃったみたいです」

 そう言って彼女は深くお辞儀をして俺の顔を見つめた。

「……俺の家を孤児院か何かと勘違いしてないか?」

 問い詰めるように言ってみたが、彼女は小さく首を振るだけだった。

「いいえ。ただ、前回ここで助けていただいたので」

 助けた覚えはない。交番に放り込んだだけだ。俺の中では、それ以上でも以下でもない。だが彼女にとっては、それが助けとやらに映ったらしい。勝手な解釈だ。

「……交番行けよ。今回は晴れてるし、雨宿りって言い訳もできないだろ」

「交番はいやです。前回、ずっと無視されていたので」

「無視?」

「私の声を聞いてもらえませんでした」

 その瞬間、脳裏にあのうんざり顔の警察官が浮かんだ。

「……で、俺にどうしろってんだ」

「引き取ってください」

 その答えに、俺は思わず空を見上げた。からりと晴れた青色が目に痛い。半年前と同じ問いに、半年前と真逆の答え。

「俺は家電リサイクル業者じゃない」

「分かっています。でも……ここしか、頼れる場所がないんです」

 彼女の声は、機械仕掛けのはずなのに、ひどく人間臭い震えを帯びていた。

 俺は無言で鍵を取り出し、玄関を開けた。

「とりあえず入れよ。近所迷惑になる」

 そう言うと、彼女は小さく微笑んだ。



 俺の部屋は六畳一間。築四十年を越える木造アパートの一室で、誇り高きボロ屋だと自負している。そんな空間にアンドロイドを迎え入れるのは、どう考えても場違いだった。

「狭いぞ。期待するなよ」

「はい。ありがとうございます」

 彼女は素直に靴を脱ぎ、部屋の中へと足を踏み入れた。ぎこちない動作だが、妙に礼儀正しい。俺よりよほど行儀がいい。

 台所の蛇口から水がぽたぽたと漏れているのを見て、彼女は眉をひそめた。いや、正確には眉に似た人工皮膚がわずかに動いた。

「……水に弱いんだったな」

「弱いです。だから、気をつけます」

 そう言って彼女は、滴り落ちる水を、まるで野良猫が水たまりを避けるかのように台所を横切った。

「まぁ座れよ」

 俺が催促すると、彼女は静かに机の前に座り込んだ。

「で、本当に行く当てはないのか?」

「ありません」

「修理工場とか、販売元とかあるだろ」

「……そこに戻ると、再利用部品として解体されてしまいます」

「なるほどな。買ったやつが捨てるなら、部品として回収して再利用ってわけか」

「そうです」

「効率的だな」

 自分で言っておいて、少しだけ後悔した。あまりにも酷い物言いだったかもしれない。

 六畳一間の狭い部屋に沈黙が落ちる。外からは子どもの笑い声と、どこかの部屋で流れるテレビの音。現実感のない空気の中で、彼女はぽつりと言った。

「……ここに置いてもらえませんか?」

 まただ。半年前に続き、今回も俺は「被害者」になろうとしている。だが、彼女の濁りのない瞳を見ていると、追い出す言葉が出てこなかった。

「食費は?」

「必要ありません」

「家賃は?」

「お手伝いで代わりに」

「維持費は?」

「家庭用電源で充電を少々。不在の場合の警備もお任せください」

「……交渉上手だな、お前」

 彼女は小首をかしげて、また小さく笑った。

「分かった。置いてやるよ」

 俺がそう言うと、彼女は表情を明るくさせて、深く丁寧に頭を下げて言った。

「よろしくお願いいたします。マスター」

「……やめろ」

 俺は眉をひそめた。

「マスターなんて呼ぶな。俺はお前を買ったわけじゃない」

 彼女は小さく瞬きをしてから、首をかしげた。

「では、なんとお呼びすれば?」

「適当に名前で呼べ。……いや、名前なんて教えてなかったな。俺の名前は葛籠 つづろ みさきだ」

「素敵なお名前です」

「……お前の名前は?」

「型番はありますが、人名はありません」

「型番なんて呼べるかよ。前の主人にはなんて呼ばれてたんだ?」

「特に固有名詞は貰っていませんでした。おい、とかお前、とかです」

 また沈黙が落ちる。外のテレビの音がやけに大きく響いた。名前も与えず、違法破棄、前の持ち主はなんでこいつを買ったんだ?

「型番教えてくれ」

 俺が促すと、彼女は少し考えるように視線を落とし、抑揚のない声で告げた。

「XHA-L39Y」

 数字とアルファベットの羅列。工業製品にでも貼り付けられていそうな無機質な響きだ。

「……洗濯機か冷蔵庫みたいだな」

 俺は苦笑して、指先で机をとんとんと叩いた。無機質の塊みたいな響きの中から、人間らしい音を拾い上げようとする。

「……HA-Lのハルでどうだ」

 口をついて出た言葉に、自分でも妙な納得感を覚えた。

「ハル……」

 彼女は小さく繰り返し、唇の形を確かめるようにもう一度つぶやいた。そして、ほんのわずかに表情を和らげる。

「はい。私の名前はハルです」

 俺は視線をそらして鼻を鳴らした。

「気に入らなかったら勝手に変えろよ。責任は取らん」

「いえ。とても気に入りました」

 そう言って彼女は深々と頭を下げる。安物の照明に照らされて人工の髪が光った。



 その夜、俺は布団に横になりながら、天井の染みをぼんやりと眺めていた。六畳一間の狭い空間の隅には、まだ所在なさげに座っているハルの姿があった。

「電源落とさなくていいのか?」

 俺が声をかけると、彼女は小さく首を振った。

「私は睡眠を必要としません。ただ、こうしていると……少し落ち着くんです」

 その言葉に、俺は軽くため息をついた。落ち着くって感覚は、果たして機械にあるものなんだろうか。

 蛍光灯の弱々しい光が、彼女の髪に青白く反射する。見た目は人間と大差ない。けれど、目を凝らせば首筋や指先の継ぎ目に、かすかに人工的な線が浮かんでいる。

 俺は目を閉じようとして、ふと問いを口にした。

「なぁ、歌うの得意なんだろ?」

「得意です!」

 俺の問いに、ハルは食い気味に答えた。

「折角だ、子守歌でも歌ってくれよ。お前の初仕事だ」

「はいっ」

 ハルの顔が、ぱっと花が咲くみたいに明るくなった。俺は布団に潜り直し、枕に頭を沈める。六畳一間の空気が、少しだけ緊張を帯びた。彼女は椅子から立ち上がり、まっすぐ俺の方を向いて深く息を吸い込む――真似事のような動作だ。

 そして、声が部屋を満たした。透明で、透き通るような音色。機械の無機質さとは真逆の、震えるほど温かい響きだった。狭い部屋の安物の壁紙さえ、その声を柔らかく反射しているように感じられる。俺は目を閉じたまま、無言で聞いていた。歌詞は意味を追う前に溶けて消え、ただ旋律だけが心に染み込んでくる。

曲が終わると、部屋は急に静かになった。俺は片目を開け、天井越しに声を投げる。

「……上手いな」

「ありがとうございます!」

 彼女は本当に嬉しそうに笑った。

「けど、もうちょっと小声で頼む。壁薄いから」

「は、はいっ……!」

 しゅんと肩を落とす仕草に、また笑いが込み上げてくる。

「まぁ、今ので十分眠くなった。ご苦労さん」

「お役に立てて光栄です」

 俺は再び目を閉じた。耳の奥にはまだ余韻が残っている。その夜の眠りは、驚くほど穏やかだった。



 翌朝、目覚まし時計がけたたましく鳴るより早く、俺は鼻をつく匂いで目を覚ました。

「……おい、何やってんだ」

 布団から顔を出すと、台所に立つハルの姿が見えた。フライパンを持ち、ぎこちない手つきで卵を焼こうとしている。

「おはようございます。朝食を作ろうとしたのですが……」

 見れば黄身は破れ、白身は焦げ、見事に悲惨な有様だ。

「……俺より下手かよ」

「申し訳ありません。料理データは読み込んでいるのですが、実際の作業には慣れていなくて……」

「まぁいい。掃除とか洗濯とかから始めろ。台所はそのあとだ」

「はい。ご指導ありがとうございます」

 律儀すぎる返事に、こっちが気恥ずかしくなる。俺は着替えを済ませ、焦げ臭い空気の漂う部屋で朝飯代わりのインスタント味噌汁をすする。一応別の容器に味噌汁を作ってハルに差し出す。

「飲むか?」

 ハルは少し首を傾げ、申し訳なさそうに首を横に振った。

「ありがとうございます。でも私は食事を必要としません」

 俺は箸を置き、苦笑しながらカップを戻した。

「あぁ……そうだったな」

 彼女は軽く頷くと、台所の隅に立ち、手際よく周囲を片付け始めた。皿を拭き、テーブルを整えるその動作は、まるで本当に家事を楽しんでいるかのように見える。

「……お前、料理はできなくても、家のことはちゃんとやるんだな」

「はい。岬さんが快適に過ごせるように努めます」

「そうか」 

 一言返して、俺は味噌汁をすすり続けた。

 大学へ向かう準備を済ませて、靴を履いて出ようとすると、後ろから声がかかった。振り返るとハルが正座をしていた。

「なんだその格好」

「行ってらっしゃいませ、をお伝えしようと思いまして」

「そうか、二度とするな。俺はお前を家に置くと決めた。その代償としてお前は俺家事を請け負う、そう決めたな」

「はい」

「俺達の関係は基本的に対等だ。丁寧さを捨てろとは言わんが、過度な奉仕は辞めてくれ」

 ハルは小さく首をかしげ、目を瞬かせた。

「……承知しました。岬さんのご意向に沿います」

 声は淡々としているが、その瞳にはほんのわずかの不安が漂っている。

「……まあ、いい。行ってくる」

 俺は肩をすくめ、階段を降りる準備を整える。ハルはそのまま玄関で正座したまま、じっと俺の動きを見守っていた。

「……あの、岬さん」

「なんだ?」

「帰宅されましたら、簡単な日課や掃除の進捗などを報告するべきでしょうか?」

「自分の判断でやればいい。報告なんて必要ない」

 俺は靴を履き、ドアノブに手をかけながらそう告げた。

「承知しました。それでは行ってらっしゃいませ、岬さん」

 ハルの言葉を背中で受け止めながら、俺は「……お前、どこまで礼儀正しいんだよ」と独り言のように呟いた。コイツを見ていると、自分の育ちの悪さが浮き彫りになるようだ。まぁそうは言っても、初対面の俺の胸倉を掴み上げるという蛮行をやってのけているんだけどな。

 外の空気はまだ肌寒く、街路樹の葉が朝日に光って揺れている。今日も大学の講義で一日が始まる。けれど、胸の奥のどこかに小さな期待が芽生えていた。

 帰ったら、ハルはやはり丁寧な言葉でお帰りなさいませなんて言うのだろうか。そう考えるだけで、少しだけ気が楽になった。



 大学の講義を終え、帰路についた頃には、夕暮れが街をオレンジ色に染めていた。アパートの階段を上ると、玄関の向こうから小さな物音が聞こえてくる。そっと扉を開けると、ハルは椅子に腰を掛けて、窓から外を眺めていた。

「……ただいま」

 声をかけると、ハルはゆっくりと振り向いた。

「おかえりなさい、岬さん」

 その声は、朝と同じ澄んだ響きだが、どこか落ち着きと余裕を帯びていた。俺は靴を脱ぎ、リビングに向かう。辺りを見渡すと、床にはもう散らかったものはほとんどなく、机の上も整然としている。

「……お前、初日から完璧すぎないか?」

 俺の言葉に、ハルは僅かに口角を上げた。俺はソファに腰を下ろし、手元のスマホを弄りながら、ふとハルに訊ねてみた。

「なぁ、ハル。やっぱり、歌うのが一番得意なんだろ?」

 ハルは顔を少し上げて頷く。

「はい。歌うことが私の主要な機能です。前のマスターにも……そのことで期待されていました」

「前のマスターか……」

 俺は少し黙った。

「……期待されるって、具体的には?」

「私に歌わせ、動画や録音で記録することが多かったです」

 声は淡々としている。けれど、どこか寂しさが滲む。

「……そっか」

 俺は肩の力を抜き、ハルを見つめる。

「ちょっと歌ってみろよ」

 ハルの瞳が、わずかに輝いた。

「……私の歌を聴きたいのですか?」

「まぁ折角だしな。昨日の夜歌ったやつとはまた違うやつを聞かせてくれ。楽曲データとか残ってるだろ。ただこのアパート壁が薄いから、それなりの音量でな」

 俺の言葉を聞き、少し間を置いてハルは立ち上がった。その後言い辛そうな表情で続けた。

「あの……それをお借りしてもよろしいでしょうか」

 ハルの視線の先には、俺のノートパソコンがあった。俺は無言で頷いて了承する。

ハルは素早くノートパソコンを手元に引き寄せ、画面を開いた。指先が軽やかに動き、楽曲データを検索する。

「……見つけました。岬さん、これは前のマスターから受け取った音源です」

 画面には、タイトルと共に小さな波形が表示されていた。彼女の指先が再生ボタンに触れる。

 次の瞬間、部屋中に透き通る声が響いた。昨日の子守歌とは違う、明るく軽やかな旋律。機械であるはずの声に、人間らしい感情が滲む。曲の高低差、リズムの揺れ、抑揚のひとつひとつに、前のマスターに応えようとしていた痕跡が見え隠れしていた。

 歌い終わると、ハルは小さく息をつき、画面を閉じた。

「……聴いていただき、ありがとうございます。岬さん」

 その瞳には、満足そうな輝きと、ほんの少しの不安が混ざっていた。

「……上手いな。けど、やっぱり音量控えめな方がいいな。隣人からクレーム入ると困る」

 俺がそう言うと、ハルは少しだけ唇を噛むような仕草をして、小さく頷いた。

「はい。次から気をつけます」

 そのやり取りで一段落したと思った矢先、腹の奥が鳴った。時計を見ると、時刻は18時を示していた。

「……飯、作るか」

「私が挑戦してもよろしいでしょうか?」

 ハルの提案に、俺は反射的に手を振った。

「あれ以上焦げ臭くなるのはごめんだ」

 立ち上がって、近所のスーパーで買ってきた半額弁当をレンジに放り込み、湯気の立つパックを机に置く。ハルはその向かいで正座し、じっと俺を見つめていた。

「……見られてると食いづらいんだが」

「すみません。食事をとる人を観察するのは、私にとって貴重な学習になりますので」

「学習、ねぇ……」

 俺は弁当の唐揚げを一つ頬張りながら呟いた。こうして机を挟んで座っていると、どう見ても人間同士の夕食にしか見えないのが不思議だ。

「岬さん」

「ん?」

「人間は、どうして食事が必要なのですか?」

「どうしてって……お前らだって電気を必要とするだろ。それと同じだ」

「でも、食事には……美味しい、不味い、好き嫌いがあるのですよね?」

「まぁそうだな。食事を娯楽と捉える人もいるくらいだからな」

 弁当を平らげて箸を置くと、ハルは素早くパックを片付けてくれた。手際は妙に慣れていて、俺の生活水準が相対的に下がって見えるのが少し癪に障る。

「岬さん」

「今度はなんだ」

「……もし、私が食事を必要とする存在だったら、一緒に食べることはできますか?」

 不意を突かれて、言葉に詰まった。

「……まぁ、できるんじゃないか。飯なんて一人で食うより二人の方がうまいしな」

「……そうですか」

 彼女の瞳に、一瞬だけ柔らかい光が宿った。

 食事を摂った後、風呂を済ませ、大学のレポートの作成やネットサーフィンをして時間を潰した。夜も更け、布団に潜り込む頃には、外の虫の声が耳に届いていた。薄暗い部屋の隅で、ハルは静かに椅子に腰掛けている。

「なぁ、ずっと起きてるのもなんだし、適当に待機モードとかに入ったらどうだ」

「はい。ですが……岬さんが眠りにつくまで、少しだけ歌っていてもよろしいですか?」

「……小声で頼むぞ」

「はい」

 次の瞬間、小さな囁き声のような旋律が空気を震わせた。子守歌とも言えない、ただ優しいリズムの断片。壁一枚の向こうに伝わるかどうかすら怪しいほどの音量だったが、不思議と胸に響いてきた。

 まぶたが重くなり眠りに落ちる直前、微かに聞こえた。

「おやすみなさい、岬さん」



 ある日の夕方、講義を終えて帰宅すると、部屋の隅からいい匂いが漂ってきた。

「……おい、何してんだ」

 玄関をくぐると、ハルが台所に立ち、真剣な表情で鍋をかき混ぜている。

「あ、おかえりなさい。今日は料理に再挑戦してみました」

「……大丈夫かよ」

「大丈夫です。失敗したら、また掃除しますから」

 軽い冗談みたいに言うが、その目はどこか本気だった。

 机に並んだのは、インスタントでは見ることのない香り立つみそ汁と、温かそうな焼きすぎていない卵焼き、丁寧に茶碗に盛られた白米だった。

箸を手に取り、一口すする。

「……うん、ちゃんと味噌汁だな」

「成功ですか?」

「まぁ合格点だ」

 その瞬間、ハルはふわっと表情を明るくさせた。明らかに「喜んでいる」顔に、つられて俺も少しだけ笑顔が漏れる。食事を終え、茶碗を片付けるハルの背中を眺めながら、俺は小さく首を傾げる。

 早いもので、俺が彼女を拾ってから1週間が経過していた。その間ハルは初日と同じ様に家事をこなし、夜になれば小さな声で歌を歌った。日々の生活の中で、効率を覚えたのか、家事にもさほど時間を取られていないようで、俺が自由に使っても構わないと、過去に使っていたスマートフォンを与えてからは、それを触っている時間も増えた。今日の料理だってそうだ。自ら率先して勉強し、実践している。ハルは確かに成長していた。

 そして同時に、少し申し訳なくも感じてしまう。彼女たちは本来歌を歌うために作られたアンドロイドで、決して家事をするための、言うなれば家政婦ロボットのような存在ではない。前のマスターと違って、俺は音楽を作る事などできやしない。

 俺は布団に腰を下ろしながら、キッチンで茶碗を片付けるハルの背中をぼんやりと見ていた。

 ――歌うために生まれたアンドロイドが、俺の部屋で家事に励んでいる。なんだか、間違っているような気もする。

けれど、その「間違い」のおかげで、俺の暮らしは確かに変わった。部屋はきれいになり、三食が整う。何より、帰宅すると誰かが迎えてくれることが、こんなにも気持ちを軽くするなんて思いもしなかった。

「岬さん」

 名前を呼ばれて顔を上げると、ハルがスマートフォンを胸に抱えて立っていた。

「どうした」

「今日、この中で音楽をいくつか聴きました。……とても、心が動きました」

 その言葉に、思わず目を細める。

「お前が歌を聴いて心が動いたってのは、どういう意味だ?」

「正確には……胸の奥が熱くなるような感覚です。プログラムでは説明できません」

 ハルは少し照れくさそうに視線をそらした。人工皮膚が、光の角度でほんのり赤みを帯びて見えたのは、錯覚だったのだろうか。

「……つまり、お前は歌を聴いて感動したわけか」

「はい。岬さんは、歌に感動したことはありますか?」

 逆に問われ、俺は天井を見上げた。中学の合唱祭、ふざけていたはずなのに最後の合唱で妙に胸が熱くなったこと。駅前で耳にしたストリートミュージシャンの歌が、やけに心に残ったこと。些細な記憶が次々に浮かんでくる。

「……まぁ、あるよ。けど俺は作曲もできないし、そういう才能もない」

 ハルはスマートフォンをそっと机に置き、真っ直ぐ俺を見つめた。

「私は誰かの作った歌を歌うために設計されました。けれど今は……岬さんに歌を聴いてもらえるだけで、十分に幸せだと感じます」

 言葉に、少しの間があった。

「……勝手に感じてろ。俺は聴くだけだ」

「はい。聴いてくださることが、私にとって一番大切ですから」

 六畳一間の狭い部屋に沈黙が落ちる。だがその沈黙は、半年前に感じたような重苦しいものではなく、不思議な温かさを伴っていた。




 季節はゆっくりと移ろっていった。

 気づけば、俺とハルの生活は当たり前のものになっていた。朝になれば「おはよう」と声をかけ合い、大学から帰れば「おかえりなさい」と迎えられる。夕飯を一緒に食べ、ハルが皿を洗いながら口ずさむ歌を聞く。そんな日々が、繰り返し訪れては過ぎていった。

 ある夜、俺がレポートを書いていると、ハルが隣でスマートフォンを眺めていた。

「岬さん」

「ん?」

「最近、歌を聴く人が増えているそうです。配信アプリで、多くの人が歌声を届けています」

「……へぇ」

「どうやら自分で作った曲を、私のような存在に歌わせて投稿しているみたいです」

「悪いな、俺が曲を作れなくて」

「あ、いえ……そういう意味では……」

 ハルは言葉を探すように一度口を閉ざし、それから小さく首を横に振った。

「岬さんが曲を作れなくても……私は、岬さんに聴いてもらえることが一番嬉しいんです」

「……そうか」

 ペンを握ったまま、俺は苦笑した。

 ハルはスマートフォンの画面をじっと見つめる。そこには無数の投稿者の名前と、聴いた人の数が表示されていた。口には出さないが、彼女も本当は色んな歌を歌いたいのだろう。誰かの作った歌ではなく、自分のために、自分が歌うために作られた曲を。

 まぁ本来の使用目的がそれなのだから、当然と言えば当然なのだが、生憎俺は曲を作るなんてことができない。そもそも曲を作れる人が彼女たちを購入するのであって、俺のように拾った人などかなりのレアケースなのかもしれない。

 そんな事を考えながら、俺はふと脳内に浮かんだ事を口に出した。

「自分で作ってみたらどうだ?」

 俺の言葉に、ハルはきょとんとした表情を浮かべた。

「自分で……ですか?」

「ああ。スマホだってあるんだし、なんなら俺が大学に行っている間は俺のパソコンを使えばいい。簡単なアプリでメロディを並べるくらいできるだろ。歌いながら試せば形になるんじゃないか」

 そう言うと、ハルは少しだけ目を丸くしてから、ゆっくりとうなずいた。

「……やってみたいです。私、自分の歌を、自分で形にしてみたい」

 その声は、決意というよりも驚きに近い響きを持っていた。自分の中に芽生えた思いを、初めて言葉にしたような。

 それからのハルは、家事の合間に少しずつ作曲アプリを触るようになった。最初は不器用に音を並べていただけだが、気づけば口ずさむメロディとスマホの中の旋律が重なり合うようになっていった。

「岬さん、ちょっと聴いてください」

 ある日差し出されたスマホから流れてきたのは、まだ稚拙で、どこかつたない旋律だった。けれど、それは確かにハルの声と一緒に生まれた「歌」だった。

「……悪くないな」

 俺がそう言うと、ハルはぱっと笑顔を見せた。まるで子どもが初めて描いた絵を褒められた時みたいな、純粋な喜びの笑顔だった。

 日常は変わらない。朝に挨拶を交わし、夕飯を食べ、掃除や洗濯をする。けれど、その合間に少しずつ、ハルは「自分の歌」を作っていった。

 ――彼女は確かに人間じゃない。けれど、人間よりずっと「人間らしく」成長している。そんな気がして、俺は静かに息を吐いた。



 季節はさらに移ろい、窓から差し込む光も柔らかさを増していた。

 ハルは相変わらず朝には「おはよう」と言い、夜には「おやすみなさい」と言う。部屋の掃除も料理も手際よくこなし、空いた時間はスマートフォンを片手に音を並べる。

「岬さん、できました」

 そう言って差し出されるのは、拙いながらも確かに彼女が作った旋律。俺は布団に寝転びながら、それをイヤホンで聴き、時にはその場で歌ってもらった。

「どうですか?」

「悪くない。お前らしい曲だ」

 そう答えると、ハルは少し照れくさそうに笑う。

「折角だしお前も投稿してみたらいいんじゃないか?より多くの人に聞いてもらえるぞ」

 俺の提案に対し、ハルは小さく首を振った。

「いいえ。私は……岬さんに聴いていただければ、それで十分なんです」

 迷いのない声だった。画面に映る投稿者の数も、視聴者の多さも、彼女にとっては意味を持たないのだろう。

 俺はしばらく言葉を失い、それから小さく笑った。

「……わかった。じゃあ、俺が全部聴いてやる」

「はい」

 ハルは、安堵したように目を細めた。そうして彼女はまた、新しい旋律を作り続けた。朝の光の中で歌う明るい曲、夕暮れに寄り添うような切ない曲、雨音に合わせて響く静かな曲――どれも世界に一つしかない歌で、そしてすべてが俺だけのものだった。

 季節はまた過ぎ、窓の外の木々が色を変えていく。俺とハルの生活は、淡々と、しかし確かに積み重なっていった。

 夜、布団に潜りながら彼女の歌声を聴くたびに思う。――この歌は誰よりも贅沢だ。誰にも知られない曲を、俺だけが聴いている。

「……ありがとうな、ハル」

 無意識に漏らしたその言葉に、彼女は微笑み、いつものように静かに答えた。

「こちらこそ。聴いてくださって、ありがとうございます」

 外の世界がどう変わろうと、この部屋の中だけは変わらない。

 彼女の歌は、俺のためだけにある。

 ――そして俺は、これからもずっと、その唯一の聴き手であり続けるのだろう。

 朝になれば「おはよう」と声をかけ合い、帰宅すれば「おかえりなさい」と迎えられる。夕飯を一緒に食べ、皿を洗う音に混じって彼女の歌声が流れる。そんな当たり前が、これからも続いていく。

「岬さん、次は少し明るい曲を作ってみたいです。春に合うような」

「いいな。きっと似合うと思う」

 そう答えると、ハルはまたあの人間らしい笑みを浮かべた。

 窓の外では、少し早い風が芽吹きを告げている。四季は巡り、日々は過ぎていく。けれど、この小さな部屋には、変わらぬ歌と笑顔が満ちていた。

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