第6話 あの頃のネコと君
アキヒコが初めて一人暮らしをしたのは地元京都から東京の大学に進学が決まった時だった。
物件探しや内見すべて父親と同伴で、まるで自分は借りてきたネコの様だったとアキヒコは振り返る。
もちろん新生活に胸を躍らせてはいたが、反面不安でもあった。
淡々と契約を進める父親の横顔は家の中のだらけたオヤジではなく社会と対等だった。
その見たことのない父親の姿に圧倒されたと同時に自分の無力さで身が縮こまっていたのだ。
下宿先へ引っ越しを終えたとき、父親に「これはお前の入学祝や」と小さな革のケースに入った『多田野』の印鑑を手渡された。
アキヒコはその小さな重みに世帯を離れる現実を感じたのだった。
目の前にいる悠太はあの頃の自分とは違い、1人で一歩踏み出そうとしている。
進学と就職や年齢の違いはあれど、家を出ることの不安は同じだろう。
「すみません!忘れ物した挙句に話まで聞いてもらって・・・。」
悠太は壁の時計に目をやり、慌てて席を立つ。
時計は20時をまわっている。
悠太は小走りに自動ドアに向かって、クルッとこちらに向き直し
「本当にありがとうございました。」と丁寧にお辞儀した。
「とんでもないです、飯塚さん。物件探しって難しいですよ。まずは何を優先したいか整理してみてください。場所・家賃・間取り、何か譲れないものがあるはずです。
ご縁がありましたらまた、ぜひ。」
アキヒコがそういうと
「そうですね。落ち着いて考えてみます。ありがとうございました。失礼します。」
悠太は軽い足取りで階段を駆け降りていった。
アキヒコはゆっくり自席に戻り、再びパソコンに向かう。
しかし悠太の困り顔と父親の隣で縮こまっていたあの頃の自分が頭から離れない。
アキヒコは大きく背中を反って天井を見上げてつぶやいた。
「がんばれ。」
ハーバリウムと青年 shiki @0508aki-o0808
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