第2話 アトラス

 目の前に、首のない体が倒れていた。

 血は一滴も流れておらず、あたりにはなにもない暗い空間が広がる。

 だから、これは現実ではないとぼんやり考える。子どものころに見たあの光景が、今も心に残り、形を変えて出てきた悪夢だ。

 遺体をじっくり見てはいけない。曖昧なままのほうがいい。男か女か認識した瞬間、形が決まってしまう。

 遺体は父であったり母であったり、あるいは記憶の底に眠る誰かであったりする。だが首の切断面は、いつだって恐ろしくきれいで、アトラスの姿はなかった。

 

――頭と体をつなぐ首の骨は七つある。そのうち頭から一番近い首の骨は、別名アトラスと呼ばれている。

 ギリシア神話の巨人アトラスは、神々との戦いに敗れ、永遠に天空を背負う罰を受けた。この首の骨も、同じように重い頭を支え続けてる。だから同じアトラスの名前がつけられた。 

 首を落とすときは、このアトラスと二番目の首の骨の間を狙う。他の首の骨には突起があって刃をはね返すが、ここだけはスパッと斬れるんだ。


 そう、教えてくれたのは処刑人だった。


 初めてその話を聞いたとき、首が切られてもアトラスは解放されないままなのだと思った。

 他の首の骨と違って、アトラスは頭とくっついたまま、どこにもいけない。

 いつまでも、無意味に、頭を支え続けている。

 

 頭は――アトラスはどこだろう。

 ふと浮かんだ疑問をふりはらう。

 意識してはいけない。形になってしまう。現れてしまう。


 だが、もう遅かった。

 倒れた首無しの体の向こうに、大きな丸い物体が現れた。

 首無しの体よりも何倍も大きい。

 見ているうちに、球体は変形し突起物が生まれ、耳と鼻が生え、頭になった。

 見知った誰かと認識しないよう目をそらせば、大きな頭を支えている人の姿が目に入った。

 

 それは、何の価値もないものを、アトラスのように支えている。 

 苦悶の表情を浮かべているのか。恨めしい顔をしているのか。それとも、すべてを諦めた顔をしているのか。

 あたりが暗くて分からない。見たくもない。興味もない。

 なのに、見るのをやめられない。


 頭は音もなく、動き出した。

 ゆっくりと転がりながら近づいてくる。

 頭を支えていた人間も回転に巻き込まれ、ひきずられ、時折、踏み潰されながら転がる。人形のようにされるがままで、悲鳴ひとつあげない。

 このままでは下敷きになるが、いつの間にか首無し死体に足をつかまれ逃げられない。

 巨大な頭が目の前まで近づいたとき、何度も押しつぶされ、あちこちへしゃげた人間と、目が合った。

 それは死体のような青白い顔をして、どうしてこうなったのだろう、と呆けた顔をしていた。

 ああ、これは僕だ。

 そう認識した瞬間、ぐるりと世界がまわった。 


 目を覚ますと、灰色の世界が広がっていた。

 天井も掛け布団も壁も灰色だ。

 怠け癖がとうとう頭にまで及んだのか、色を認識する力すら失ったようだ。

 絵描きとして致命的じゃないか、と思ったものの絶望や悲観といった感情は伴わない。とっさに出てきた、ただ反射的にでてきた言葉だった。

 そもそも自身をまだ絵描きだと認識していたのだと驚いた。

 最後に絵を完成させたのはいつの日か。

 半年前か、一年前か?

 絵を描かなくなってどれくらいまでの間なら、絵描きとして名乗っていいのだろう。そう考えている時点で、だいぶ終わりな気がする。

 この有様を祖先たちに見られたら、石でも投げられるだろうか。


 我が家――グレイ家は、一枚の絵から始まった。

 初代ルシアン・グレイは、国の役人として救世主の磔刑に立ち会った。

 本来は職務としてその場に立つだけのはずだった。

 しかし、目の前で繰り広げられた光景に心が揺さぶられた彼は、衝撃のままに三日三晩、壁に向かい続け、救世主の姿を書き上げた。

 そうして生まれた壁画は、見た者すべてにまるでその場に立ち会ったかのような臨場感を与え、信仰を持たぬ者でさえ、神秘の念にうたれ涙した。

 国はただちに壁を破壊するよう命じたが、信者たちはその欠片に密かに守り抜き、今もいくつかは博物館の奥に静かに飾られている。

 騒ぎの責を問われ、ルシアンは職を辞し、旅に出た。

 彼は、自らの目で見た真実をありのままに描くことこそ、自分の務めだと信じていた。各地を巡りながら筆をとり、その思いと確かな技は子孫へと受け継がれていった。

 いつしか人々はグレイ家の者を「神の手」と呼び、歴史の真実を描き残す家として知られるようになった。

 ある時は、王権を簒奪さんだつした王妃に肖像画を所望され、そのヒキガエル顔を美化することなくそっくりそのまま描き、激怒した王妃により完成された肖像画とともに四肢を引き裂かれた者がいた。

 ある時は、大敗をきっし、自国へ敗走した兵士たちの絶望と恐怖に打ちひしがれたうつろな顔をあますところなく表現し、国から一族ごと追放されたこともある。

「力ある者は真実を変えようとする。けれど歴史は勝者の記録であってはならない。虚飾せず。歪めず。ありのままに。ただ記録を残すために。なぜならこの力は神からの授かりものなのだから」

 祖父が僕の手を取り、何度も繰り返した言葉は、今も耳の奥に残っている。


 生まれ育った屋敷の長い廊下の両側の壁には、代々の祖先たちの肖像画が並んでいた。歩を進めるたび、彼らの視線を背に感じ、自然と背筋が伸びる。

 いつか父の跡を継ぎ、この列の一人となる――それが当然のことのように思っていた。自分もまた、この系譜の一部であると、疑うことなく信じていた。


 しかし、そうはならなかった。


 グレイ家の歩みを終わらせたのは、権力による弾圧でも迫害でもなく、時代の流れ――すなわち写真の登場だった。

 十九世紀前半、ある発明家が銀を塗った銅板に光を焼き付ける手法を公表した。その精緻な像――写真は〝記憶をもつ鏡〟と呼ばれ、政府が特許を買い上げ、一般に公開すると、瞬く間に広まった。

 各地に写真館が生まれ、新聞や歴史書の挿絵は写真に取って代わられた。

 これまで一部の者だけが持てた「記録」は、多くの人々の手に渡り、誰もが肖像や風景、災害までも写し取るようになった。

 一方で、〝神からの贈り物〟とグレイ家の者たちが信じてきた力は〝まるで写真のように描く能力〟と言われるようになった。

 それでも父は筆を置かなかった。何を言われようと、ただ静かに描き続けた。

 だが、ある日、父の中でなにかがぷつりと切れたのだろう。

 彼は自ら火を放ち、先祖の絵とともに燃え尽きた。


 写真がこの世に現れてから十年。

 グレイ家のすべては、灰となって消えた。


 幼い頃からこの家に生まれた者の使命はなんたるかを叩き込まれた身としては、身勝手に一人残されたとしか思えず、かといって恨み言を言う相手はもういない。 

 どこぞの国で新たな皇帝が誕生しても、かつての祖先たちのように歴史の目撃者になる気になれない。

 カメラを手にした記者たちがスクープを求めて世界を渡り歩いている一方、己はあまり代わり映えのしない灰色の日々を送ってこのまま歳をとっていくのだろう。

 幸か不幸か、慎ましく生きていけるぐらいの金があった。

 もし一文無しだったなら、感情を脇に置いて、働くほかなかっただろう。

 だが、金があったがゆえに、この有様だ。

 酒や賭け事に身を崩すほどなげやりにもなれず、かといって気持ちを切り替えて、新しい生き方を探そうという気力もない。

 何にたいしても中途半端で、ただただやる気のないまま、無為に怠惰に日々が過ぎていく。

 望みを問われれば、答えはひとつ。

 このまま何もせず、ベッドの上で時をやり過ごしたい。

 できることなら、眠りの中でそのまま目を覚まさずにいたい。

 

 そうはいっても、起き抜けの喉の渇きに耐える根性なんてない。

 よろよろと立ち上がり、台所で水を飲んでいると玄関からコツコツコツコツと音が聞こえた。

 来訪者の予定はない。

 返事しないまま放置していれば、扉の隙間からひらりと葉書サイズの紙が落ちた。 

 何かの勧誘だろうか。玄関の外から人の気配がなくなるのを待って拾うと、思わず息をのむほどの、幻想的な絵であった。

 静謐を感じさせるどこか暗い空間で、一人ポツンと子供が淡い光を放ちながら立っている。こちらに背を向け、顔は見えない。足まで隠れるような長い白のワンピースを着ており、ふんわりとウェーブがかかった金髪から、ちらりとのぞくうなじが妙に艶なまめかしい。

 何より目を引いたのは、肩から先の部分。

 本来腕のある場所には――大きな翼が生えていた。

 紙をめくれば裏側に一言、『あなただけの天使を』と美しい筆記体で書かれていた。

 絵ではなく写真だと気づいた瞬間、ぞくりと肌が粟立った。

 会いたい。

 彼女は灰色の世界で唯一、光り輝く存在だった。

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