カラスの食卓

をはち

カラスの食卓

東京の下町、焼け焦げた廃墟の隙間にひっそりと佇む一軒の家。


かつては笑い声が響き、食卓には温かな湯気が立ち上っていたその家は、今や死の匂いに満ちていた。


1945年、終戦直後の日本。


街には死体が転がり、犬やカラスがその肉をついばむ光景が日常と化していた。


空腹と絶望が人々の心をむしばみ、生きるための僅かな希望さえ闇に飲み込まれていた。


この家には、かつて老夫婦と若夫婦、そして二人の男児と一人の女児が暮らしていた。


だが、戦場に駆り出された長男が還らぬ人となり、家長の座は自然と舅の重蔵に渡った。


重蔵は地主としての立場を盾に、戦中から続く配給制度の混乱をものともせず、食糧を確保していた。


配給所では遅配や欠配が当たり前だったが、重蔵の家には米や野菜が集まり、家族は飢えを免れていた。


少なくとも、最初のうちは――


だが、ある日、重蔵が突然倒れた。


熱に浮かされ、うわ言のように奇妙な言葉を口にし始めた。


「カラスが…見てる…」


彼の目は虚空を彷徨い、時折、窓の外に集まる黒い影をじっと見つめた。


家族は彼の異変に戸惑いながらも、看病を続けた。


だが、重蔵の病が長引くにつれ、食糧を持ち込む者たちは一人、また一人と姿を消した。


地主の威光は色褪せ、かつての恩恵は途絶えた。


食卓に並ぶのは、日に日に乏しくなる米の粥だけ。


嫁の美津江は、初めて闇市へと足を踏み入れた。


そこは、欲望と絶望が渦巻く無法地帯だった。


相場を知らぬ美津江は、ハイエナのような商人に騙され、亡夫の形見の指輪を一本の痩せたサツマイモと交換した。


家に持ち帰ったその芋を、重蔵は無言で貪った。


家族が見守る中、彼は子供たちの分まで奪い、まるで自分が生き延びることだけが全てであるかのように振る舞った。


「じいちゃん、ちょっとでいいから…」と、女児の美代が小さな声で訴えたが、重蔵は聞こえぬふりで箸を動かし続けた。


美津江は胸を締め付けられる思いで子供たちを見つめたが、逆らうことはできなかった。


舅の目は、かつての威厳を失い、どこか獣じみた光を宿していた。


やがて、飢えが家族を蝕み始めた。最初に倒れたのは美代だった。


小さな体は、冷たい畳の上で静かに息を引き取った。


続いて、男児の太郎と次郎も力尽きた。


美津江は我が子の亡骸を抱きしめるように泣いたが、涙さえ枯れ果てていた。


姑の春江もまた、衰弱の果てに逝った。


家の中は死の静寂に支配され、ただ重蔵だけが生きながらえていた。


だが、不思議なことに、重蔵自身も痩せ細っていく。


あれほど食に執着していたはずの彼の体は、まるで何かに吸い取られるように衰えていた。


美津江は、舅の体が弱っているのだと自分を納得させた。


だが、彼女の心の奥底では、名状しがたい恐怖が芽生えつつあった。


ある晩、美津江はふと目を覚ました。


暗闇の中で、かすかな物音が聞こえる。


台所の方からだ。


よろめく足で向かうと、そこには重蔵の姿があった。


彼は手に握った雑炊の椀を、窓の外に差し出していた。


黒い影が群がり、けたたましい鳴き声が夜を切り裂く。


カラスだった。


無数のカラスが、重蔵の手から雑炊を奪い合うように啄んでいた。


美津江の背筋に冷たいものが走った。


「お義父さん…何を…」


重蔵は振り返り、薄く笑った。


その目は、もはや人間のものではなかった。


「カラスは…知ってるんだ。誰が生きるべきか…誰が死ぬべきか…」


彼の声は低く、まるで地の底から響くようだった。


翌朝、美津江は力尽きた。


彼女が最後に見たのは、窓辺に群がるカラスの群れと、その中に立つ重蔵の影だった。


彼はまるで王のように、カラスたちに食を分け与えていた。


だが、その食卓に家族の姿はもうなかった。


重蔵は一人、廃墟と化した家に残った。


カラスたちは毎夜集まり、彼の手から食を奪った。


やがて、重蔵の体もまた、カラスについばまれ、あとかたもなくきえさった――


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カラスの食卓 をはち @kaginoo8

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