明日の約束

らぷろ(羅風路)

明日の約束

ベンチの鉄板は、夜の冷えをまだ少し抱いていた。人口5万人ほどの町にあるJRの駅、上り線のホーム。始発から数本が過ぎ、通勤の群れにはまだ早い。風が線路の礫を撫で、遠い踏切が規則正しく鳴る。長椅子には彼女と初老の男が座り、空は薄い灰色を広げていた。彼女はコートの裾を指でつまみ、線路の継ぎ目に視線を落とす。そこは思考が滑り落ちては留まり、また登り直す、細い階段の踊り場のように見えた。


「元気がなさそうだけど、どうしたんだい」


初老の男が、帽子の庇の影から静かに言った。責める調子はない。ひとつの事実にそっと触れるだけの、穏やかな声だった。彼女は顔を上げかけ、言葉を失ったまま目許に熱を集めた。泣いても軽くならないことを知っている。それでも喉の奥で何かがひくついて、呼吸とぶつかる。


「すみません……大丈夫です」


紙の端に最初の線を引くみたいな、かすかな震えの声だった。遠くで1本、列車が通過する。ベンチの脚から脛へと、目に見えない振動がじわりと伝わる。彼女は肩を小さくすくめ、冷えた空気を入れ替えるように深呼吸した。


彼女は35歳。市役所の福祉課で臨時職員として働いている。昨夜、交際相手から結婚を申し込まれた。指輪はまだないが、目の温度も言葉の置き方も揺るぎなかった。平らな食卓、窓辺で乾くタオル、台所に並ぶ2人の背中——そんな景色に何度も手を伸ばしてきた。なのに今朝、彼女はここで足を止めている。差し出された光へ正面から目を向けられず、線路の黒へ視線を落として。


「結婚を、申し込まれました」


彼女が言うと、男は目尻の皺をやわらかく寄せた。


「それは、よかった。これからが楽しみだ」


ありふれているのに、内部に小さな火を宿す響きだった。彼女はその温度に当たりながら話し始める。相手の仕事のこと、休日の過ごし方、ふたりで観た映画の台詞、住まいをどの辺に借りるかという地図上のやりとり、家計の分担。窓辺の観葉植物は場所を変えると機嫌を損ねる、といった細部まで自然と口をついた。男は相槌を打ち、上唇がわずかに持ち上がる癖のある笑みを何度か見せた。その笑みは目元まで細くなり、歯並びの偏りさえ親しみに変える。


ホーム反対側の長椅子では、学生らしい2人がスマホを向かい合わせ、音を切った画面に肩を寄せている。風が古い広告枠を鳴らし、針金が細く鳴いた。彼女の言葉はゆっくりと、しかし確実に内側へ向かい始める。転轍機のレバーに触れるような、次の切り替えの感覚。


「でも、そのまま受け入れることが、まだできないんです」


男は庇の影の下から彼女の横顔を見た。問い方は軽く、背中に手を当てるみたいだった。


「心配ごとが、あるのかな」


彼女はうなずき、言葉の並びを慎重に確かめた。


「家のことが気になって。ひとりでいる時間が長くなると、落ち着かないみたいで……火の元は出かける前に確認して、ブレーカーも一部落とすんですけど、食器を落としたり、夜中に玄関で靴を探したり。私が帰ると、玄関の前で待っていることもあります。近所の方が声をかけてくださるのは、とても心強い。でも、1時間と2時間が同じ長さに感じられないことって、ありますよね。時計は、心のほうで動くから」


そこで彼女は言い淀み、膝の上で手を組んだ。柔らかな言い換えの向こう側に、暮らしの細部が静かに積もっている。男は帽子の庇を指先で軽く押さえ、風の向きを測るように顔を上げた。


「お願いできる人は、ほかにもいないのかい」


「います。地域の方も、職場も。でも、目が1つ増えるだけでは足りないときがある。夜の廊下は長く、台所のポットは重く、玄関の鍵は見当たらない。そんな時間の中で、私の名前が呼ばれるような気がするんです。家の灯りを遠くから見ると、つい小走りになる」


彼女は息を吸い、胸の奥に空気の位置を決めた。


「相手は待つと言ってくれます。けれど、人は待つ間に変わる。待つ側も、待たれる側も。『自分の幸せがまわりの幸せになる』って、きれいで、少し怖い言葉です。私の幸せって、どこから始まって、どこまでなんでしょう」


男はしばらく黙り、線路の音に耳を澄ませるように視線を落とした。


「家のことを大切にするのはいい。でも、自分の呼吸を確かめる時間を取るのも、同じくらい大切だよ。君が笑う時間が増えると、まわりの人の呼吸は少し楽になる。その順番は、案外まっとうなんだ」


「……そんなふうに、できるでしょうか」


「できるように段取りを考える。段取りは気持ちを裏切らない。状況に裏切られても、段取りは何かを残す。頼ること、制度に触れること、役割を分けること。『全部自分で』を、少しだけ緩めてみる。そこから始めればいい」


段取り、という言葉に彼女は小さくうなずいた。福祉課のカレンダーにも、家の冷蔵庫のメモにも、いつも書いている単語。予定は予定でしかないが、予定がなければ心はもっと散らばる。印と印のあいだに余白を置くこと、その余白を罪ではなく呼吸とみなすこと。彼女の中で何かがゆっくり、正しい位置に置き直される。


「ここに来るのが、好きなんです」


彼女の視線はホームの端に向かった。


「電車が来て、去っていくのを見るのが。音がわかりやすいから。アナウンス、ドアの開く音、踏切……時間が目に見える形で進む。ここにいると、いろんなものが整う感じがします」


「駅は、決心が集まる場所だからね」


男は穏やかに言った。出る人、帰る人、迷う人、待つ人。誰もが小さな決心を抱え、同じ白線の内側に立つ。決心の気配は風に混ざり、ホーム全体をゆっくり撫でていく。反対側の学生2人が立ち上がって改札へ向かい、古い広告枠の空白は朝の光を受けて白く光った。彼女はその空白に自分の迷いを書いてみるところを想像し、すぐにやめた。迷いは個体で、説明書にすると形を変えてしまうからだ。


男は足元の布の手提げを膝に載せ替えた。角は擦れ、持ち手から古い木札のキーホルダーが下がっている。数字の刻印は少し褪せ、角は時間に丸められている。彼女はそれを見て、掌で木の端をなぞる感触を思い出した。乾いていて、少し温かい、昔からの手触り。胸の内に小さな灯が点る。風では消えない種類の、ゆっくり燃える灯りだった。


彼女は心の中で段取りを組み替えた。地域包括支援センターにもう一度連絡する。送迎の曜日を見直し、短時間の見守りを追加できるか尋ねる。職場では週1日の時短を相談して、繁忙期の応援体制を前もって調整する。相手には「待って」ではなく「一緒に組み立ててほしい」と伝える。頼ることの地図を描き、頼られすぎない線を引く。余白を恐れず、余白を呼吸と呼ぶ。そうやって、印と印の間に、転ばない幅を確保する。


風が少し強まり、庇の影が彼女の頬をかすめた。ホーム全体の空気がわずかに重くなり、遠くから低い響きが押し寄せる。定型の抑揚がスピーカーから滑り出た。


『まもなく、上り列車が参ります。白線の内側までお下がりください』


その言葉は、体のどこかを確かに押す。彼女はベンチの端に手を置いて立ち上がり、隣の男の手提げを肩にかけた。布の軽さに、長い時間が含まれている。彼女は男のほうを向き、自然に片手を差し出し、男の顔を見た。庇の影の奥で、瞳が一瞬、驚きの色を宿す。それはすぐに和らぎ、安心の色へと変わる。彼女は肩の手提げを持ち直し、短く息を整えた。


「電車が来たわ。お父さん、乗りましょう」


男はほんのわずか目を見開いた。次の瞬間、頬の線がゆっくり緩み、目尻の皺がひとつ深くなった。差し出された彼女の手に、自分の手を重ねる。指が触れ合い、温度が確かめ合い、握る力がほんの少しだけ強くなる。2人は並んで明るい四角へ歩き、段差をひとつ越え、ドアの内側へと身を滑らせた。


——終。


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日本は超高齢社会と呼ばれるようになり、認知症は避けて通れないテーマになっています。65歳以上の約12%が認知症、軽度認知障害も含めれば3割近くに達するそうです。年齢が上がるほど割合は急増し、80代後半では3~4割、90歳を超えると半数以上という数字には驚かされます。背景には寿命の延びと高齢者人口の増加があり、2012年に462万人だった患者数は、2025年には約700万人に達すると予測されています。まさに「5人に1人」が認知症になる時代です。ただ一方で、生活習慣の改善や早期の気づきが進んだおかげで、増加が想定ほど急ではないとの調査もあります。糖尿病や高血圧などの生活習慣病がリスクを高めることを考えると、日々の健康管理が何より大切ですね。認知症を完全に防ぐことは難しくても、進行を遅らせ、自分らしい生活を長く続けられるようにすることはできるはず。私たち一人ひとりが日常の習慣を見直すことが、未来の安心につながるのだと感じます。

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