ごっこあそび

三門慎治

第1話 筒井康隆ごっこ

無為の鬼


 山の奥、村人が近づくことすら面倒がって「もうあそこは地図から消してしまえ」と言い合うほどの寂れた寺に、一匹の鬼がいた。いや、一匹といっても正確には一体かもしれないし、一座かもしれないし、もしかすると幻影かもしれないが、ともかく鬼と呼んで差し支えない存在がいた。


 その鬼は、角が苔に覆われ、牙が黄ばんで、尻尾があるのかないのかすら定かではなかった。もしかすると最初から生えていなかったのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、鬼がそこにいた、という一点だけである。


 鬼は動かなかった。呼吸はしていた。瞬きもした。だがそれを「動いた」と数えるかは怪しい。ならば石像と変わらないのではないか? その疑問は禅問答めいて収拾がつかなくなるので置いておくとして、結局のところ鬼は「何もしていない」という偉業を続けていた。


 村人はそれを恐れた。

 「鬼は目を閉じて夢を喰っておる」

 「いや、怠けすぎて力を溜めておる」

 冗談めかした噂と陰鬱な噂が混ざり、理屈にならぬ理屈が増殖する。人は分からぬものに恐怖を与えておく習性がある。夜の物音を猫より幽霊と決めるように。やがて村人たちは討伐隊を組んだ。まるで鬼に背を押されたかのように。


 「鬼が動かぬのは嵐の前触れだ」

 「いや、怠けすぎて力を溜めておるのだ」


 村人たちは勝手に理屈を作り、納得し、結局討伐隊を組んだ。鬼本人はもちろん、何もしていないのに。


 討伐隊は確かに山を登った。少なくとも彼らはそう思っていた。だが登っていたのか下っていたのか、確かめる者はいなかった。


 「鬼は北の尾根にいる」と前列が叫ぶ。中列に届くころには「鬼は尾根にはいない」と変わり、後列に届くころには「鬼は我らの尾根を噛み砕いた」になっていた。尾根とは何か。地形か、背骨か、団結心か。答えは三様、いや無数に増えていき、誰もが誰をも疑い始めた。


 そのとき誰かが叫んだ。「見ろ、あれが鬼だ」。

 全員が見た。だが、誰も見えてはいなかった。

 見えぬものを「見ろ」と言われた群衆は、見えたふりをするしかない。臆病者と呼ばれたくないからだ。かくして「鬼はいる」という合意が積み上がり、そこに鬼は在ることになった。


 では本当に鬼がいたのか? 疑わしい。だが槍を突いた者は確かに狙った。狙った以上、鬼はいたことにしなければならない。でなければ事実そのものが虚ろになるからだ。


 こうして槍は仲間の背を貫き、太刀は味方の腕を落とした。鬼は動かない。ただそれだけで、討伐隊は勝手に崩壊していった。


 混乱は拡大した。声は罵声に、罵声は悲鳴に、悲鳴は笑いに変わった。誰も止められなかった。結局すべてを「鬼の術だ」とするしかなかった。確証はない。だが疑えば自分が狂っていることになる。だから叫ぶしかなかったのだ。


 「鬼が逃げたぞ!」誰かが叫んだ。

 だが討伐隊は最初から鬼が寺にいると知っていたはずだ。知っていたはずなのに、逃げたという叫びを否定できなかった。否定すれば自分だけが間違っているように思えたからである。


 「尾根を越えた!」

 「いや谷へ降りた!」

 「谷ではなく寺だ!」


 矛盾していた。鬼は最初から寺にいるはずなのに、尾根を越え、谷に降り、そして寺に籠もったことになっていた。

 それでも誰も疑わなかった。なぜなら、矛盾そのものが鬼の術だとしか思えなかったからだ。


 「おのれ、鬼の術とはやっかいな……」

 誰かがそう呟いた瞬間、討伐隊は全員、まるで納得したかのように頷き合い、夜。討伐隊は寂れた寺に辿り着いた。


 もっとも、辿り着いたのか、辿り着いた気がしただけなのかは定かではない。右に進む者もいれば左に戻る者もいた。立ち止まる者、座り込む者もいた。すでに「隊」と呼べるものはなく、ただ寄り集まった群衆が「ここだ」と決めた──それだけだった。


 そのとき、奥の鏡が光った。月明かりかもしれない。雲が多かったという者もいた。だが翌朝になってから語ったことなので、証言の信頼性は低い。


 鏡には鬼の顔が映った──と信じられた。だが顔だったのか、虚無だったのかは分からない。映らぬ事実を映したのかもしれない。それでも、人は「そこに鬼がいた」と言わざるを得なかった。


 その瞬間、声がした。

 風だったのか、木々だったのか、あるいは誰かの震える膝だったのかもしれない。けれど確かに響いたと信じられた言葉がある。


 「我は無為」

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