第4話
サッカーボールの次はルービックキューブ様のサイコロだった。厚紙製で耐久性は微妙そうだと見取れる。歩いていて踏みそうになったところを保護した。
特徴はなんと言っても六面に記された文字だろう。『笑える話』だとか、『恋の話』だとか、極めつけには『当』とだけ書かれた面までもがある。
「ごきげんようってか……」
「懐かしいな」
少し屈んで、試しに砂場へ軽く放ってみる。風がかさかさと運んだ先では赤色の『怒った話』が太陽に晒されていた。
サイコロを拾い上げる。わたしが投げたことに鑑みて、わたしが話すべきだろうか。『君』は全身の影と共にきらきらとした眼差しを降らせる。
面白トークのストックなんて無いのだけど。頭をぽりぽり掻きつつ期待に応えようと模索している辺り、わたしはチョロいのかもしれない。
「まあ、強いて言えばこの変な状況に怒ってるかな」
「本当かい?」
「いや……正直あんま」
意味不明ではあるものの、怒りは湧かない。服が無いことにも、もはや慣れてきてしまっている。『君』はつまらないとゴネるが、そう言われても困るというもの。
「昔の話でもいいよ。自分の髪を掴んでみたら痛くて怒ったとか、自分の右手で自分の右手を握れない不可解に怒ったとか」
どんな馬鹿だと思って想像してみるが、それってただの乳児である。
「覚えてないよそんな昔のこと」
「おや、幼い頃の記憶が戻ったと言わなかったかい?」
「戻ったには戻ったんだけど、本当に元通りなだけでさ。君が持ってる幼い頃の記憶って大概薄れてるでしょ。その薄れた記憶が戻ってきただけだから、あまり新鮮に覚えているとかじゃないんだ」
「ほう……それなら、自衛本能で忘却してしまったトラウマなんかも戻ってはこないのか」
それはおそらくそうだが、このタイミングで言ってしまうのは少々思わせぶりではないのか。
「もしかして、君がわたしにトラウマ植え付けたとか?」
『君』は冗談半分の問いを絶妙な間で無視し、わたしの傍にしゃがむ。サイコロを拾い上げると「えいっ」上投げで放り投げた。
サイコロは数メートル先に落下し、すぐさま立ち上がった『君』がその出目を確認する。横着に座ったままで出目を見ようとしたわたしは出遅れ、立ち上がろうとした瞬間に『君』が回収しに行ってしまった。今度は少し離れた場所に立っている『君』へ気持ち程度に大きな声で問いかける。
「何が出た?」
「何だと思う?」
「えー……じゃあ『恋の話』」
「正解! あ、そうだ。さっきの問いへの答えだが、わたしはあなたのトラウマになるようなことはしていない!」
なぜ今。とはいえ、質問には答えてくれた。
「そうなんだね。じゃあ恋の話……」
「それでは、次だ」
「は」
掴まれたサイコロは、再度上投げにより弧を描く。立ち上がっているだけ、威力も先程より強い。というか、かなり本気で投げたらしい。わたしの目にはもう粒ほどの大きさにしか見えない。サイコロは軽いため、風も助けて更に遠くへ流れていく。
「追うぞ!」
『君』が先行して走りだす。翻るスカートを目で追っているうちに危機感がようやく訪れた。
「ちょ、待って!」
サッカーボールの事例から推測すると、あれも大事な手がかりである。今、六歳までの記憶があるということは、もしかすると十二歳までの記憶があそこに詰まっているのだ。
焦りが脚を動かすが火事場の馬鹿力は出ず、前の背中からはどんどん引き離されていく。サッカーをしていたとは言うが、脚が速くは無いらしい。もしくは、どこかのタイミングでサッカーをやめて衰えているのか。どちらにしても、『君』が速いということも考慮に入れなければならない。
いよいよ『君』の背中が見えなくなり、風の向きだけを頼りに走り続ける。ずっと追い風なので、サイコロも『君』も方向転換はしていないだろうと賭けた。不安が足を止めそうになるが、止まれば状況が悪化する気がして、結局は走った。
もしわたしが一人で遭難しても、また『君』が見つけるはずだ。彼女は孤立した私を二度も見つけ出しているのだから。やや無責任な信頼が不安を若干和らげ、少し前向きになれた。
しかし、信頼や不安とは別の問題として体力切れは起こる。気温が高いことも限界を早めたのだろう。
前も方向もわからなくなったままで走り続けると、やがて脚がもつれて正面から倒れ込んでしまった。
「むりだ」
左頬を砂に付けて喘ぐ。全身の汗が砂に染み込んでは乾いていくのがわかった。このままわたしも干からびてしまいそうだ。
酸素の足りないまま、先程の気休めを思い返す。
わたしが遭難すると、『君』は必ず来てくれた。その実績はまだ二件だが、この短時間なので十分信頼には足りている。
全身で息をして、待つに徹する。
「おーい、わたしはここだー」
精一杯を振り絞ると、また酸素が足りなくなった。必死で息をして脈拍を整える。『君』が来てくれるなら、と安心したのかもしれない。案外余裕はあった。
「…………………………………………」
が。
『君』はなかなか姿を現さない。動けるほどには体力が戻ったので、立ち上がって見渡す。人の姿は一切見当たらない。広大な砂場が展開されるだけで、当然サイコロもない。焦りが再び頭を出す。
「ちくしょー!」
もう考えることも面倒で、なけなしの体力を走りに注ぎ込む。前だと思った方向へただ向かうことにした。
そして、一度倒れてみて思い出したが、裸足なんだった。そりゃあ追いつけないはずである。
走っては限界を迎えて倒れ込み、またそれを繰り返し、四回目倒れたときに、ようやく景色が変わった。
「あ、ようやく追いついたか。心配していたんだぞ」
耳鳴りの中でかろうじて聞こえた声の方へ顔だけ向けると、『君』が正座をしていた。文句の一つでも言ってやりたかったが、話すのに使える酸素は余っていなかった。
「ふふ、またしても死にかけのカエルの真似かい?」
腕を振って抗議の意を示す。想像以上に可動域が狭く、気持ちが伝わったかどうかは定かでない。『君』は何を感じ取ったのか、正座のままのそのそとこちらへ向かってきた。
そして、わたしの顔を覗き込む。鼻息が鼻先の汗を乾かすほどの接近に、脈拍が速いまま収まらない。
「呼吸、辛い?」
はいと言うにも頷くにも近すぎる距離で、ただ目を閉じるしかなくなった。
そして、咄嗟の判断が良くない方へ転んだ。
『君』は脱力したわたしを仰向けに転がして、顎を若干持ち上げる。
「な?!」
益々近づく『君』の気配にいよいよ目を開けられず、それを待ってしまう。
「ふあ」
鼻をつままれた。想像していたことと違い拍子抜けするとともに、数秒前までの期待を恥じる。
そして、息が苦しいことに気がついた頃には、またしても想像外のことが起こる。
「フゥーッ!」
「!?!?!?」
開いた口に『君』の口がぴったりくっついて、非常に効率的に空気を吹き込まれている。されるがままに肺が膨らむ。口と鼻が解放されたかと思えば、再び息が吹き込まれる。
「のあ! わ!」
状況にようやく追いついて飛び起きる。意識があるままで人工呼吸をする奴があるか! 突き飛ばされた『君』は頭から吹っ飛んだ。
まずは唾液の触れた口を手の甲で拭く。しかし肺の中は未だ『君』の甘い匂いで満たされているような気がして、落ち着かない。口の中も、甘い。
「元気になってくれて良かったよ……」
吹っ飛んだ勢いでその髪は少し乱れ、呼吸は少し荒い。やや上気した頬と照れ笑いにも見える微笑が表情を艶かしく感じさせ、これでは、なんだか。
なんだかじゃないか。
「なんだかって?」
「察せ! てか、また読心……」
既視感を覚える。そして、例のごとく走り終えた私の喉は乾燥でくっつき気味である。あと、今更になって腹の虫が鳴る。
「私があなたを探しに行けなかった理由がわかるかい?」
急に立ち上がった『君』を目で追う。
「これさ」
立ち止まって振り向いたその背後には、白く大きな立方体がそそり立っている。
近寄って見ると、それはカップ麺の自動販売機だった。
お金の投入口とラインナップの五種類は一般的な自販機と同じように配置されているが、小さな作業スペースとお湯入れが異質で好奇心を刺激する。
「なんか珍しいね」
「そうだな、少なくともわたしの地元では見たことがない」
二人とも同程度知らない物が存在している事実が嬉しい。その方が対等であるような気がするから。わたしの方がこの珍しい自販機に興奮している感は否めないが、誤差ということにしておく。
麺は醤油ラーメン・シーフードラーメン・カレーラーメン・きつねうどん・たぬきそばの五種類だ。値段表示は無く、試しに醤油を押すとそのまま出てきた。もちろんお金は入れていない。デジャヴュ。
ということは、これを食べれば記憶が戻るのだろうか。
「いや、醤油とは限らないだろう」
「確かに」
さっきはジュースで記憶が戻った。しかし、その前に飲んでいた水では戻らなかった。思い出に強く結びついた味を摂取する必要があるというわけだ。
「じゃあ全部作って一口ずつ食べればどっかのタイミングで当たるね」
「まあ、それが確実か」
五種類にそれぞれお湯を入れて、それぞれに割り箸を与えた。割る前の割り箸を縁に取り付けることで蓋が開いてくるのを防げると、意外な分野でも『君』が物知りを発揮する。
どこまでもデキる人間であるというか。単に器用なだけというか。
「お褒めにあずかれて光栄だな」
「そういえばモノローグ死んでるんだっけ……」
「私はデキる女だし、三分待つ間にトークをしようか。因みに、やっとサイコロに追いついたときの出目は『初めて○○したときの話』だった」
「初めて」
「ここは、初めて人工呼吸したときの話でも」
「やめろ!」
「初めてがさっきのだと、一言でも言ったかい?」
「そう何度もすることじゃないでしょ、人命救助だぜぇ?」
「何度もしたとは言っていないじゃないか。さっきのは二度目だ。一度目はここに来る前に、少しね」
「人命救助を?」
「ああ、助けられなかったが」
「……それは」
「まあ、もう気にしていないからいいんだ。あの時点ではもう為す術も無かったと、後から教えてもらえたし」
「……なんか……強いね」
「はは、言葉を選んでくれてありがとう。しかし、まあ、薄情なだけさ」
「薄情なら、人命救助しないよ」
「あなたがそう言うのならそうなのかもしれない」
「いや、わかんないけど……」
「あなたはどこまでも優しい人だね」
「どのへんが」
「よし、三分経ったかな」
「急に切り上げた」
「一口目は私が食べさせてあげよう。どれが食べたい?」
「自分で食べるよ」
「割り箸はすべて私の手元にあるので、それは不可能だ」
「ええ―……じゃあ、カレー」
「一番食べたいやつがこれかい?」
「まあ、その中なら」
「では、醤油からいこう」
「なんで聞いた!」
「一番食べたい味が思い出のそれである可能性が高いだろう。さっきのジュースだってそうだったはずだ」
「まあ、飲みたいって思ったのがグレープサイダーだったね」
「そして、覚えていないかもしれないが、あなたが意識を失った瞬間にグレープサイダーから麦茶まで、その場にあったペットボトルは消え失せてしまった。トリガーを一口でも口にすればアウトというわけだ」
「わたしがカレーラーメンを一口食べればすべて消えるかもってこと」
「そういうわけだ。だから、ハズレであらかじめ腹を膨らませておくという作戦でどうだい」
うどんとそばはセーフだった。そのため、二人で一旦すする。
一気にすべてお湯を入れたのは悪手だったかもしれない。こうしているうちにも伸びていっているのだから。
「君は醤油とシーフードどっち食べたい?」
「私はもう、このそばだけで満腹だ」
「わたしに全部食べろと?」
「いや、そもそも食べきる必要があるのか」
言われてみれば疑問に思えてくる。ここで定義される食べないとは即ち廃棄するということなのだろうか。しかし、わたし達は少なくともその手を下さない。きっかけがあると幻のように消えてしまうものだ。ならば、残しても良い気はする。
「でもなぁ、なんか気が引けるなぁ」
「食いしん坊だなぁ」
そばをすすり終えると、醤油ラーメンに手を伸ばす。一口すするが、意識ははっきりとしている。すする。ちょうど冷めてきて食べやすいかもしれない。勢いがないと一気に厳しくなるため、早くもすすり終える。シーフードに手を伸ばした瞬間に、遮る手が現れる。
「やめておいた方が賢明だと思うが。この後もまた歩かなくてはならないんだ」
その顔は幼子を苛めるかのごとく苦笑を浮かべている。そして、遮った方ではないもう片手には、いつの間にかサイコロが握りしめられていた。
「あれだよ、食いだめ」
「実はね、人間は食いだめができないんだ」
「チャレンジだよ、何事も」
戯言を交わし、遮る手をすり抜けた。食い意地が『君』をも越える。
「歩けないと言い出しても、置いていくからな」
「正直迷ったんだよね。カレーとシーフードで」
特に、幼い頃はシーフードが好きだったと記憶している。カレーは単に、今の気分に合っていただけだ。
ならば、シーフードこそが記憶の鍵なのでは。
そう気がついた頃には麺が口に含まれていた。懐かしいその味を飲み込んだ瞬間に意識が濁る。
「シーフードだったか」
『君』が言っている、ような気がする。その手から溢れたサイコロは少し転がり、初めて見る文字で着地した。それを認めて遂に意識を手放す。
最後に目にした文字列、それは『嘘の話』だった。
荒野のマンガン乾電池 妹野河内 @ohoshisama_kirakira
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