荒野のマンガン乾電池
妹野河内
第1話
眩しい光で目が覚めたときに、後頭部にはざらついた感触があった。関節があちこち軋んでいることに気がついたときに、ここが砂漠だと気がついた。
喉が貼り付いて、乾燥した大気を吸いこむだけでむせ返りそうだ。なるほど、砂漠と聞いて浮かべる印象そのものをなぞっているようである。見上げると、暗くすら見える群青の中に燦々と照りつけるものがあった。まぶ
「くしゅ」
己に光くしゃみ反射があることを知る。
同じく反射的に口元を抑えたのはさらっとした二の腕であり、自分が上裸であることも知る。おそるおそる向けた下半身は、砂の感触で察してはいたものの、やはりありのままの姿をしていた。ビバ全裸。いやいや。
何かを羽織ろうにも見渡す限りに地平が続くのみ、物という物が一切存在しない。少なくとも人目にはつかないという点で全裸の問題は払拭されるだろうと安堵しかけたところ、向こうから何かがやってくるのが見えた。小さな影はぐんぐんと輪郭を持ちはじめ、どうやら人間が走ってきているらしいことがわかる位置までやってくる。
非常にマズい。傍から見ればわたしは露出魔インザデザートに他ならないためである。こちらが自分の動機さえわからず困っていたとして、向こうが汲んでくれるとは限らない。通報されたときに、釈明も懺悔もできないのは嫌だ。
逃げるが勝ち、と意識するより先に走り出していた。
「えげ」
転んだ、と意識するより先に地に手のひらを着いてうつ伏せになった。そうして図らずとも恥部は隠れ、露出魔疑惑を免れることができた。できた? それはこれから向こうが判断することである。が、取り敢えず、わたしの尊厳の一欠片は死守できたのではないか。
「カエルの死んだふりみたいだ」
「ぐ」
背中に降ってきた無邪気なソプラノが、尊厳の大部分を打ち砕く。四肢をぎくりと動かすと更にカエルに近づいてしまった。砂は相変わらずぬるい。背中には高い笑い声が降りかかった。
あどけない声色から、見ずとも走ってきた人が少女だとわかる。なぜわたしの元へ走ってきたのか。そもそもどうしてこんなところにいるのか。君は誰か。
「君は誰?」
まずは、コンパクトに問うてみる。彼女が何者かさえわかれば、他も芋づる式にわかりそうなものだし。歳上らしく厳かに言ってみせると、少々の沈黙の後に少女はわたしの頭側に回り込み、太陽を背にしてわたしを無表情で覗き込んだ。
「きれー……」
鼻筋の通った綺麗な造形をしていたため見惚れてしまう。瞳は猫のように大きく、肌はきめが見えない。長い黒髪とのコントラストで肌は際立って白く、頬がやや上気して見える。声に反して大人びた表情から判断するに、もしかすると彼女の方が歳上だということもあり得た。二人称に『君』を選択したのは悪手だったかもと反省……していたところ、細長く華奢な指がわたしの顎を半ば乱暴に持ち上げる。
「ぐぁ」
「自分のことさえわからないのに、私のことを聞いてる場合かい?」
まったくのご高説に声も出ない。大きい瞳に囚われて息を飲んだだけという説もある。が、そう、そうだ、わたしは自分のことさえわからない。
目が覚めたさっきがわたしの始まり。赤ん坊とは思えない立派な四肢の割に脳内は書きはじめのノートのように厚みがない。比喩が出るくらいだから知識はあるはずで、思い悩むくらいだから理性はあるはずで、しかしその両方の出どころが不明である。
前のページを繰るにも雲を掴むようで、どうやらわたしの内部にわたしはいないらしい。
「では、わたしは何者?」
安直にも外部に求めてみる。
舐めているのかとつま先で蹴られる想定までしていたために、棘のある無表情を少し緩めたのは意外に思えた。「図星か」と空いていた方の手で自身の顎を撫でている。癖なのかもしれない。そういう癖がわたしにもあるなら、それだけでも教えてもらいたいものだ。
「因みに言うと、私はあなたの代わりにあなたの履歴書が書ける」
「それはきっと、とっても詳しいってこと」
「今のあなたよりは、少なくともね。しかし、どうだろうな。私がそれを教えることに意味はあるのかしら」
「君の利益という問題なら、無いんじゃないかしら」
だって、わたしからもたらせるものがない。
「いや、そうではなく」
『君』は淡水色のワンピースの端を摘み、裾が地面に付かないよう縛ってからその場に正座した。その工程があまりに滑らかだから、ここが茶室かと錯覚する。茶道にワンピースの裾を縛る動作など無いのだが、じゃあこれのためにルールブックに追加しちゃいましょうと提言したくなる自然さを内包していた。呆けているところに風が吹き、砂を噛む。依然としてここは砂漠らしい。砂漠のサバイバル少女はそのナイスなミスマッチを無視して淡々と語る。
「血液型占いを知っているかい」
「B型が目の敵にされているやつ」
「記憶が無くてもそういう知識はあるんだな。そう、その血液型占いだ。じゃああなたは、血液型占いに信憑性があると、本当に思う?」
「無いとは思うけど、自分の血液型のとこに良いこと書かれてると嬉しいね」
現状、自分の血液型も知らないけれど。
「そうだな、占いとはそうやって楽しむものだ。自分の血液型は性格が良いと言われれば嬉しい。だから、良い人であろうとこだわって、そのうちに自然と善行をするようになることだってあるだろう。現に几帳面なA型は比較的多いわけで、血液型占いだって馬鹿にはできないと思うんだ」
「ね」
察しの悪いわたし、この人が血液型占いの話を始めた理由がわからない。それを察するみたいに柔らかく微笑んだ『君』は続ける。
「私から見ただけのあなた像をあなたの本質だとして教えれば、たといそれが一面的なことであってもあなたはそれが自分の全てだと思いこんでしまうかもしれない。私はそれが恐ろしい。そうなったとき、私の知るあなたではなくなってしまうだろう」
「ほぉ」
あなたが多い。
「つまり、あなたが自分で思い出してこそ、あなたはあなたになるんじゃないか?」
つまり、わたしが何者かという問いは突っぱねられたらしい。そんな回りくどいこと言わんでも、と思ってしまうのはわたしが元来テキトウな人間だからなのだろうか。現時点のわたし像、光くしゃみ反射持ちテキトウ人間、以上。いやいや。
「せめて、名前とか、年齢とか、履歴書に書ける範囲のことは教えて欲しいかも」
主観に基づいた印象は確かに危険かもだが、客観的事実くらいは知る権利があるのではないか。無いのか。ともかく、これからの行動の指針となる情報は必要である。
「年齢だってバイアスさ。年齢を教えれば、あなたは年齢相応の言動をするようになるだろう」
「そのつもりですが」
「なら、教えられないな。さらけ出して欲しいんだよ、あなたには」
言い分からすれば、わたしはかなりの年増なのだろうか。そうやって身構えただけ、さらけ出すものもさらけ出せなくなってしまうはずだが。全て計算尽くなのだろうか。当惑して、不用意な発言をするようにと。
もしかするとこの人は。
「面白がってるな、君」
「そんなことないさ」
満面の笑みが悪意の結晶に見えるのは、ここまで話して積み立てた偏見に基づいているのかもしれない。あと這いつくばって見上げているため、影がかかって邪悪に見える。
しかし、それにしても、裏を感じないでいられない少女だ。言動がどことなく胡乱げなのだ。予定調和な話し口には無駄な感情が滲まない。あらかじめアフレコされていたものを聞いているように、引っかかりがなく落ちていく。それが却って不気味に思えてならない。
『君』は裾をほどいて立ち上がる。遠い太陽に向かっていく『君』を見て、砂漠だなぁと改めて思って。
「知りたいんだ、あなたの知るあなたのことを」
これだけ、少し真面目に聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます