屋上の対話
正直言って、秘密基地は本命視していなかった。
僕に別れを告げる言葉を吐いたのに、一番ここあになじみ深そうな場所に帰っているはずがないな、と。
それにもかかわらず、最初の行き先としてそこを選んだのは、候補地の中で一番ファミレスから近かったからだ。
秘密基地の玄関ドアには鍵がかかっていたが、窓は開いていた。遠慮なく不法侵入させてもらう。
案の定、ここあはいなかった。トイレにも、風呂場にも、ローテーブルが置かれた和室にも。
秘密基地ではリラックスして過ごせた。
風呂場ではいろんな意味で忘れがたい体験をした。
癪に障るようなことも言ってくるが、圧迫感を覚えるとかはなくて、むしろプロレスをするのが楽しくて、なんだかんだ愉快に過ごせる。それが僕にとっての一之瀬ここあだ。
その彼女が、不在。
「……どこに行ったんだよ、ここあ」
たしかに、あくあは近づきがたい相手かもしれない。
だけど、一回の失敗で諦めるなんて。逃げ出すなんて。そんなの、お前らしくないじゃないか。
「――行こう」
こんなことをしている場合じゃない。
捜し出さないと。見つけ出さないと。
なんとしてでもここあに会って、あいつと本音を戦わせないと。
窓を軽やかに潜り抜けて僕は走った。
恐怖はあった。
ただ、ここあだって物理的な距離を保てば嫌悪感を抑え込めたように、僕も距離さえおけばトラウマに押しつぶされずに済む。
生垣。ここあが僕を見守るときに頼りにした、民家の敷地を囲う緑の壁。
その民家の住人は、依然として留守にしているようだ。
というわけで遠慮なく、あのときにここあがいたポジションにつき、一之瀬家を見据える。
玄関ドアまでは直線距離にして十五メートルほど。鼓動が高鳴ることはないが、決して安心はできない、そんな距離感だ。
金属バットもビニール傘も玄関先から消えている。
片づけたのは、あくあしか考えられない。
あの怪物にも、そんな人間らしい真似をするだけの理性があるのだ。インターフォン越しに僕と会話だってした。「話が通じない」のは、あくまでも部分的に、なのだろう。
もしここあが自宅に帰っていたのなら、あくあとのあいだでなんらかのやりとりが交わされているはずだが、物音や人声などは聞こえてこない。
静かに話し合いをしている可能性は――あり得ないな。
ため息をつかずにはいられない。
秘密基地よりも見込みはあると踏んでいたが、二か所連続であてが外れた。
誰もいない、物も置かれていない一之瀬家は、いたって平凡な一軒家でしかない。
裸の女にバットや傘で襲いかかられる事件が起きたなんて、一人の無辜の少女が自死に追い込まれるまで虐待を受けていたなんて、とてもではないが信じられない。
「……でも」
僕はあくあに襲われ、ここあの助けがなかったら殺されていたかもしれない。
りりあはあくあから深刻な虐待を受けていたと、一之瀬家の一員であるここあが明言している。
そんな恐怖と狂気の家に、僕はもう一度赴かなければならない。
ここあと再会を果たせて、なおかつ彼女が願いを手放していなければ、ではあるが。
「――行かないと」
さっきから僕は物思いに耽りすぎている。
ただ、恐怖を乗り越えてこの場所まで来られたのは収穫だった。
二回目があるとすれば、この経験がきっと活きる。
活かすためにも、僕たちの挑戦をこれで終わらせてはいけない。
僕は歩き出す。二度ほど一之瀬家を振り返ったあとは走行に切り替えた。
事件現場でおなじみの黄色いテープと関係者以外立ち入り禁止の看板、制服姿の警備員、高そうなカメラとマイクを装備したマスコミ関係者。
僕が通うS高校の正門前は物々しい雰囲気に包まれている。
無理もない。昨朝生徒が一人、校舎の屋上から飛び降りて亡くなったばかりなのだから。
無人ではないだろうな、という予想は当然していた。しかし、こんなにも大勢の部外者が集っているとは思わなかった。
事件が異例の注目を集めているのではなく、僕の想像力が少しばかり足りなかったのだろう。
僕は消えたここあの行き先として、僕やりりあが通うこのS高等学校の屋上を本命視していた。
ただ、この警備。このマスコミ。
強引でしたたかなここあといえども、屋上に辿り着くのは無理だろう。現場検証的な作業だって、たぶん現在進行形で行われているだろうし。
落胆したが、気持ちは全然萎えていない。
あいつが足を運びそうな場所にはまだ心当たりがある。
通りをひたすら直進し、途中で道を折れ、遊具が置かれた庭があるアパートの敷地に足を踏み入れる。
疲れもあって、途中からは歩行に切り替えていたが、階段を上り始めると自ずと駆け足になった。
第六感は大なり小なり誰にでも備わっている。
分かる。感じるのだ。
秘密基地でも、一之瀬家の近所でも、S高校でも感じることがなかった、彼女の気配を。
「ここあ!」
鉄扉を開け放つと同時に名前を呼んだ。
人がいた。
亜麻色のポニーテールが風に揺れている。
ここあだ。屋上空間を囲繞する金網フェンスのてっぺんに腰を下ろしている。
フェンスの外側を向いて。
なにかを諦めたような虚ろな目で。
「ここあ! そんなところで、おまっ……早まるな!」
「早まってなんかないよ。ていうか、飛び降りるつもりなんてないし。むしろ、佐伯が興奮してフェンスを猿みたいに揺らして、あたしを落っことさないかを心配してる」
返ってきた声は、思っていたよりもはるかに地に足がついている。
僕の心は瞬時に冷静さを取り戻した。
改めて、ここあの顔を見つめる。彼女がこちらを向いたので、ほぼ正面からのアングルだ。
瞳は、もはや虚ろではない。
顔に浮かんでいるのは、ほのかな笑み。
自虐的で、強がるようで、か弱い印象だが、それでいて芯に強さが鎮座しているようにも感じられる、複雑な微笑。
見つめれば見つめるほど、僕の心は切なくなっていく。
「じゃあ、慌てなくてもいいんだね」
「もちろん。なるべく近い環境でりりあの気持ちを想像したくて、フェンスの向こう側に立って地上を見下ろそうと思ったんだけど、いざ上ったら、ここでもいいかって考えが変わって。ずっとぼーっと景色を見ていたんだ」
「そっか。その口ぶり、嘘は言っていないみたいだね。安心したよ」
「なんか妙に心配されているみたいだし、そろそろ下りようかな」
「手伝わなくても平気?」
「さすがに平気。上ったの、自分だし」
ここあは金網に手をかけ足をかけて数十センチ下り、跳んだ。僕の身長とほぼ同じと、安心できない高さに見えたが、いっさい躊躇なく。
靴底と床が衝突し、乾いた音が鳴った。着地の衝撃でしゃがむ姿勢になっていたが、すぐにすっくと立ち上がる。痛がるそぶりはまったく見せない。
強い人だ、と思う。
強引で図々しい性格も含めて、強い。
その強さに、これまで僕はずっと引っ張られてきた。
しかし、ファミレスで弱さを見せた。
昨日、二回涙を流したときを凌駕する、明確な弱さを。
「追いかけてきてくれて、ありがとうね。あたしは別に待っていないけど」
「どういたしまして。くり返しになるけど、ここあが無事でほっとしてる」
「どうしたの、佐伯。いつもなら『待ってへんのかい!』って痛烈なツッコミを入れてくるのに」
「関西弁ではツッコまないよ。ツッコミ自体をしなかったのは――なんでだろう。やっぱり、本気で不安だし、心配しているからじゃないかな」
「本当に?」
「本当に。だってほら、ここあが明らかに取り乱したのって、ファミレスのときが初めてだろ。あれはびっくりしたし、絶対に放っておけないなって。
それから、理由が知りたいと思った。二人で力を合わせてあくあに立ち向かおうって僕は言ったけど、ここあは頑として首を縦には振らなかったよね。耳を貸してもくれなかった。ここあはあくあのことを嫌っている、だけでは説明がつかない気がして。それ以外のなんらかの要因があるんじゃないかって。
もしかしたら僕の勘違いなのかもしれないけど、隠していることがあるんだったら、洗いざらい話してほしい。話さないとなにも分からないし、逆に話してくれれば絶対に君を助けるから。もちろん、笑わないし、くだらないって斬り捨てたりしない。それは固く約束する。僕たち、まだ出会って二日目だけど、なんでも話せる関係だと思うんだよね。二人きりっていう環境だから、ファミレスよりも話しやすいと思うし」
想いがあふれた。いったんしゃべり出したら、ため込んでいた言葉を吐き出しきるまで止まらなかった。止められなかった。
それってようするに、ここあに心を許したということだ。
ここあも、僕に対してそうであってほしい。
身勝手な願望なのかもしれないが、そう願わずにはいられない。
自分でも言語化できない想いを瞳に込めて、ここあの顔をじっと見つめる。返事があるまでそうしているつもりで、まばたきすら抑えつけて一心に凝視する。
「人間ってなんで、話してくれればなんとかなる、みたいな態度をとっちゃうんだろうね。……なんとかならないことも、世の中には山ほどあるのに」
ここあのひとり言のようなつぶやきが沈黙を破った。
彼女の顔には笑みと似て非なる表情が浮かんでいる。笑いたいのだけど笑えない、というような。そこはかとなく自嘲的な雰囲気も漂っている。
「話すよ。せっかく追いかけてくれたのに、さすがに失礼だから。座って」
手振りで促してその場に座る。僕もそれに倣う。僕もここあも胡坐をかく姿勢だ。
「あたし、あくあが嫌いって言ったじゃん? あれ、正解といえば正解だけど、厳密には違うんだよね」
「え……」
「怖いの。あたしはあくあが嫌いというよりも、怖い。怖い人間に対しては必然に嫌だって思うでしょ。『正解といえば正解』っていうのはそういう意味」
怖い。恐れている。
ここあが、あくあを。
「もともとは双子の姉妹として、一番近い場所からりりあを守ってあげる立場だったんだよ。あくあの理不尽な暴力に対する盾になって、ときには反撃もして、あくあの横暴に断固として戦ってきた。でも、暴力は年々容赦がなくなって、力も増して、手に負えなくなって、りりあを守りきれないことも増えた。殴り合いに負けてばかりになった。……恐怖を感じるようになった。盾にならなければいけない場面なのに逃げるようになった。逃げ癖が一度ついてしまったらもうだめで、りりあをまともに守ってあげられなくなった。
秘密基地、『あたしの逃げ場』という意味のことは言ったと思うけど、『あたしとりりあの逃げ場』という言いかたはしなかったでしょ? なぜかというと、あの場所はあたしが一人で使っていたから。りりあを匿ったら、もしあくあが乗り込んできたときに、あたしまで標的にされて、秘密基地もめちゃくちゃにされてしまう。その事態を恐れて、あたし専用の隠れ家にして、りりあには存在を秘密にしていたの。ひとり占めしていたの。……ずるい女でしょ?」
たしかに、布団は一人分しかなかった。
当時はまったく違和感を覚えなかったが、本当は抱くべきだったのだ。
「遠くまで逃げるっていう発想は抱かなかったな。わたしのりりあと二人で、あくあの魔手が及ばないような遠い場所まで逃げようっていう発想は。りりあは家に愛着を持っていたのはたしかだけど、そんな愛着、無理やり引き剥がせばよかったんだ。
……今になってみればそう強く思うんだけど、りりあが生きていたときは『りりあがそう言うのなら』で終わってしまっていた。広い意味で、あくあの圧力に屈していた」
あくあの暴力的な振る舞い。それによる圧力。
実際にあくあの暴力にさらされた僕は、その恐ろしさが痛いくらいに理解できる。
しかし、ここあは「仕方ない」では済ませられないらしい。
「あたしはさっき、徐々に圧力に屈していった結果逃げるようになった、みたいな言いかたをしたよね。だけど文字どおりの意味で戦ったのは、ほんの子ども時代だけ。正確な時期までは覚えていないけど、十歳とか十一歳とか、そのくらいの年齢からは逃げ続けるばかりだった。
ところで、佐伯は昨日お風呂であたしの裸、見たよね」
「えっ? いや、それは……」
「見たでしょ。で、どうだった? 傷一つなかったよね。痣一つなかったよね」
傷。
思いがけず飛び出したその単語に、僕は激しい動揺に見舞われた。まるで振動が物理的なものだったかのように、体まで少し揺れた。
僕の小規模な外的変動と、大規模な内面の揺らぎに、気づいているのかいないのか。返事がないことをどう思ったのか。ここあはどこかさばさばとした口調で発言を続ける。
「ようするに、逃げ続けていて攻撃自体を食らっていないから、傷も痣もクソもないということね。……ほんと、自分で言っていて情けない。マジで泣きそうなんだけど」
「でも、仕方なくない? 僕も体験したから分かるよ。あくあに、あの怪物に怯えるなというほうが無理だ。逃げるなというほうが無茶だ。だから気に病む必要なんて――」
「違う!」
遮られた。
実体験にもとづいて、あくあがいかに恐ろしいかを語ることで、ここあがとった対応を肯定しようとしたのに、「違う」。
驚いてここあの顔を見つめて、再び僕は驚く。たった今驚いた以上に驚く。
泣いている。
怒っているのに恐ろしくない、むしろ弱々しささえ感じられる顔で、粒のような涙を次から次へと落としている。
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