英語というパブリック・プレッシャー
今日、病院へ行く用事があった。ぼくが抱えている発達障害をめぐる話を医師と話すための定期的なミーティングだったのだけど、そのミーティングを終えて薬局にて薬を待つ時間を去年買い求めた光文社新書の佐々木テレサ・福島青史『英語ヒエラルキー』を読み返して過ごした。去年はじめて読んだ時もこの本からは多くを教わったと思ったのだけれど、今日の読書でもあらためて鮮烈な印象を味わうことができて、読んでよかったと思った。
この本は、英語を介して学校で講義をおこなうEMIと呼ばれるプログラムが導入されてからその授業形式を経験した生徒たちがどのような苦労を味わっているか(別の言い方をするなら、そうした英語オンリーの形式がどのような問題をはらむのか)、さまざまな生徒たちからインタビューを介して引き出されたナマの言葉を参照しつつ考察した1冊だ。ぼくは子どもがいないのでいまの英語教育の現場なんてわかるわけがない。だから実に興味深く読み、そして深く唸らされてしまった。大げさな言い方をすれば、英語教育をとおしてぼくたちは実に国民的に「実験」をおこなっているとさえ言えるのではないか。それも、「もう後戻りが効かない」たぐいの。
あたりまえのことを言えば、人には得手不得手がある。たとえばぼくは料理ができない(なにせそうめんさえ作れないのだ)。ほかにも数学なんてからっきしだし、フランス語だって大学で第二外国語として履修したのに見事に挫折した。こんなことは枚挙にいとまがない。そして、できるようになりたいならなんとかそれなりに時間をかけて試行錯誤して修練を積むしかない。それに加えてもっと言うと、そうしたことができないからといってただちにそれだけでぼくが人と比べて「人間的な価値において劣っている」なんてことを意味するわけではない(そんなことはあってはならない)。
ただ、ことが英語にかぎるとなんだかぼくたちは(イヤな言い方をすると、「かつてのぼく自身」もふくめて)「英語ができないと『グローバル人材』になれない」「英語がペラペラだとカッコいい」とそこに「単なる一外国語の能力」を超えた付加価値を見出してしまうようなのだ。ぼくもこんなことを書いているが、東京の大学に入ったころにそれなりにペーパーテストで英語は読み書きできてもいざ他者(とりわけネイティブ・スピーカー)と話すにはなかなか自信を持てず、帰国子女があたりまえのように流暢に彼らと英語で語らうのを見て劣等感を刺激されたりもしたのだった。
だから、この本『英語ヒエラルキー』を読むということはぼくの場合、これから「グローバル人材」めざして相当に試行錯誤して英語を学ぶ(というか「叩き込まれる」)若い人たちの苦悩を学ぶだけにとどまらず、このぼくの中にもいまだどこかでくすぶり続けている「英語教育の『圧』」「日本人としての劣等感」を自覚・追認することを意味する。その意味で得難い1冊と受け取る。
ぼくはもうそれなりに年老いてコチコチに固まったアイデンティティを保持して生きているが、まだ若くて「自分が何者か」といったことも「将来の夢や大志」もこれから見出していく人たちにとって、英語がなかなか話せなくて苦しむ挫折経験ははたして「必要悪」「誰もが通る道」といって済ませられるのか。そんなことを考えてしまう。
BGM - Yellow Magic Orchestra "Nice Age"
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