3
悠々と歩いていたハスキーにはすぐに追いついた。白と黒の模様が美しいその毛並みはサラツヤで、ちゃんとお手入れされていることは、ひと目でわかった。絶対に野良じゃない。
それにしても、物怖じしないわんこだ。道端の何かをクンクン嗅いだり、わたしに向かって鼻を鳴らしたり。
リードも首輪もしていないから、行き交う人たちからジロジロ見られ、わたしはその子の飼い主を装って、ぴったり横を並んで歩いた。
アスファルトばっかりで足が痛そうだけど、もしかして散歩コースなのかな。
「キミ、ひとり?」
話しかけてみると、ハスキーは、ツ、とその長い鼻面を上向かせた。
「家族の人はどこだろう」
モノトーンの尻尾を三日月に丸めて、フリフリと振る。
「せめて、首輪してたらねぇ」
ハスキーは、ハッハッと息を吐きながら、わたしを見上げた。澄んだ青い虹彩が、吸い込まれそうなくらい綺麗だった。
「やっぱり迷子なのかな。一緒に捜す?」
そう提案した途端、尖った耳をピクリと震わせ、ワフッ!と吠えてから、弾かれたように走り出した。ものすごいスピードだ。
「え? えぇ? ちょっと待って!」
思わず一緒に走り出す。
この一年、ずっとデスクワークだったし、運動もサボっていたので、すぐに息は上がった。
「ま、ま、待っ……」
つんのめりそうになった時、
「
王子のような声が脳天にビヨンと突き刺さり、不覚にも後ろから抱きとめられてしまった。
眩しい、眩しすぎる。
最早、実体が見えない。
「大丈夫? 無理しないで」
「あ、ありがとうございます」
絞り出すようにお礼を言って、ぐったりとうなだれる。
なかなか離れようとしない腕の内から、何気なさを装って脱出した時、先輩が顎で道の先を指した。
「榮、さっきの子だよ」
促されるまま視線をやると、先程のハスキーが飼い主と思しき女性に連れられ、こちらに引き返してくるのが見えた。
その姿に、わたしは目を見開いた。
「あなたたちが連れてきてくれたの?」
年の頃三十といったところか。
陶器のような肌の上で、ゆっくりと瞬きをするアーモンド型の目。赤い唇はバランス良く収まっており、まるで人形のようだ。
「ごめんなさい。首輪を直そうと思ったら、急に走り出していってしまって」
長い髪をふんわりなびかせて、潤いのある声が響く。
「あぁ……いえ、連れてきたというか、追っかけてきたというか」
「犬が好きなの?」
「え……はい」
猫派のくせに、その視線に飲まれて嘘をついてしまった。
美人さんはアーモンド型の目を細めた。
「この子は大人しく誰かと歩くような子じゃないのよ。あなたはきっと選ばれたのね」
ふふっと
「ごめんね、手を放したりして」
ハスキーがキュゥーンと高い声で鳴き、飼い主の顎に鼻をこすりつける。青い虹彩が水分を含んで、波のように揺れている気がした。
不意に美人さんが顔を上げた。美人に直視されると、目のやり場に困る。
「ありがとう。何かお礼をしたいんだけど」
「い、いえ、とんでもないです。ただ、追っかけてきただけなんで」
慌てて両手を振る。
「休日の貴重な時間を使わせてしまったのに」
「ほんと、特に用事があったわけじゃないし、お気になさらないでください」
何度も頭を下げて去っていく、そのたおやかな後ろ姿を見送りながら、本当の美人って、空気を全部持っていっちゃうんだなと思った。例え「わたしは宇宙人です」と言われても、信じてしまったかもしれない。
その時、犬のようなうめき声が聞こえて、ふと隣りを見ると、先輩が深く腕を組んで、チラチラわたしを窺い見ていた。目が合ってしまったので、仕方なく声を掛ける。
「どうかしたんですか」
先輩は、嬉しそうに口角を上げた。
「彼女、どっかで見たことあるような気がしてさ。俺、何か話したことない?」
「さぁ。覚えてないですけど」
「榮には色々話してるんだけどな」
「女優さんに似てるとかじゃないですか?」
「なるほどねぇ。どの女優さんのことだと思う?」
どさくさに紛れて肩に手を回されたので、わたしは真顔でその手を払いのけた。
淡々とした口調で「それじゃ失礼します」と頭を下げ、顔を見ないようにして背を向ける。
駅に向かって歩いていると、袖口に、さっきのハスキーの毛が付いていることに気がついた。可愛いわんこだったなぁ。でも、何か、どこかで見たことある顔だった。
それにしても、わんこが嬉しい時に尻尾を振らないことには驚いた。飼い主さんにぎゅってされてる時、尻尾は地面に向かって垂れ下がったままだった。案外、落ち着いた子なのかな。
横断歩道でしばらく立ち止まっていると、どっと疲れが押し寄せてきた。
感情が乱高下し過ぎて、今日はこれ以上何も考えたくない。体力作りは来週に持ち越しだ。明日は一日ダラダラ過ごそう。
わたしの中の悪魔の数は、一瞬で天使を凌駕した。
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