店を出ると、大して温まっていない体に、追い打ちをかけるような強い寒気かんきが浸みた。背中を丸めて駅に向かおうとした時。

さかえ!」

 聞き覚えのある声に振り返ると、なんと木ノ下きのした先輩じゃないか。

 ブルーのシャツにロングコートを羽織った姿で、会社で見るのと同じように発光している。

「偶然だなぁー」

 嬉しそうに目を細めて、爽やかをふりまきながら歩いてくる。

「何で、ここに……?」

「やだなぁ。良い所があるって教えてくれたのは榮だよ。まさか会えるとは思ってなかったけど」

 言ったっけ? という思いと同時に、流風るかの予言が頭をかすめ、心臓が飛び跳ねそうになった。

 背恰好が違う。足音だって違う。

 だけど、待っていたかのような、このタイミングで鉢合わせたことに恐怖を覚える。

 そんなはずない、と何度言い聞かせても、足がじりじりと後ずさる。

「へぇ。榮って、カジュアルな格好するんだ。そのスウェットとロングスカート、似合ってるよ。プライベートで会うことないから新鮮だね。あ、ちょっとだけ髪、切ったんだ。それも可愛い。もう全部可愛い」

 もはや、唇の隙間から見える白い歯のひとつひとつが、サイコパスの結晶に見えてくる。

「せ、先輩は、今、来たんですよね?」

「そうだよ」

「どうぞどうぞ。いい所なので、ぜひ。わたしはもう帰るところですので」

「えー? せっかく会えたんだから、一緒に入ろうよ」

「いえ、もうお腹いっぱいです」

「そうなの? じゃあ、俺も一緒に帰ろうかな」

 なんでだよ、入りなさいよ、そのために来たんでしょうが。

 壁際まで追い込まれ、よもや壁ドンの危機かと思われた時、横を大型犬が通りすがった。

「え?」

 見間違い? 一度、目をこする。

「あれ? 今の犬、首輪もリードもつけてなかったよね」

 先輩も不思議そうに、首を傾げる。

 どうやら見間違いではなさそうだ。

 一瞬見えた、見覚えのある凛々しい顔つきからして、たぶんシベリアンハスキーだと思うけど……。

「ここら辺、野良犬よくいるの?」

「いえ、見たことないですね」

 しかも野良のハスキーなんて。

「大人しそうだったけど、こんな人混みの中じゃ、ちょっと危ないよね」

 先輩が、スマホを取り出す。

「一応、警察に連絡しとこうか」

 そう言って視線を落とした、その好機をわたしは見逃さなかった。

「わたし、ちょっと追っかけてみますね。迷子かもしれないし」

「え? 榮……!」

 聞き終わらぬうちに壁ドンを振り切って、走り出す。

 ありがとう、迷子のハスキーちゃん。

 まだ先輩のストーカー疑惑は晴れていないから、好都合だった。

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