12.真紅

 この日の授業は代数学から始まった。開始から程無くしてヴィオラが机に突っ伏してすやすやと心地よさそうに眠り始めたことにミクローシュは驚いたが、側にいるエメシェと、アーグネシュまでが悟りきった表情をしているのを見て、これは特に珍しいことではないのだと察した。あるいはミクローシュがこれまでに見てきた彼女の陽気さの源は、授業時間までも活用した充分すぎる睡眠時間にあるのだろうか。ヴィオラの寝ている横顔は何の屈託も無さそうで、半袖のためにむき出しの腕は思いの外華奢だった。ミクローシュはなんだかこの少女を守らなくてはいけないような気がしてしばらく見入ってしまった。

「何をしているの」

そんなミクローシュを見てエメシェが呆れたように問う。ミクローシュはハッと正気に戻った。

「いや、その、なんでもないよ」

「まあ、わからなくはないけれどね」

そう言ってヴィオラを見るエメシェの眼には微かに優しい光が宿っているように思われた。

「でもあまり見とれているとこちらまで落第するから気を付けて」

「え・・・うん」

だが彼女の言葉には逆にどこか突き放したような響きが感じられて、ミクローシュは一瞬戸惑った。やはり起こしてあげるのが親切というものではないか。そんな気がしたのだ。そこでミクローシュはヴィオラの肩をそーっと掴んで遠慮がちに揺さぶった。

「ん・・・・・・ふぁー、ミー君おはよー。今何時間目ー?」

ヴィオラはおもむろに上体を起こすと唖然とするような問いを発した。

「何時間目って・・・まだ一時間目だけど。昨日あんまり寝られなかった?」

「いやー、よく寝たよー」

ミクローシュが問い返すとヴィオラはうーんと伸びをしながら気持ちよさそうに答えた。彼は自分の体の力がヘナヘナと抜けていくような気がした。

「起こしてくれてありがとねー、ミー君」

とはいえ、とにもかくにもヴィオラがそう言って鉛筆を手に黒板に向き始めたのでミクローシュは何やらほっとして自分も黒板に向き直る。さいわい授業の内容は簡単な微分の演算であったので、わからなくなることはなかった。

 ところがそれから五分と経たないうちにヴィオラは舟を漕ぎ出したかと思うと、あっという間に再び机に突っ伏してしまったではないか。

「・・・・・・」

さすがにミクローシュも言葉に詰まってしまう。なるほどこれではエメシェたちが放置を決め込みたいのも無理はないかも知れない。そのエメシェの顔をちらりと見ると、言わんこっちゃないと書いてあるようだった。ミクローシュは仕方なく、せめてもとして自らの上着を脱いでヴィオラの肩のあたりに掛けてあげた。

 もう夏は終わり秋の序盤の時分。秋は人の眼前で早足に深まっていく——。

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