31 At home-3-
途端、後ろからばさりと衣擦れの音がした。
振り向けば、響哉さんは何の躊躇いも無く服を脱ぎ始めている。
「お風呂、入ってくれば?」
「どうせ、この部屋には俺の着替えなんてない。
頼太、明日服貸してくれない?」
「やるよ、いくらでも」
響哉さんは眠くて仕方が無い子供のように、衣服を脱ぎ捨てていく。
「ついでにそれ、掛けておいてやるから、寝れば?」
「マーサ……」
名前を呼ばれてもちょっと、振り向くのも憚られる。
――だって、脱ぎ捨てた衣服から推察するに、確実に今、少なくとも上半身は裸――だよね?
反応できないでいると、響哉さんは私の左腕に、腕輪のようなものを通していく。
驚いて目をやれば、それは、柔らかい素材の――シリコンか何かだと思われるような――輪だった。端に穴が開いていて、そこにリボンのような紐が通してある。
その紐の端には同じような輪があって、それは響哉さんの右手首に繋がっていた。
「だから、そういうのは万が一にも首を絞める恐れがあるから駄目だって言っただろう?」
あきれ返っている佐伯先生の説教にも応えず、響哉さんはばたりとベッドに倒れこんでしまった。
「……とりあえず、布団かけてやったら?」
どうして良いか分からずに、頬を染めたまま身動きできない私に、先生が呆れた口調で言い放つ。
私はドキドキしながら響哉さんをのぞきみた。
上半身をあらわにして、なんら躊躇うことも無く眠りに落ちている。
私は布団を掛けて、自分は布団の上に乗り、足元の方へと進んだ。
リボンが伸びきらない距離を保つ。
「変なヤツ」
先生はため息交じりにそう呟きながら、手際よく響哉さんの脱ぎ捨てた服を片付けていた。
「この部屋に、響哉さんの着替えが無いってことは、いったい誰の部屋なんですか?」
「ん?
ここは、婚約者の部屋に決まってるじゃない。
つまり、真朝ちゃんの部屋ってこと」
「……変じゃないですか。
婚約者の部屋が用意してあって、当の響哉さん本人の部屋がないなんて」
「だから、言っただろう?
須藤家っていうのは、怖ろしく変なところなんだよ。
自分の常識は全部使えないと思ったほうが良い」
先生は近くの椅子に座ったまま、真顔できっぱりとそう言い切った。
目が笑ってないのが、本当に怖いんですけど……。
「一応、須藤家では、長男が20代で男児を設ければ当主になれるという決まりがある。
だが、響哉は23歳のときに、3歳の君を婚約者として家族に紹介した。
そこでルールは都合よく変更された。響哉に限っては婚約者が30歳になるまでならOKだとね」
「……そんなの、私、聞いてないよ……」
知らないうちに自分が須藤家のルール変更に寄与していたなんて、初耳で、どうして良いのか分からない。
「響哉は別にここの次期当主に進んでなりたいわけでもないから、そんなこと改めて君には言わないさ。
『可愛いマーサにプレッシャーなんてかけたくない』って思ってんだよ、きっと」
だから、その声真似、ものすごく似ているのでやめてください……。
ドキッとして、赤面しちゃうじゃない。
「で、今日聞きたいのは須藤家の秘密?」
佐伯先生がくすりと笑う。
「違います。
それも気になるけど、やっぱり今日のうちに解決しておきたいの。
先生は、聞き取れたんでしょう?アイツの言葉」
「カルロスのスペイン語」
「スペイン人?」
ヨーロッパっていうより、中南米って感じだったけど……と思いながら問い返す。
「いや。
メキシコ人」
「……で、アイツのお父さんが事故の相手なんですよね?」
忌々しい記憶が甦って、手が震えてくる。
封印したはずの記憶は、響哉さんが現れてから、少しずつ染み出し始めていた。
強い衝撃。
鼻につく、ガソリンの匂い。
悲鳴。
そして、むせ返るような血の匂い――。
「……煙草を吸っても?」
先生はよほど切り出したくないのか、私が頷いたのを確認してから、窓を開けて煙草に火をつける。
「あんまり、感情移入せずにヒトゴトの話だと思って聞いてくれる?」
「……分かりました」
先生は窓の外を見たまま話し始めた。
「トラックが突っ込んできたのが交通事故の原因っていうのは知ってる?」
「はい」
「そのトラックを運転していたのが、カルロスの父。
葬儀の日も入り口でひたすら謝っていた。
たどたどしい日本語と、スペイン語で――」
私は息を吸って、出来るだけ動揺を見せないように口を開いた。
「別に、絶対に許さない、なんて誰も言ってないんでしょう?」
「もちろん」
「結局、事故の件で解雇された男は自殺した」
衝撃を覚えた私は瞳を閉じる。
あの事故の加害者はもうこの世には居ないんだ――。
そんなこと知らなかった。
加害者が誰で、どこで暮らしているかなんて、考えたこともなかった。
まさか、自殺していたなんて。
煙草を吸い終えたと思われるのに、先生は、こちらを振り向こうとはしない。
「……で、調査の結果、この事故に裏がないと知った須藤家は自殺した男を気の毒に思い、彼と同居していた息子に仕事を与えることにした」
私は唇を噛む。
そこまでに、間違いはないように思う。
「響哉さんは、そのことを?」
「知らなかったんじゃない?
響哉は君の心の傷を癒す方法についてはしょっちゅう考えていたけれど、加害者のことにまで思いをめぐらせてはなかったと思うよ」
「あれほど自己中になるよう育てられた響哉が、熱心に人のことを考えているサマなんて、初めて見た」
それはそれで面白かったよ、なんて。
ドラマでも見たかのような軽口で言うと、ようやく窓を閉めて、私の目の前の椅子に座ってくれた。
真っ直ぐに視線が絡む。
私は瞳に決意をこめ、唇をひらく。
「それで、カルロスはどうして私を殺そうとしたの?」
殺されかけた私に、聞く権利はある。
――だから、教えて、と。
懇願の想いを言葉に詰めた。
はぁ、と。
佐伯先生は決心のつかないような、ためらいの色を帯びたため息をついた。
それから、私の隣に腰を下ろし私の髪を撫でた。
「俺だって、親友の娘には取り立てて辛い思いをさせたくない」
言って、私を抱き寄せようとした瞬間。
私の左腕のリングが引っ張られた。
バランスを崩して、ベッドに倒れこむ。
「ハイハイ。
お前の彼女に手を出しません」
先生はそう言うと、倒れた私を放ったままベッドから立ち上がって、椅子に座りなおした。
「……本当に響哉さん、寝てるんですか?」
私はそおっと起き上がりながら先生に聞く。
「疑いもなく寝てるよ。
でも、――寝ている響哉に触ったことある?」
「キスしようと思って近づいただけで起こしたことなら――」
「いや、別にそこまで具体的に語ってくれなくてもいいんだけど」
苦笑する先生に、私は思わず頬を染める。
「ま、ともかく、響哉の眠りはそのくらい浅いってこと。
だから、少しでも時間があればそこで睡眠を補給しようとするんだろうな」
そういって、少しだけ場を和ませると、表情を引き締めて、語りだした。
「カルロスが言うには――。
カルロスの父は、最初日本の自動車工場で働いていたけれど、不況で失業した。
メキシコで、日本人観光バスの運転手をしていたこともあって、長距離トラックの運転手として雇われた。
けれども、その就労状況は過酷で、低賃金――。
その激務のための疲労で、事故を起こしてしまった」
先生の口調は、淡々としたものだったけれど、やはりその内容は苦々しいもので。
私は、相槌さえ打てずに呆然としてしまう。
以下、ヤツの言葉を忠実に訳すね、と、前置きしてから先生は続ける。
「最初は、事故で記憶をなくした彼女も被害者だと思っていた。
けれども――。
昨日、御曹司と二人で連れ添っているところを見たら、居ても立ってもいられなくなった。
自分は警備員から抜け出せないのに、あの日泣き濡れていた少女は、いまや億万長者の婚約者だ――」
「それから……。
後はただの彼の偏見だと思うんだけど……」
「最後まで訳してください」
私は先生に真顔で頼んだ。
仕方が無いな、と、ため息をついてから、先生は私の頭を撫でた。
「彼が言うには……。
自分がいつまでたっても出世できないのも、こんなに小さな子が何の苦労もなしにお金持ちになれるのも、……この国が悪いからだ――だってさ。
言ってる理屈は通ってないと思うけど、カルロスはそう言ってた」
「で、先生は何て言ったの?」
「『分かった、それで?』って言ってやったんだよ。
そうやって全てを日本のせいにするくらいなら、本国で暮らせばいいだけじゃない? という俺の本音は飲み込んだ。
――響哉なら、そんなことは言わないだろうからね」
「響哉さんなら何ていうの?」
「さぁ。
聞き流すんじゃない?
他人の意見全て聞いていたらおかしくなってしまうくらいヤツの周りには人が集まってくるからね。
――しかも、大半は欲望に
そう言うと、先生は時計を見た。
「もう1時過ぎた。
今日はお休み」
「……はぁい」
眠くなっていた私は素直に返事をする。
それから、なんとなく後ろを振り向いて躊躇いを覚えた。
「……でも、響哉さん……大丈夫なんですか?」
先生は、アメリカ人並みのオーバーなジェスチャーで肩を竦めて見せた。
「さぁ。
婚約者同士がナニをしようと、別に構わないんじゃない?」
「……仮にも養護教諭の言うことですか?」
私の言葉に、先生はしれっと言う。
「だって俺、教諭の前に須藤家の関係者だからね。
むしろ、彼が次期当主になると決めた以上積極的に応援する以外に道はない、だろ?」
最後に、『Have a nice night!』(素敵な夜を!)と、意味ありげに言い捨てひらりと手を振ってから、先生は部屋から出て行った。
私は腕につけられた輪に目をやった。
もちろん、抜くことは可能。
――けれども。
誰も信じるなといわれんばかりに大人になった響哉さんが、唯一信じてくれている私まで裏切り者になるわけにはいかないわ――。
私はそおっと、掛け布団の下に入る。
途端。
ふわりと背中から抱きしめられた。
「マーサ。
服を着たまま寝るつもり?」
寝惚けたような声が耳に入る。
「だって……」
パジャマに着替えたくても、私、身動きがとれないじゃない。
「お兄ちゃんが着替えさせてあげる」
本当に寝惚けているのか。
はたまた、寝惚けたふりを装っているのか――。
響哉さんは蕩けるような声でそう言うと、器用に私の服を脱がせ始めた。
「ちょっと……っ。
響哉さん、私、自分で脱げる――っ」
ちゅ、と、後ろ頭にキスが落とされた。
「大きくなったんだね、マーサちゃんは」
そこまで言うと、シャツを脱がせたことに満足したのか、響哉さんは後ろから私を抱き寄せたまま静かになった。
耳元に聞こえてくるのは、規則正しい寝息。
でも、私としてはキャミソール越しに当たる胸板に、脈が上がる。
本当はもっと考えなきゃいけないことがあるのに――。
カルロスの言葉を。
事件の意味を。
事故がもたらすメッセージを――。
でも、響哉さんに抱きしめらている間は、その全てを忘れてしまう。
気づかぬ間に私は、響哉さんに抱きしめられたまま、眠りに落ちていた。
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