8 キス恐怖症
たかが、キスくらい。
平気なんじゃないの?
だって、もう高校生じゃない?
皆言う。
親友の
だから、きっと私は皆以上に
高校1年生のときに初めてできた「彼氏」とは、キスが出来ないっていう理由で一週間で別れて、以降彼氏なんて居ない。
なぜかしら。
キスをしようとすると、心臓が壊れそうに痛くなる。
不安で、たまらなくなる。
まるで、禁忌を犯しているような罪悪感に襲われる。
……たかが、キスだって頭の中では私だってわかってるのに。
「真朝ちゃん」
頬に手が触れて、思考の泉から引き戻され我に返る。
テーブルの向こうでは、響哉さんが心配そうに私を見ていた。私と視線が絡むと、私の頬に触れた手をさっと引っ込める。
「冷めるよ?」
気づけば、目の前に置かれた仔牛のフィレからはおいしそうな香りが漂っていた。
「ごめんなさいっ……私、ぼーっとしちゃって」
いつ、置かれたのかさえ気づかなかった。
「無理矢理キスする話は取り下げるから、ね?
マーサがそんなに不安がると思わなくて」
心配を詰め込んだ声に心をそっと撫でられた気がして視線を上げれば、いつも自信に満ちて笑みを湛えている黒い瞳が、今は不安で揺れている気さえした。
「ごめん」
「ううん、響哉さんのせいじゃない、もの」
これは、多分私の問題。
「じゃあ、今はその話は一端お預け。
ね? 折角の料理、マーサが楽しんで食べてくれないと何の価値も無いんだけど」
「はぁい」
噛んで含めるように諭されれば、私も気持ちを切り替えるほかない。それに、響哉さんがきらりと零す笑顔を見れば、それだけで、私の気持ちはピンっと、良く乾いた洗濯物のように爽やかな気持ちに戻ってきた。
我ながら単純だなあと思いながら、美味しいお肉を噛み締めるのだった。
デザートのソルベで美味しい料理は終了。
「満足した?」
響哉さんの質問に、満面の笑顔でこくりと頷く私。
「それは良かった。
お手をどうぞ、お嬢様」
響哉さんはスマートに私に手を差し出してきた。嫌だわ、私。舞踏会に来て、王子様にダンスを申し込まれたシンデレラみたいっ。
心臓がキュンって高鳴っちゃう。
「あ、あの。
キョーヤさんですよね」
私の胸の高鳴りを止めたのは、無遠慮に割り込んできた女性の声だった。でも、彼女に悪気はないのだろう。その瞳はうっとりと響哉さんだけを見据え、緊張のあまり声は上擦り頬は上気していた。
響哉さんはそちらを見ることもなく私の手を掴む。
「私、すっごくファンなんですっ。
あの、握手だけでもしていただけませんか?」
響哉さんは一瞬躊躇いの表情を浮かべると、諦めたように私から手を放して、彼女の方を見た。
「プライベートなんで、申し訳ない。
君と握手をするのは簡単だが、結果的に他の人たちからも囲まれるかもしれないと思うと、気が乗らない。
今度、大々的にキャンペーンをやる予定だから、そのときには是非」
艶やかなテノールの声は、社交辞令に満ちている。
「では、失礼」
響哉さんはそう言うと、私を連れてレストランを後にした。
部屋に戻ってきた響哉さんは、疲れたようにソファに座る。
「あの……」
お部屋に戻ろうかしら、と、思った私を見ると、思い出したかのようににこりと笑って手を伸ばす。
「マーサ、傍に来てくれる?」
その笑顔と声が、あまりにも魅力的だったから、私は良く懐いた子犬のように、彼の腕に飛び込んでいた。抱きしめられた腕の中は、懐かしささえ感じるほどに心地良い。
「どうしてキスが怖いのかな? 何か嫌なことでもあった?」
私を抱きしめたまま、耳元で囁く。
「わかんないの。
あの衝撃感がダメなのかなぁ。テレビとか見てても、キスシーンは目を逸らしちゃうし。漫画でキスシーンみても、さっぱりときめかないし、結局元彼ともキスできなかったし」
「……元彼?」
あ、響哉さんの声が低くなった。まずい、失言しちゃった?
「だから、付き合おうって言って、一週間後には別れたけど。キスされそうになって怖くて逃げ出して……」
思い出すだけで、息苦しくなる。
響哉さんの手が私の頭を撫でる。
そうして、まるで催眠術にでもかけるかのように、耳元で囁いた。
「俺とだけはキスできるように変えてやるから心配するな」
それはそれで心配です。でも、響哉さんは私に考える
「目、閉じて」
……え?
息が止まりそうになって、思わず目を見開いて、真っ直ぐに響哉さんを見つめる。
「そんなに緊張しなくても。急に唇を奪ったりしないよ。
ほら、ここに座って」
響哉さんは足を広げると私を前に座らせて、背中から私に手を回してきた。
「ほら、これなら安心できる? 目を閉じて」
響哉さんの左手が、私の目を覆う。
「絶対真一が何か吹き込んだんだって。娘の恋路を邪魔するなんて酷い父親」
「パパの悪口言っちゃダメっ」
そう言ってはみたけれど、響哉さんの言い方はいかにも『パパはまだ生きていて今でも仲の良い友達だ』と感じさせてくれて、なんだか嬉しかった。
「ゴメンゴメン」
直後、何の前触れもなく唇に何かが触れた。
驚きというよりは、恐怖のあまり息が止まる。
「マーサちゃん、大丈夫だから、ゆっくり息を吐いてみようか?
ほら、痛くも怖くもないでしょう?」
左耳の傍から注がれる声は、甘さだけで作られた綿菓子を思わせた。
「俺が傍に居るから、心配しないで」
……アナタが傍に居るから心配なんですけど、って心の片隅で冷静な突っ込みの声があがる。
だけど、唇に優しく柔らかく触れている何かが、私の神経の9割以上を奪っているせいで、まともに頭が回らない。
でも、響哉さんの声が聞こえるってことは、これはキスじゃないんだよね?
「落ち着いたらゆっくり、目を開けてみようか?」
まるで水泳のインストラクターみたいに、ゆっくり丁寧な発音に、私の心臓は平常の速度に戻ってくる。響哉さんの左手が私のまぶたの上からそっと外れる。
私は深く息を吸い込んでから、ゆっくりと瞳を開く。
私の唇に押し当てられていたのは、響哉さんの右手の人差し指で。
私の目の前でそれはゆっくりと外れていく。
チュっと、私の背後でキスをする音が聞こえる。
それはきっと、彼がその人差し指に唇を重ねた音だ。
「ほら、間接キス。
できたでしょう?」
甘く囁かれる声に、くらりと、脳内が揺れた。
もう、キスが怖いことは少し吹っ飛んでしまいそうだ。だって、少女漫画染みた台詞を(いや、今時少女漫画でもそんなこと言うかどうか)、臆面もなく口にできるなんてどういう人なのか気になるじゃない。
「よくできました」
やっぱり、水泳のインストラクターを思わせるような口調でそう言うと、響哉さんは突然私をひょいと抱え上げ、横に向けて自分の膝の上に置く。
……ちょぉーっと、待って!
この恥ずかしい体勢は、一体何の罰ゲーム?
「マーサちゃん。
こういうときは、しっかり抱きついてないと落ちるよって言ったよね?」
焦る私を見て、クツクツと喉を鳴らして笑いながら響哉さんが言う。
「……いつ?」
少なくともここ一週間で聞いた覚えはございませんよ。
「ずうっと昔」
そう言うと、多分、「ずうっと昔」にそうしていたであろうと思われるほどに、強く私を抱きしめる。
「……で、そのずうっと昔の私は嫌がらなかったの?」
やや低いトーンで問う私に、響哉さんは悪びれもせずに微笑んでみせる。
「すっごく喜んでたよ。
ある時、朝香ちゃんが抱き癖がつくから辞めてって言い出して、仕方が無いから辞めたらさ。
マーサちゃんの方から抱きついてきて離れなかったんだらから」
……本当、なのかしら。
「啓二くんにでも聞いてみる?」
「……どうして、お父さんまで出てくるのよ?」
私はいつの間にか響哉さんに向かって、実の父親(真一)のことをパパ、義理の父親(啓二)のことをお父さんというようになっている自分に気づく。
真一パパと、啓二お父さんは一緒に遊ぶほど仲の良い兄弟ではなかった、はず。
正確には、啓二さんも若くして結婚していたので、お互い自分の家庭で精一杯だった、というべきなのかもしれないけれど。
「そりゃ、花宮家でお正月を迎えたときのエピソードだからさ」
……響哉さん、いくらなんでも他人の家庭に入り込みすぎではありませんか……?
それについて、より深く聞こうとしたのだけれど、引越業者からのインターフォンの音に遮られた。荷物を持ってきてくれたのだ。
それを片付けている間に、あっという間に夜になる。
響哉さんが作ってくれた夕食を食べ、お風呂に入り、寝るまでの時間はのんびりくつろいだ。昼間のことを蒸し返すのも怖くて。
結局、須藤響哉が何者なのか、聞き出せないまま寝る時間が来てしまった。
というよりも、正確には、テレビを見ながらうつらうつらしているところを勝手に抱き上げられて、響哉さんの部屋のベッドに連れてこられてしまって、私はそこで気がついたのだ。頭で考えているよりもずっと、彼に気持ちを許してしまっていたみたい。
「……うわぁああっ」
自分の身体が丁寧にふわっとしたどこかに置かれた瞬間、目が覚めた。
そこが昨日私が使ったベッドではない、と気づいた途端に、考えるより前に声をあげていた。
「マーサ。
人の耳の傍で大声を出してはいけません」
騒いでいる私の上に勝手に掛け布団をかけてから、響哉さんがそう言った。
「だだだだって、ここ。
私の部屋じゃないっ」
「それは、あれだな。
ライトの在庫を置いてないあの家具屋が悪い」
可愛そうに、なんて私の頭を撫でてらっしゃいますが。
……それは違うと思いますっ!
「大丈夫だって、そんなに警戒しなくても。
こう見えても俺、キスも出来ない子を、いきなり抱いたりしないよ?」
くすくす笑いながら、ベッドの上に上がってくる。
私は身体を起こして、逃げようとするんだけれど、響哉さんの方がわずかに早く私の腕を捕まえ、形の良い紅い唇を耳に寄せてくる。
「いい子にしていたら、大人しく眠らせてあげるけど、どうしても逃げ出すっていうなら、動けないくらい気持ちよくしてあげる。
どっちでもいいよ?
マーサの好きなほう、選んで?」
うっとりするようなシックな声で、とんでもないことを囁いてくる。
「何、そのとんでもない二択はっ。
だいたい、良い年して子供いじめて、大人気ないって思わないんですか?……思わないの?」
寝ぼけていたせいか、うっかり敬語を使ってしまって慌てて言葉を改める。
「はい、敬語使った罰~」
響哉さんはご機嫌に人の額にキスをする。
「ちょ……っ」
頬がかあっと熱くなるけれど、力をこめたところで、彼の手から逃れることさえ出来ない。
「マーサ。
確かに俺は大人気ないと思ってる。
そうだよな。オトナだったら、折角同じベッドで眠るレディを、服を着たまま眠らせたりはしないよ。
ここは一つ、オトナとしての礼儀を果たさないとレディに失礼……っ」
「うわぁあああっ」
思わず胸元に伸びてきた、その手を叩いて、大人しくシーツの海に身を沈めることにした。
「い、いいです。
オトナじゃなくて、もう全然っ」
「おや、残念。
キスなんて出来ないことが、気にならないくらいめくるめく一時を味あわせてあげるのに」
さっきと言ってることが真逆になってますよ。
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