終
あれ? とおれの車を見て卯月さんが声をあげた。当然あるべきそれがないことに目を留める。これ、どうしたの? そう尋ねてくる。
「ああ、それね」
微苦笑を浮かべておれは応じる。ほろが大きく開けられて、車内がすっかり見渡せる現状、たとえ卯月さんじゃなくても目についたはずだ。でも、初めて気づいたのが卯月さんで良かった。どのような反応をしてくるかをみるには、彼女がもっとも適任なのである。そうおれは目を転じる。卯月さんに倣って、車の中――助手席が外された車内を望み見る。
いまだ違和感は拭いきれない。
――だがおれは違う。おれの目的は、それ――軽量化などでは断じてない。そう、これこそが、おれの証――
もう人は乗せない。
それこそが、おれの決意の証だったのだ。
……そのことを、卯月さんに告げる。あのときおれ、卯月さんの気持ちに応えられなかったけど、でも誰か他の人がいるわけじゃないんだ。おれの隣は、本当に空席なんだ。誰の要請にも応えるつもりはないんだ。
「まあもちろん、卯月さんが一緒にドライヴしたいって言うんなら、そのたびに助手席つけるけどね」
「…………」
おれの
しばらく彼女は
「良かったぁ」
さらに声を重ねてくる。彼女は表情と言語の両方で、自らの心情を言い表わす。良かった、わたしがダメ、っていうわけじゃなくて――、と。
「ていの良い断わり文句かと思っちゃってた」
「まさか、そんなわけないよ」
「そっか、本当に、関口くんの隣には、誰もいないんだ」
「ああ、もちろん」
おれは答える、
(人間はね。)
心中で
そう、おれはそこ――“菜子”の助手席に、人を乗せることを退けた。もうその場所は、永遠に指定席なのだ、その証拠にほら、
固いシート跡のそこで、今も“彼女”が、――“菜子”が、坐っているじゃないか。
“菜子”は、何か言いたげな視線で仰いでいる。坐席がない分、
眼差しを絡め合う。躰を重ねるように。それほどの熱量を、お互い視線に孕ませる。腕で抱きしめられたかと錯覚する。温柔な“彼女”のその腕に。おれも抱き寄せ、懐にしまい込む。唇で丁寧に肌をなぞる。“彼女”の形をとどめようと。不安定な形態の“彼女”を、しっかりと世界に馴染ませようと。“彼女”の存在をここに縫いとめてしまおうと、視線を用いて勤しんだ。
そんなおれに、声がかけられる。じゃあ、と。
(ああ、そうだ、卯月さんがいたんだ。)
おれは愛撫を中断し、彼女を見やった。彼女を瞳に映す。“菜子”に捧げていた
「!」
卯月さんはぼっと顔を赤らめた。おれの
「う、ううん、良いの」
「そう?」
「うん。……でもちょっとビックリしちゃった。関口くん、いつもあんな
「えん、そう……だね。うん。おれはこれが、この車が、本当に大切だからね。愛してるって、言っても良いくらいに」
予想以上の言を受け、卯月さんは
「卯月さん……」
「な~んてねっ。冗談よ、関口くん」
一転、
「わたし、やっぱり待つことにしたわ。関口くんが、隣に誰かを望むまで。そういう誰かを関口くんが求めるそのときまで、わたしも待つことにしたわ」
「卯月さん……」
「だって……、やっぱりわたし、諦められないんだもん、関口くんのことが」
「…………」
「ね、待ってても、良いかな?」
羞じらいに身を染めて、それでもはっきりと、彼女は上目づかいで問うていた。
考えるより先に、言の葉は開かれていた。待っていてくれるの? と。
「うんっ、もちろんっ」
「でも良いの? そういうふうに心変わりするの、いつになるか分からないよ? 卯月さんだったら、きっと、よりどりみどりのはずなのに、もったいないよ」
そう言うと、卯月さんは照れながら小突いてきた。もう~、なに言ってんのよ~、と。そしてそのまま、おれの腕、服の袖をそっと
わたしはあなたが良いの、と。
「…………」
「ありがと、嬉しいよ」
「ほんと?」
熟れた顔の卯月さんが、それを満開に綻ばす。あどけなさと大人っぽさが同居する、人生のうちでもわずかしか見られない、貴重な笑顔である。このもっとも美しいときを、彼女はおれのために
自動車と恋に落ちた、このおれみたいに――。
えへへ、と可愛らしく肩を
応える彼女は、
(――おれが支えなきゃ。)
瞬間、使命感に貫かれた。当然である、“菜子”を望み、その代償として、二人もの
ドアを開き、躰を滑らせる。運転席に坐り、“彼女”を呼び寄せる。おれの膝に坐るよう、“彼女”に懇願する。
「うん……」
おずおずと“菜子”は、おれの脚部に腰を落ち着かせる。不必要に躰を曲げる必要は、ない。物理法則を超越している“彼女”に、境界はまったく
反しておれのももは、圧を感知する。床しい重みと、心地好い冷たさを感受する。ああ、これこそが、彼女――菜子なんだ。逢いたかった、もう絶対に離さない、絶対に、絶対にだ。
「歩美くん……」
“菜子”は困惑する声音でおれの名を奏でた。情熱的にすぎるそれに、嬉しさよりも戸惑いが先行したようだった。心臓部たるエンジンが始動していないことも、原因の一であろう。
おれは……、
おれは、菜子が良いんだと。
そう卯月さんとまったく同じせりふで、“彼女”を抱擁した。
「歩美くん……」
「ねえ、菜子。菜子は、言ったよね? ずっと、ずっと大事にしてほしいって。
――するよ、する。何を犠牲にしようとも、誰の想いを
「…………」
「もう実際、おれは二人も後にしたんだ。それもただの知り合いじゃない。一人は親友と呼んでも差し支えないくらいに一緒に過ごしてきた、おれの人格形成に多大な影響を与えた友人であったし、もう一人は恩人である卯月さんだ。他でもない、あれだけお世話になったその卯月さんを、おれは選ばなかったんだ」
なぜだか解るよね? そう尋ねる。
「…………」
“菜子”は沈黙で応える。しかし瞳が、表情が、雄弁に物語っている。理由に至っていることを告げている。だからおれは、再び述べる。そう、菜子のためだよ、と。
「おれには菜子がいるから、だからおれは、卯月さんの想いに応えられなかったんだ。そしてセンゴクとも決別したんだ。裏切ったんだ。キミ、菜子のために」
「でも歩美くん……」
“菜子”は泣きそうだ。いや、じっさい瞳は、潤いを
だってわたし、『道具』――だから……。
血を吐くように、“菜子”は言った。
「そうよ、わたしは、みんなを幸せにする『道具』。わたしは『道具』であり、『手段』そのもの。わたしに乗って、思う様に操ることによって、運転手の人は喜びを獲得できるの。隣に誰かが乗っていたなら、その同乗者の人も。わたしはただ、提供するだけ。わたしは乗ってくれる人がいれば、それだけで満足できるの。……ううん、満足しなきゃいけないの。それ以上を望んじゃダメなのよ」
だから――、と“彼女”は空気の塊を呑みこんだ。続く言葉を
でもおれは知っているのだ、“彼女”の、“菜子”の本心を。
『――大切にしてほしい』
『――名前をつけてほしい』
ただの物質以上の愛情を、
なのでおれは躊躇わない。言葉という
愛してるよ、菜子、と。
「!」
「たとえ菜子が、道具だったとしても、構わない。おれは菜子が好きなんだ。だったらそれ以上、いったい何が必要なの?」
「…………」
「むしろ自分を道具だっていうんなら、自発的な意思は許されないっていうんなら、だったらおれの言うことも聴いてほしいよ」
「…………」
「だってそうでしょ? 命令に従うだけの機械だったら、拒否する権限もないはずじゃん。
違う? そう問い詰める。果たして“彼女”は無言のままだ。だがはっきりと揺れている。おれのそれが正論であると判断した証左だろう。
「菜子」
強い声音を形作る。自覚させるのだ、お互いの立場を。互換不可能なおれたちの関係を。
「菜子はおれの
「…………」
「菜子が今まで、一台の自動車として、娯楽を、喜びを提供する存在だったことは、おれも認めるよ。菜子が忠実に責務を果たしてきたこと、それも認めるよ。――でもおれは違う。おれの求めるものは、そんなものじゃないんだ」
「歩美くん……」
「応えてよ、おれの気持ちに。おれが欲しいのは、おれが好きなのは、ただのオープンカーなんかじゃない、菜子なんだ。取り替えの利かない、掛け替えのない、菜子という一個人が好きなんだ」
「…………」
「所有者が喜ぶことが自分の幸せだって、いつだか言ってたよね? だったらおれにもそうしてよ。おれを喜ばせてよ。それが菜子の務めなんでしょ?」
熱く語った。心奧でおれを焦がす、菜子へのひたむきな想いを、ありのままに伝えていた。きつく抱き寄せる。まるで同化しようとしているみたいに。おれは“菜子”を引き寄せる。
歩美くん……、もう幾たび呼ばれたか判らない、おれの名がまた囁かれる。“菜子”はゆっくりと顔を上向ける。ああ、おれのまなこを照らすのは、
そのとおりかもね、と。
「たしかにわたしの所有者である歩美くんに、そう命令されちゃったら、拒否する権利はないかもしれないわ。所有者を満足させるのが、わたしたちの存在理由なんだから」
「なら――」
「でも待って」
先走るおれは
果たして“彼女”は口を開く。おれに向け、誓約の言を紡ぎ織る。
わたしも決めたわ、と。
わたしも決めた、
そう、
わたしがあなたの、被、所有者に、なるということを――。
「……それは所有『物』なんかじゃない。わたしも決めた。もう物として生きないって。一個の人格を宿した、知的生命体として生きるって、そう決めたわ。だからこれは、わたしの自由意思を行使した結果なの。間違っても、命令されたから従ったんじゃない。わたしはわたし自身の意思で、ヒトとして、歩美くん、あなたと共に歩むことにしたの」
「菜子……」
決然と宣言したのち、“菜子”はもう一ど表情を和らげた。静かに顔を近づける。そっと
そして“彼女”は言った、
わたしも愛してるわ、歩美くん、と。
そうしておれたちは、久方ぶりに、唇を重ねたのだった――。
* * *
さて、これはまったくの余談で、別だん書き表わす必要はないのだが、いちおう後日談として追記することにする。
世界よりも“菜子”を、鋼鉄の桃源郷を選択したおれは、意表外の収穫物……いや、副産物としたほうが、よりふさわしいか……を手にしていた。完全に波長を、チャンネルを合わせた結果、おれは“菜子”だけではなく、オープンカーに宿る魂そのすべてが、認知できる体質になってしまったのだ。街で、郊外で、それらと擦れ違うたびに、目を奪われる。車輌のあちこちで自由に
そして結局たびごとに、おれは“菜子”の無用な嫉妬を刈り取ってしまう
鋼鉄のガールフレンド(仮) 星と菫 @star_and_violet
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