あれ? とおれの車を見て卯月さんが声をあげた。当然あるべきがないことに目を留める。これ、どうしたの? そう尋ねてくる。

「ああ、それね」

 微苦笑を浮かべておれは応じる。が大きく開けられて、車内がすっかり見渡せる現状、たとえ卯月さんじゃなくても目についたはずだ。でも、初めて気づいたのが卯月さんで良かった。どのような反応をしてくるかをみるには、彼女がもっとも適任なのである。そうおれは目を転じる。卯月さんに倣って、車の中――車内を望み見る。

 いまだ違和感は拭いきれない。左右非対称アシンメトリーは、どこか気分を落ち着かなくさせる。だが、世の中には、軽量化のために坐席を取り去ってしまう人が、一定数いるらしい。はなはだしく珍しいというわけではないのだ。利便性と引き換えとしてでも、わずかでも車体を軽くしようと試みる、いわゆる『走り屋』という人種ひとたちである。

 ――だがおれは違う。おれの目的は、それ――軽量化などでは断じてない。そう、これこそが、おれの証――人間ひとならざるものの、召喚の儀式だったのだ。

 

 それこそが、おれの決意の証だったのだ。

 ……そのことを、卯月さんに告げる。あのときおれ、卯月さんの気持ちに応えられなかったけど、でも誰か他の人がいるわけじゃないんだ。おれの隣は、本当に空席なんだ。誰の要請にも応えるつもりはないんだ。

「まあもちろん、卯月さんが一緒にドライヴしたいって言うんなら、そのたびに助手席つけるけどね」

「…………」

 おれの音韻おんいんに、と耳を傾ける卯月さん。果たしてどのような反応を示してくれるのだろうか。……他の人になら、幾らでも言いつくろえる。それこそ先述のように、軽量化のためとだって言えるだろう。でも、卯月さんは別だ。卯月さんには、誠実でいなければならない。そうでなくては、申し訳も立たないというものである。そう反応を窺う。彼女の微細な変調をも見逃すまいと。

 しばらく彼女は沈思ちんしする。そしてに顔をあげる。まるで朝顔の花弁かべんが、ゆっくりと開くかのように。その表情、彼女のかれていたのは――、安堵したそれだった。

「良かったぁ」

 さらに声を重ねてくる。彼女は表情と言語の両方で、自らの心情を言い表わす。良かった、、っていうわけじゃなくて――、と。

の良い断わり文句かと思っちゃってた」

「まさか、そんなわけないよ」

「そっか、本当に、関口くんの隣には、誰もいないんだ」

「ああ、もちろん」

 おれは答える、

。)

 心中で付言ふげんして。

 そう、おれはそこ――“菜子”の助手席に、人を乗せることを退けた。もうその場所は、永遠に指定席なのだ、その証拠にほら、


 固いシート跡のそこで、今も“彼女”が、――“菜子”が、坐っているじゃないか。


“菜子”は、何か言いたげな視線で仰いでいる。坐席がない分、彼我ひがの差はより大きくなっている。車輌の横におれが立っている現状では、“菜子”はほとんど真上に首を曲げなくてはならない。その“彼女”に微笑を贈る。ああ、ようやく、ようやくおれは、取り戻した。最愛の“彼女”を。“彼女”とに歩める日々を、幸せを、おれは掌中におさめることに、成功したのだ。

 眼差しを絡め合う。躰を重ねるように。それほどの熱量を、お互い視線に孕ませる。腕で抱きしめられたかと錯覚する。温柔な“彼女”のその腕に。おれも抱き寄せ、懐にしまい込む。唇で丁寧に肌をなぞる。“彼女”の形をとどめようと。不安定な形態の“彼女”を、しっかりと世界に馴染ませようと。“彼女”の存在をここに縫いとめてしまおうと、視線を用いて勤しんだ。

 そんなおれに、声がかけられる。じゃあ、と。

(ああ、そうだ、卯月さんがいたんだ。)

 おれは愛撫を中断し、彼女を見やった。彼女を瞳に映す。“菜子”に捧げていた赤心せきしんの余韻を、面影に残したままで。

「!」

 卯月さんはと顔を赤らめた。おれの温顔おんがんを目の当たりとして、彼女はまったく余裕を喪った。それは見ていて微笑ましいものだった。ごめんね、驚かせちゃって、調べる声音にほがらかなものが、混じってしまうくらいに。

「う、ううん、良いの」

「そう?」

「うん。……でもちょっとビックリしちゃった。関口くん、いつもあんな表情かおで、車を見ているの?」

「えん、そう……だね。うん。おれはこれが、この車が、本当に大切だからね。愛してるって、言っても良いくらいに」

 予想以上の言を受け、卯月さんは呼吸いきを止める。数秒後、とそれを吐き出して、複雑な表情かおを描き出す。なんかちょっといちゃうな、そしてと呟いた。

「卯月さん……」

「な~んてねっ。冗談よ、関口くん」

 一転、悪戯いたずらっぽく破顔する。そのまま勢いを借りて宣言する。やっぱり待ってよう、と。

「わたし、やっぱり待つことにしたわ。関口くんが、隣に誰かを望むまで。そういう誰かを関口くんが求めるそのときまで、わたしも待つことにしたわ」

「卯月さん……」

「だって……、やっぱりわたし、諦められないんだもん、関口くんのことが」

「…………」

「ね、待ってても、良いかな?」

 羞じらいに身を染めて、それでもはっきりと、彼女は上目づかいで問うていた。

 考えるより先に、言の葉は開かれていた。待っていてくれるの? と。

「うんっ、もちろんっ」

「でも良いの? そういうふうに心変わりするの、いつになるか分からないよ? 卯月さんだったら、きっと、のはずなのに、もったいないよ」

 そう言うと、卯月さんは照れながら小突いてきた。もう~、なに言ってんのよ~、と。そしてそのまま、おれの腕、服の袖をそっとまむ。握りしめる。顔を静かに着地させる。そうやって彼女は――、二たびおれに告白する。

 わたしはあなたが良いの、と。

「…………」

 暫時ざんじおれも思い悩む。告げようか否かと逡巡する。でも結局、述べていた。嬉しい、と。そう本心を伝えていた。

「ありがと、嬉しいよ」

「ほんと?」

 熟れた顔の卯月さんが、それを満開に綻ばす。と大人っぽさが同居する、人生のうちでもしか見られない、貴重な笑顔である。このもっとも美しいときを、彼女はおれのために無為むいに過ごすという。良心にと咎めを負った。ふさわしい他の誰かに、譲るべきではないだろうかと。しかしすぐに思い直す。卯月さん自身がそうしたいって思ってるんだ、だったら口を挿む必要ことなんてない。どう思おうが、どう行動しようが、それはまったく彼女の自由なんだから。そう、たとえ実らぬ恋に身を焦がし続けたとしても、慕情をいだき続けたとしても、それは彼女が決めたことなんだ。卯月さん自身が、悩んだ末に導き出した結論なんだ。だったら本人の自由にさせてあげよう。他人の観測結果を、価値観を圧しつけるのは間違っている。そう、幸せの形は、人間ひとの数だけあるんだ、

 自動車と恋に落ちた、このおれみたいに――。


 えへへ、と可愛らしく肩をすくめて、卯月さんは小走りに駈けていった。やはりほんの少し羞ずかしかったのだろう、そう心中を推し量った。改めて車内に身を向ける。一連のやり取りをに写し取っていただろう“菜子”に、曖昧な笑みを送る。

 応える彼女は、数倍すうばい複雑そうな表情かおである。まだ割り切れてはいないだ。自分のせいで、と呵責かしゃくを感じている。だがそれも仕方ない。人々を喜ばせ、、楽しませ、幸せにするために、“彼女”は製造うまれてきた。それなのに、自分という存在のせいで、ぎゃくに周囲に軋みを与える結果となってしまっている。その様を見るには、“彼女”はあまりにも純真にすぎていたのだ。

(――おれが支えなきゃ。)

 瞬間、使命感に貫かれた。当然である、“菜子”を望み、その代償として、二人もの清心せいしんを踏みにじったのは、紛れもなくこのおれなのだ。“彼女”が自責ををいだく必要なんて、まったくないのである。

 ドアを開き、躰を滑らせる。運転席に坐り、“彼女”を呼び寄せる。おれの膝に坐るよう、“彼女”に懇願する。

「うん……」

 と“菜子”は、おれの脚部に腰を落ち着かせる。不必要に躰を曲げる必要は、ない。物理法則を超越している“彼女”に、境界はまったくかせとならない。その証拠に、横向きに坐した“菜子”の、剝き出しの脚は、ドアの中に吸い込まれていた。

 反しておれのは、圧を感知する。床しい重みと、心地好い冷たさを感受する。ああ、これこそが、彼女――菜子なんだ。逢いたかった、もう絶対に離さない、絶対に、絶対にだ。

「歩美くん……」

“菜子”は困惑する声音でおれの名を奏でた。情熱的にすぎるそれに、嬉しさよりも戸惑いが先行したようだった。心臓部たるエンジンが始動していないことも、原因の一であろう。暖気だんきされていない“彼女”は、至って知的で冷静なのだ。だがかえって好都合である。いっときの感情に流されるのではなく、十全な判断力を伴う状態で、伝えたかった。機械に頼らず、まったくおれののみで、“彼女”を温めたかった。だからおれは紡ぎ出す。心にたぎる熱き想いを、言の葉に託し告げる。

 おれは……、


 おれは、菜子が良いんだと。


 そう卯月さんとまったく同じで、“彼女”を抱擁した。


「歩美くん……」

「ねえ、菜子。菜子は、言ったよね? ずっと、ずっと大事にしてほしいって。

 ――よ、する。何を犠牲にしようとも、誰の想いをないがしろにしようとも」

「…………」

「もう実際、おれは二人も後にしたんだ。それもただの知り合いじゃない。一人は親友と呼んでも差し支えないくらいに一緒に過ごしてきた、おれの人格形成に多大な影響を与えた友人であったし、もう一人は恩人である卯月さんだ。他でもない、あれだけお世話になったその卯月さんを、おれは選ばなかったんだ」

 なぜだか解るよね? そう尋ねる。

「…………」

“菜子”は沈黙で応える。しかし瞳が、表情が、雄弁に物語っている。理由に至っていることを告げている。だからおれは、再び述べる。そう、菜子のためだよ、と。

「おれには菜子がいるから、だからおれは、卯月さんの想いに応えられなかったんだ。そしてセンゴクとも決別したんだ。裏切ったんだ。キミ、菜子のために」

「でも歩美くん……」

“菜子”は泣きそうだ。いや、じっさい瞳は、潤いをたたえ始めている。心が引き裂かれそうなのだ。いまだ素直に受け取ることはできていなかった。何に由来しているのかは、もちろん理解できる。そう、“彼女”は、“菜子”は。


 だってわたし、『道具』――だから……。


 血を吐くように、“菜子”は言った。

「そうよ、わたしは、みんなを幸せにする『道具』。わたしは『道具』であり、『手段』そのもの。わたしに乗って、思う様に操ることによって、運転手の人は喜びを獲得できるの。隣に誰かが乗っていたなら、その同乗者の人も。わたしはただ、提供するだけ。わたしは乗ってくれる人がいれば、それだけで満足できるの。……ううん、。それ以上を望んじゃダメなのよ」

 だから――、と“彼女”は空気の塊を呑みこんだ。続く言葉を嚥下えんかした。その裡に、どのような言葉が、感情が、含まれていたのだろうか。……忖度そんたくするまでもない。“菜子”は囚われ続けているのだ。自身の存在理由レーゾン・デーテルに。もっぱら提供するために製造つくられた“彼女”。その“彼女”にとって、無機物の枠を超えて愛情を注がれるのは、自分には分不相応だと決めつけているのである。

 でもおれは知っているのだ、“彼女”の、“菜子”の本心を。

『――大切にしてほしい』

『――名前をつけてほしい』

 ただの物質以上の愛情を、こいねがっていたという事実ことを。

 なのでおれは躊躇わない。言葉という彩管さいかんふるう。おれの想いを。おれの純真を。それを“彼女”の心という純白の画布カンバスに描画する。


 愛してるよ、菜子、と。


「!」

「たとえ菜子が、道具だったとしても、構わない。おれは菜子が好きなんだ。だったらそれ以上、いったい何が必要なの?」

「…………」

「むしろ自分を道具だっていうんなら、自発的な意思は許されないっていうんなら、だったらおれの言うことも聴いてほしいよ」

「…………」

「だってそうでしょ? 命令に従うだけの機械だったら、従順おとなしくおれの言うことも聴いてほしいよ」

 違う? そう問い詰める。果たして“彼女”は無言のままだ。だがと揺れている。おれのそれが正論であると判断した証左だろう。ゆえにさらに畳みかける。そうだ、何を遠慮する必要がある、おれは“菜子”の――所有者なんだ。

 強い声音を形作る。自覚させるのだ、お互いの立場を。互換不可能なおれたちの関係を。

「菜子はおれの所有物ものなんだろ? だったら反論は許さない。おれの決定に聴き従えよ」

「…………」

「菜子が今まで、一台の自動車として、娯楽を、喜びを提供する存在だったことは、おれも認めるよ。菜子が忠実に責務を果たしてきたこと、それも認めるよ。――でもおれは違う。おれの求めるものは、そんなものじゃないんだ」

「歩美くん……」

「応えてよ、おれの気持ちに。おれが欲しいのは、おれが好きなのは、ただのオープンカーなんかじゃない、菜子なんだ。取り替えの利かない、掛け替えのない、菜子という一個人が好きなんだ」

「…………」

「所有者が喜ぶことが自分の幸せだって、いつだか言ってたよね? だったらおれにもそうしてよ。おれを喜ばせてよ。それが菜子の務めなんでしょ?」

 熱く語った。心奧でおれを焦がす、菜子へのな想いを、ありのままに伝えていた。きつく抱き寄せる。まるで同化しようとしているみたいに。おれは“菜子”を引き寄せる。

 歩美くん……、もう幾たび呼ばれたか判らない、おれの名がまた囁かれる。“菜子”はゆっくりと顔を上向ける。ああ、おれのを照らすのは、月輪げつりんのごとき柔らかな笑顔。眩しすぎず熱すぎず、おれの頬をいている。そんな薄衣を連想おもわせる笑顔で、“彼女”は滑らかに告げてきた、

 そのとおりかもね、と。

「たしかにわたしの所有者である歩美くんに、そう命令されちゃったら、拒否する権利はないかもしれないわ。所有者を満足させるのが、わたしたちの存在理由なんだから」

「なら――」

「でも待って」

 先走るおれは牽制けんせいされる。どのような経緯であれ、願った場所ところに落着すれば良いと考えているおれとは“彼女”は意をことにする。そう、“彼女”は、決心したのだ、これから自分が、どうやって生きていくのかを。凛とした声で静止してことから、それが窺い知れた。“菜子”もまた、表明しようとしていたのだ、己の決意を。その覚悟のほどを。

 果たして“彼女”は口を開く。おれに向け、誓約の言を紡ぎ織る。

 わたしも決めたわ、と。

 わたしも決めた、

 そう、


 わたしがあなたの、被、所有者に、なるということを――。


「……それは所有『物』なんかじゃない。わたしも決めた。もう物として生きないって。一個の人格を宿した、知的生命体として生きるって、そう決めたわ。だからこれは、わたしの自由意思を行使した結果なの。間違っても、命令されたから従ったんじゃない。わたしはわたし自身の意思で、ヒトとして、歩美くん、あなたと共に歩むことにしたの」

「菜子……」

 決然と宣言したのち、“菜子”はもう一ど表情を和らげた。静かに顔を近づける。そっとまぶたを閉じる。

 そして“彼女”は言った、


 わたしも愛してるわ、歩美くん、と。


 そうしておれたちは、久方ぶりに、唇を重ねたのだった――。


     *   *   *


 さて、これはまったくの余談で、別だん書き表わす必要はないのだが、いちおう後日談として追記することにする。

 世界よりも“菜子”を、鋼鉄の桃源郷を選択したおれは、意表外の収穫物……いや、副産物としたほうが、ふさわしいか……を手にしていた。完全に波長を、チャンネルを合わせた結果、おれは“菜子”だけではなく、オープンカーに宿る魂そのすべてが、認知できる体質になってしまったのだ。街で、郊外で、それらと擦れ違うたびに、目を奪われる。車輌のあちこちで自由にくつろぐ、“彼女”たちのもない容態を。それだけではない、ぎゃくもまた然りである。おれが見ていることを知ると、“彼女”らは皆一様に驚いて、そののち友好的な、……いいや、蠱惑的こわくてきな態度を示してきた。例外はいない。“彼女”たちも当然のように、異種間の交流、または接触を望んでいたのだ。

 そして結局に、おれは“菜子”の無用な嫉妬を刈り取ってしまう破目はめに陥るのだが、それはまた、別のお話。

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鋼鉄のガールフレンド(仮) 星と菫 @star_and_violet

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